【幸若舞曲一覧(リンク先)】
(はじめに)
信田、志田とも書く。幸若舞の作品。平将門の孫の信田小太郎(しだのこたろう)の話。
平将門は乱を起し下野の国を占拠、平新皇と自称したが、藤原秀郷らに討たれた
平将門の子・小次郎将国は「相馬」を称した。将国は父・将門が討たれたとき、家臣に我が子・文国を託して常陸国信太郡(茨城県土浦市)に逃れさせ、文国は長じて信田小次郎を称した。
1 相馬の御台、婿の小山に肩入れ
すでに承平は七年にて改元し、天慶九年に変わる天暦十年乙卯末つ方の事(平将門の承平天慶の乱)で、相馬殿(将門の子)の姫君を小山太郎行重(藤原秀郷流の豪族)に嫁に取らせられる。
小山の太郎行重は、望む所領の叶う上、喜びこれにしかじとて、姫君(千手姫)を迎えもてなし大切にして申す。
一つには、舅(相馬殿)の死者の霊魂供養を行い、山河の殺生を禁断し、ある時は布施をし、またある時は経を書き、心を籠めて供養した。
信田にまします (相馬殿と死別した)御台所は、これを伝え聞し召されて、小山太郎行重は荒男かと思っていたら情けのある人であり、親の事を思う者でもあり世に稀なる事である、ましてや見知らぬ舅をかように深く弔う事は本当に頼もしい心がけである、時々こちらに来られ、亡くなった夫相馬殿の形見とも見えるとこそ仰せけり。
ある時、御台所は、(将門以来の重臣の)浮島太夫を呼んで仰せける、相馬殿の末期の時の覚えは忘れられん、あれほど多くの所領があるのに姫に一所も譲らなかった、たとえそれ程与えなくても、婿の思わん所もあり、(常陸国の)信太の庄を半分分け、(娘婿の)小山太郎に与えてやれば、信田にとって立派な後援者、余の郎等を百騎、二百騎頼まんよりも、一人なりとも小山は真に頼りがいのあるやつだ、よく考えてやろうではないかと相談する。
重臣の浮島太夫はしばらく黙って答えようとしなかったが、しばらくして申しけるは、亡き殿が悪い御処置などを言い残しておかけるでしようか、それ武家では姫はついには他人となるもの、婿は姓を異にするもので近い関係ではない、移れば変わる世の習い、格別にお思いになるのなら、折々の引出物に宝をば尽くさせ給ふとも、所領においては一所も譲らせ給うべからず。
人には貧欲虚妄(欲しい物は騙してでも手に入れる)とて、欲心内に含めば親しき中も疎(うと)うなり候、よそよそしい他人行儀の御対応が、逆に子々孫々までの喜ばしい関係を保つこととなるでしようと、小山殿に御対面も無益の御事たるべし、とんでもないこととして、すげなく反対申し上げた。
御台所この由聞し召し、お返事もなさらず立たせ給い、早くも相馬に先立たれ家来にまでも軽んじられ、おかしな者と思われるとは、なんと不幸せなのだろう、なまじ憂き世に有って後家として家を構えていても、意味のない事だ、嫡男信田殿に暇を乞い尊き山の隠れ家にでも引き籠らばやなんどと深くぞ恨み賜わりけり。
息子の信田殿聞し召されて、母上がお恨みになるのはもっともな事だ、明日の事はどうなろうとも良い、一人まします母上の御意に洩れては詮なしとて、信田の庄を半分分け母上に参らせらる、母上御喜び有て小山の館へ贈らせ給う。
2 小山、信田殿の全所領を横領
小山大層喜んで、一つには婿入り、又は喜びの所領に入りなりければ、網代張りの輿は八挺、略式の輿は十二挺、総じて騎馬は三百騎、上下花めき盛大に信田の館に移られける。
新殿を作らせ、かくてここに住み給い、新しいお館様と時めき、信田の先祖からの郎等ども日々に出仕は暇もなし、されども、浮島父子六人は、折々ばかりの出仕にて、一切御前勤めもしなかったので御台所のおぼえも悪くなり、世間の様子を見るにつけ、将来必ず争い事が起こりそうなので、長生きできそうにもなく、思い切って信太(茨城県つくば市)の河内に引き籠り隠居してしまった。
御台所、この由御覧じて、あらおかしの浮島の振る舞いや、そもそも、あの浮島を郎党に持っていないと、所領が維持できないとでもいうのか、小山殿一人さえいて下されば何の子細の有るべきと、反対する者の居なくなった事を喜び思い通りにしていた。
さりながら、浮島太夫は隠居してしまい信田殿は未だ幼稚なリ、大事の地券(所領の証書)や代々伝わる文書一揃え、家に伝わる重宝を、自分の手元に置いていても意味はないとて、一つも残さず押し捲って小山太郎に預けられる。
さる間、小山人無き所に引き籠り、詳しく見るに、平将門代々より持ち伝えたる証文ども一つも残らずここに有り、何々、信太、玉造(茨城県行方郡玉造)、東条は八万町の所なり、あらおびただしや、この内わずか一万町、某に知行仕るをだに、よに不足もなきと存ずる、ましてや残る七万町、常陸、下総両国の大炊助(食料を司る役所の次官)となるならば、我にましたる弓取りの国に二人ともあるべきかと、やがて大欲心が出で来る。
係る目出度き重宝をそうなく預かる事、天の与えと存ずれば、安堵(所領保障)を得るために、熊野詣でに事寄せて急ぎ国を打ち立って都へぞのぼりける。
関白殿下にすがって安堵の旨を奏聞申す、帝からの勅旨には、相馬が後を申すは何者ぞとの宣旨なり。
相馬が為には一子で候、代々の土地の相続等一切を証明する書類証文、代々の御書を証拠書類として参らせ上げ道理を通して奏聞す、その上、自分の国は豊かに潤っている、要人にも役人にも荘官にも財宝をふんだんに使って贈り物を奮発した。
天皇にも黄金、宮中馬寮の馬、美しい衣装、金銀の類、数を尽くして参らせ上げる、左右の大臣、后の宮、女房達、その外の人々にも宝をあかせて勇ませたりけり、例え反対する側が妨害しても成就しないはずがなかった、思いのままに言上して安堵賜わり下りけり。
3 御台と信田殿を追放
さる間、小山道々案じけるは、御台所と信田殿に、少しなりとも援助しよう扶持せばやと思うが、いやいや自分にとって厄介な者共を生かしておいたなら、将来災いの種になるだろうと思うが、それも余りの情けなし、所詮領内に置かぬまでと思い。
国元に着いた時、先に人を立、御台所と信田殿に常陸下総の両国に安堵は叶うべからず、遠き国の知らぬ里へ、とく落ち行き給え、片時も国に残って我を恨み給うなと追っ立ての使いを立てる。
御台所、この由聞し召し、まるで夢でも見て、現実の事とは判断もつかず、小山殿の心には悪魔が入代わったのであろうか、如何なる事にてそのように言うぞと口説き嘆き給えども、乱暴な使者にて情けを捨てて振る舞えば、浮島太夫の言葉の末今更思い知らされたり。
さて、このままで居るわけにもいかないので、信田殿ばかり御伴にて涙と共に出で給う、今日出でて又帰るべき道だにも分れと言えば物憂きに今日出でてのその後に、帰らん事も難しかるべし。
行くも留まるもおしなべてもろきは今の涙かな、甲斐の国に聞こえたる板垣の里(山梨県甲府市)という所に尋ぬべき人ありて、彼の里までは落ち行き給えども、尋ね人も行方知らずとなっており、何かに着けて頼りなく今はいずくへ行くべきぞ、名は板垣と言うけれど風もたまらぬ荒屋に宿借りてこそ居わしけれ。
4 郎党の勧めで訴訟の上洛
珍しからぬ事なれど頼もしきは人の郎等なり、相馬先祖からの家人薩島兵衛、村岡五郎、岡部弥次郎、田神左衛門、この人々を先として以上十一人御跡を慕い申し板垣の里に参り、君を見つけ申す喜ぶ事は限りなし。
さてさて何とすべきぞと内々の相談評議は様々であった、その中でも薩島兵衛進み出でて申す。
我等が先祖の薩島太夫、主君郎等のの契約を申し君も我等も三代なり、承平五年平将門が父の遺領を巡って伯父国香と抗争しこれを討った承平の合戦始まって数度の戦い有りしかども、最後まで負けることはなかった、けれども君も若く御座有りて、我等も若き者なれば小山殿に軽んじられ、何にも代えれない所領を横領して君を追い出し申す事の残念さよ。
何時までこの屈辱に耐えることが出来ようか、敵は大勢なれども少人数で立ち向かう計略は夜討ちに勝るものはなし、元より我ら案内者暇を窺い忍び入り、三方より火をかけ一方より切って入り、一騎万騎が中なれども思う敵は只一人、小山一人と組討するのに何の問題有ろうかと、今すぐにでも簡単に事が運びそうな計略を立てた。
中でも豊田太郎の申しよう、これこそよからぬ詮議なり、当然の権利を持っているのに非常手段での訴えはとんでもない事、何度も被告と裁きの場で対決した訴訟ではない、一問答、二問答、三問答で負け終わっても不服があり再審の裁判がなされることは規則なり。
ましてや敵方は思いのままに言いつくろって賜わった所領安堵である、これは相馬の御子とは世間に広く知れ渡っていることである。
たとえ証文の文書が小山方に有ったとしても、盗み取られたと証言しどうして取り返せないことがありましょうかと言いければ、なるほどこの意見に賛成であるとて、御台所と信田殿を連れて都へ上りけり。
5 小山、信田を調伏
小山この由伝え聞き、されば恩を見て恩を知らざれは木石の如し、哀れみを垂れ助け置たれば敵となるこそ安からね、上洛して訴訟されてはかなわない、道にて追い詰め討てやとて屈強の兵七十余人差し遣わす。
かかりつけるところに、小島の五郎の申しよう、討っては国に隠れ候まじ、正しい理由がないからこそ討ったのだと、直ぐに所領を召し上げられるでしょう、されば昔が今に至るまで力に及ばぬ敵をば神仏申す事のたちまち叶う由を承れば信田殿を調伏めされて御覧ぜよと申す。
小山げにもと思い、やがて鹿島神宮へ使者を立て、神主急ぎ招き寄せ、いつもよりは歓待して心を尽くしてもてなした。
酒も三献と見えし時砂金百両、よき馬に鞍置いて引っ立てたり、神主悦喜の色見えそわそわと気のはやるそぶりが見えた。
小山、今が頼みごとに良い頃合いと思い辺りの人を遠ざけ、信田殿を調伏すべき由をたとへに頼み奉る。
神主気色変わってこれは残念なご命令です、我等は鹿島の社人にて、天長地久、御願円満、息災延命と祈るより外、別に秘術は候はず、殊更人を調伏する事は何と言っても神仏が御覧になっていることが恐ろしい事。よって、さるべきほどの高僧に仰せ付けられ候と立って逃げんとする。
小山これ由見るよりも、居たる所をづんと立ち袂を取って引き止め、さては御辺は敵方と一所の人や、一期の浮沈、身の大事を有のままに語らせて頼まれないとは何事ぞ、仕方ない生かしては帰すまじけれとて、既に討たんとしたりければ、どうすることも出来ず神主は了承した。
にわかの事にて吉日を選ぶまでもなし一所を清め壇を立てて本尊を安置したりけり。
調伏の段の次第は恐ろしくぞ見えにける、四面の壇を飾って、花瓶に木瓜(ぼけ)の花、護摩壇で焚く乳木に山空木(やまうつぎ)、清めの灑水にいもりの血、供え物には稲を刈り取った後の株から生えた稲の実を盛って、焼香、粉末香、牛の骨、花飾りとして馬酔木の花を盛り、仏に供える水に白蛇の水を垂れ、既に灯明には細木の油立にけり。
飲食日々に変わって初一日の本尊、地蔵薩埵南向き、二日は観音北向き、三日は勢至東向き、四日は阿弥陀西向き、五日は軍茶利、降三世明王、六日は既に金剛夜叉、七日に当たる日は中尊不動明王、責めに責めてぞ祈りける。
されども道理なきによって、その験見えざれば、行者面目失いて二十七日ぞ、加持祈祷を行った、これにも験見えざれば、唵、呼ろ呼ろ、旋陀利遮那、摩訶廬舎那とぞ責めにける、数珠の緒疲れ切れれば仏具五鈷を持って膝を叩き、三鈷を持って胸を叩き、独鈷をもって頭を打ち、頂を討破り、脳天から流れ出た血をば不動の利剣に押し塗って、これは調伏人の身の血なりと、目を閉じ心を集中させ念じて、天地を動かし責めければ余りに強く責められて。
不動明王を中心とした東の降三世、西の大威徳、北の金剛夜叉、南の軍荼利の五大尊は振動して。
降三世は独鈷を振り、金剛夜叉は鉾を使う、大威徳の乗牛が角を振ってぞ吠えにける。
中尊不動の剣に先に生血が付いて見えしかば、一方は成就したりとて、壇を破らせ給いけり。
6 御台所の死
あら、いたわしやの信田殿、これをば夢にも知らないで、明けぬ暮れぬと上らせ給いけるほどに、尾張の国に聞こえたる黒田の宿に着かせ給う、されども調伏限りあるによって信田殿には負い給わで、母御台に負い給う事のいたわしさよ。
されども上らで叶わぬ道、悩みながらも上らせ給う、日数洋々重なりて近江の国に聞こえたる番場の宿(滋賀県米原町)に着かせ給う、身体日々に衰え歩く事も叶わねば四五日逗留し給えリ。
信田殿を始め奉り十一人の人々は、後や枕に立ち寄りて如何わせんと嘆くとも、ついには叶わぬ生死の道(母御前)明日の露と消え給う、哀れと言うも余りあり。
信田殿の御嘆き例えを取るに試しなし、誰でも死からは逃げれないが、かかる哀れは稀なるべし。
さて、このままにしておくわけにもいかず、無縁の人を語らいて煙となすぞ哀れなる。
十一人の人々は、一つ心に申すよう、信田殿(まだ元服前で争うにも勝ち目がなく)の御運もこれでおしまいだと思われたり、いつまでも付き添い奉り京よ田舎と辛苦せん、また他の主君に変わることは武士の同義に背くので、これを菩提の知識とし出家しようと思うとて、忍び忍びに元結を切り、まどろみ給える信田殿の枕上に取り置いて暇乞いを申したけれど、さぞお慕いになることでしょう忍び音泣いて出て行く。
さすがに多年の御馴染み、頼みし君にてましませば、名残りの惜しさは限りなし、されども思い切りつつ別れ別れに成りにけり。
7 頼る者のない信田の苦境
天(夜)明ければ信田殿、御目を覚ませ給いて、嘆いたところでどうにもならず、急げ急げと仰せけれど御返事申す者もなし、これは如何にと思し召し、かっぱと起きさせ給いて、辺りを御覧有ければ、ああ何と云う事十一人の人々の髻(もとどり)ばかりぞ残りける。
信田殿、この由御覧じて、何と薄情な事よ、どうせ出家するなら何故一緒に連れて行かないのか、子供の信田一人をどうなれと思って置き捨てにし何処へ行ったのかと口説き嘆き給えども、それの何も残されていない。
腹を切らんとし給うところへ、宿の亭主参り細かく問い尋ねるので、始め終りの事どもを詳しく語り給う。
亭主承って、それほどの正当な理由を持っていながらどうして都に上り訴訟しないのかと申せども、供人一人もいないで憂き世に住んで詮もなし。
不思議に尋ねる者あらば、かく成つると語れとて、念仏申し刀を抜き既に自害と見え給う、亭主余りのいたわしさに御刀を奪い取り、自害を止め給えよと、都までの御供をばこの男が申すべし。
命を全う持つ亀は蓬莱に逢うと伝えたり(長生きした者は死後も安楽である)、辛き人の果てをば生きてぞ見果て給うべき(ひどい目に合わせた人の最後を生き抜いて見届けるべきです)死んでは何の意味もありませんと、止め申したりければ、御自害は止まりけり。
明くれば、亭主御供して都へとて上りける、五条に宿を取りて置き、訴訟のやり方を教えて、亭主は暇賜わりて番場の宿に下りけり。
信田殿ただ一人都に留まり給えども、羽抜けの鴨の水波に浮かれ立たん(身動きできない)風情し、片輪車のなかなかに遣る方もなきごとくにて(牽くに牽けないどうすることも出来ない)、都に日をば送れども沙汰する旨もましまさず(訴訟を起こす事もなさらず)、田舎の縁を伝へねば長在京も叶わずし、便りものうておわします。
8 小山、信太殿を門前払い
結局できない事をあれこれと考えるのは逆に愚かしい限りだ、我常陸の国へ下り姉御を頼んで居んずるに、成人の後、便暇を窺い、一刀恨みん事何の子細の有るべきと、思し召されける間、珍しからぬ信太へは又こそ下りけるとかや。
分限があるならば、自分こそ人の面倒を見なければならない立場であるのに、時勢には逆らへないからとて、小山の門の辺に佇んで、案内と仰せければ内からは誰ぞと答える。
信田にて候、万事は頼み奉る降参なりと仰せければ、小山この由伝え聞き、当然こうなって然るべき、迎え入れたいけれど所存の内を察するに、隙を窺い一刀恨みんために来てること鏡に映してみるように明らか、押さえて討ちたけれども、降伏したものは殺しはできず、片時も我を恨み給うなと門より内へ入れざるはいとど無念ぞ勝りける。
あらいたわしや信田殿、遥々近く巡り来て父の御墓を今ならでは、いつの世にかは拝むべきぞと思し召し御墓に参り給い。
草木の花を摘み手向け、どうして不幸な自分を極楽にお迎え下されないで辛い世に残されたのかと口説き嘆き給えども、亡霊なれば墓より御声出る事もなく、風が松の枝を吹き鳴らすだけ、草の露の裾も袂もうちしほれ尽きせぬ物は涙なり。
9 浮島、信田を守護する
御墓から出る時、太刀を脇にはさみ編笠深く人目を忍ぶ者に参り会う、御覧ずれば別れて年久しき浮島太夫なり。
かねては知らざる住吉(過ぎ)の松(待つ)年なれば喜びを、引き合わせたる幸いとて具して河内に帰り、五人の子供を近付け、これこれ拝み申せ汝らが恋い奉りたるに、亡き殿の御引き合わせで参り会うたるは滅多にない事此の事は隠しても世間に広く知られるであろう。
この山里は昔よりよき城郭、敵が攻めても容易くは落ちず、汝らに戦をさせ年を送って居んずるに、これが都に漏れ聞こえ、国の乱れは何事ぞと上のお使い立つならば、取り続き再審請求して勝訴するまで道理を尽くすべし、今でこそ非常事態の僅かの勢力ではあるが、終には国を治めるほどの大勢力になる。
にわかに慌てて谷々峰々尾続きを掘り切らせ、上からの落とし丸太、大石を落とす仕掛け、あちこちの要所要所に張り巡らせ、篝火焚いて楯垣を作り油断するなと下知すれば、子供も喜んで、とても消ゆべき露の身を君ゆえ死なん嬉しさやと勇ましくも頼もしき。
10 浮島と小山の合戦
隠していたが、この事小山へ聞こえければ大いに驚き、さては先祖の郎党浮島が頼まれけるや、あちこち廻文を廻し同志を募らせ大変な事になる。
まだ力なき先に早よ寄せよと申す、承ると申し小山の執事横須賀を大将にて一の木戸に攻入り大勢討たれ引き返す。
これは叶わないと小山の舎弟三郎行光三千余騎で戦うが大勢討たれ引き返す、そこで自分(小山太郎行重)が行かないと勝てないと出陣すれば、常陸下総の両国に残る兵は一人も無し(ほどに)。
城ではこれが勝敗の決め手になると先途戦いけれど、寄せ手側は国が一つになって谷や峰、平地に道を作って兵を入れ替え攻めれば、僅かの兵で持ちこたえられようか二三の木戸を討破られ本丸に立てこもって戦った。
父の太夫櫓の上で大声で、命を惜しむ戦いは時と場合によるぞ、世に有る人を主に持ち末を頼む時にこそ命も惜しく思われる、いつまで生きて何時に世に出べしと覚えず、子供は亡きか討死にせよ、太夫も心安く腹切らんというままに、例の大弓取りい出し予備数多持ち矢櫃を三箱担がせ正面の櫓に走り上がって。
いかにや女房こなたへ来て狭間引いてくれ戦してみせんと有りし時、女房生年五十六白髪交じりの髪を唐輪に上げ、薄絹被り櫓に上がり、何ゆえ子供は戦いにひるんで遅れを取っているのかと、しきりに力を付けられて早、浮島太郎懸け出づる。
その日を最後と思えば、竜を縫いたる直垂に鬼型絵柄染出しの籠手、白檀磨きの脛当て、熊皮揉みの足袋、銀縁金渡し開口高に踏んごうだり、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の巳の時と輝くを綿噛とって引っ立て、草摺長にざっくと着、結って上帯ちょうど締め九寸五分の鎧通しを右手の脇に差しいたり、一尺八寸の打刀を十文字に差すままに、三尺八寸候いし赤銅作りの太刀佩いて四十二本の鷹薄びょうの矢羽の矢を筈高に取付け、同じ毛の五枚甲に鍬形打って猪首に着る、白綾の母衣をさっと掛け塗籠めの弓の四人張りの強き弓、三戸(青森県)地方産の白葦毛七寸八分明け六歳の駒に金縁張りの鞍を置き弓杖にすがり、ゆらりと乗り堀の岸辺に駒を据ゆる。
兄弟五人の者共が各自好みの甲冑を着、心々の馬に乗り互いに手綱を取り違え、駆けよう駆けじとしたりしを敵味方がこれを見て、あっぱれ武者の勢いかなと誉めぬ人こそなかりけれ。
父の太夫櫓の上にてつくづく見て、あれあれ女房御覧ぜよ何れも器量は劣らぬよ、立派な我が子たちを世に送り出して領主にさせることもなく、只今殺してしまうのは何とも惜しい事だ。
はや死ね子供とは言いながら今を限りの事なれば、今一度こなたへ顔見せよ、誰も名残は惜しいぞと、さしもに剛なる太夫もはらはらとぞ泣き居たる。
11 浮島の妻の奮闘
女房がこれを聞きからからとうち笑い、老いに惚れたか太夫殿別れ際の泣き言ですね、泣いても叶うべき道かや、如何にや子供戦は大変な事、心が剛なるばかりにて兵法知らで叶わず。
味方無勢に有りながら敵の陣に掛るには、鋤先、尖矢形、魚鱗、鶴翼の陣形なり、魚鱗の駆け足は魚の鱗を学べり、鶴翼と言えるは鶴の羽形を表したり。
手綱の使い方を知らなくては敵を思いのままに斬る事は出来ませんぞ、向かう敵を斬る時は蹴上の鞭を丁度打ち、表返しの手綱をすくい、拝み斬りに切捨てよ、左手にかかる敵は手綱を上に挙げ走行の鞭を打って斬れ、右手へかかる敵は太刀の柄を返しさはらの鞭を打って斬れ、ここで見ているから桟敷の前の晴れ戦ぞ、油断失敗するな子供。
子供に力を付けんがため、狭間の板を討ち叩きからからと笑いけり、父にも母にも勇められ大声懸けて駆け出づる。
前の河原は石だらけ、習い伝えし手綱の秘事、教え置かれし鞭の曲、無窮に馬を乗り連れ懸けてはざっと引いてみれば、前の河原の石よりも多きは死人なりけり、取って返してざっと駆け五六度まで戦うたり。
女房これを見て、子供の戦の面白さに、後ろ攻めして加勢してやろうとて、被った衣をさっと下ろせば下は武者に出で立ったり、紅の袴の下に膝鎧に脛当てし萌黄匂の鎧着、長い髪を唐輪に据え、太夫が好みし黄楊棒をしばし貸せとて打ち担ぎ、正門の木戸を開かせ堀の端側に駒を据え。
大声での名乗り、如何にや小山の人々我をば誰と思うらん、陽成院(清和天皇第一皇子)より三代(源満仲の嫡男)、摂津の源頼光に五代なる渡辺党に大将軍、弥陀の源次が娘に弥陀夜叉女とは自らなり年積もって五十六、二つと無き命をば信田の子息に奉るぞ、我と思わん人々は駆けよ手並み見せんと、兜を取って着て既に駆けんとしたりけり。
12 浮島夫婦の最期
父の太夫、櫓の上にてつくづく見て、子供が剛なるは道理は母の心が剛なれば、かほどなる者共が、親子兄弟夫婦と成って寄り合いけるこそ不思議なれ、如何にや御寮(御子息殿)、こなたへ御出で有って女戦を御覧ぜられ候へ例少なき事どもとて、信田殿を櫓に請じ申し詳しく見て奉て。
平将門は御眼に二つの瞳があって関八州の王となって八カ年を御保ち有りしが、君(信田殿)にも弓(左)手の御眼に瞳が二つましませば、王位までこそおはせずとも、必ず坂東八カ国の主とはならせら給うべし、例え我々討死を仕るとも、君は命を全うして二十五までは御待ち候へ、必ず二十五にて御代に立たせ給ふべし、我等もそれが思われて子供の命も惜しけれど、当座の恥をかかじため皆討死を仕る、御身は敵に生捕られ小山の館で年を経て、喜びの御台を待ち給え、暇申して、さらばと。
櫓から飛び出して、一間所に入り一枚交ぜの大荒目、袖を解いて捨て胴を身に付け、箙刀、首掻き刀三腰までこそ差し、その日最後の桃氏の打ったる長刀四尺八寸有けるが、柄を三尺五寸にこしらえ柄の部分に金を延べ付けたり。
今ちっとこの柄長くして切り数や劣らんと、二尺ばかりに差し下げ、ねじ切り投げ捨て具合を試すため廻して振ってみて、よく鍛えられた見事な鉄だとうなずき。
南無三宝、無益な事だ、どれほど多くの者が殺されて妻子に悲しい思いをさせることだろう、のう女房と語り、夫婦ともに駒の手綱を操って敵の陣へ懸けて入る。
面と向かってくるものは誰もなく棒を使う兵法に芝薙、石突、払打、木の葉返し、水車。
馬、人嫌わず打ち伏する、長刀使う兵法に波の腰切り、稲妻切、車返し、遣る刀。
女房打ち通れば、太夫跡より切り廻る、先に子供掻くれば父母後より駆けにけり、物によくよく例えれば天竺衆の戦いに、将棋の歩兵が先に行くならば、横行、角行もお互い進むことが出来る、金将銀将桂馬が進む時太子もかかり給いけり。
この戦いの兵法を将棋の盤に作れるもこれはいかで勝るべき、生島太夫の長刀も堪えて三つに打ち折れば、大手を広げ掻き合わせ、手でねじ首、筒抜き、人礫、唐竹割に引き裂いたり。
昨日今日とは思えども、二年三月の合戦なり、この戦いは夜日七日、討たれるものは数知れず、子供五人と申せども、ここやかしこに押し隔たり一人も残らず討たれたり。
太夫夫婦ばかりになり、そんなに殺生して罪を作りては来世で地獄に落ちる業因になるべきなり、勝つわけでもないのだから、いざ、それでは御前と申して、互いに刀を抜き持って刺し違えて死んだるを惜しまぬ者はなかりけり。
信田殿この由御覧じて、浮島が言い事はさることなれども、夫婦討死した以上、何の為に長生きの必要があろうかと腰の物を抜き持って、腹を切らんとし給うところへ小山の郎党参り、いけません御自害はとて、生捕り申し出でる。
13 姉、処刑される信田に対面
小山これ由見るよりも、まったく人に運がついている時は、何をやっても思い通りになるものだな、さりながら白昼に首を刎ねん事も、天下の聞こえも然るべからず、夕さりの夜半に内海に沈めばやと思い、相馬先祖んらの家人千原太夫に仰せ付くる。
千原、信田殿を預かり申し大事の囚人是なるべし自害されるなと強く縛め(注意を与え)、奥深く押し込めて更け行く夜半を待ちたりしは、死地に近づくもかくやと思い知られたり。
信田殿の姉御(小山の妻千手姫)この由聞し召し、情けない事だ私が夫の小山と心を一つにして、こんな目に合せるとでもお思いだろうか、最後を一目見んとて、人静まって夜半に千原の館へ御出で有り、信田殿に付けたりし数々の縄を御覧じて、あら情けなの仕業や自らにも付けずして、など信田殿ばかりに付けるぞや、どうして何もおっしゃらないのか、怨みの心にてましますか、日本中の神に懸けて誓います、私には心やましい事は何もありませんと掻き口説き宣えば。
信田殿聞し召し、恨むる所詮は無けれども涙にくれて言葉なし、所詮私は不幸なれ今を最後に死ぬ身ですのに、このように不用意に出ていらして、もし小山の方に漏れ聞こえて、姉上までもひどい目にあっていけませんお帰りあれとありしかば。
姉御この由聞し召し、たとえ小山に漏れ聞こえ同じ淵に沈むとも恨みとは更に思うまじ、かようにならせ給う事ただ是ゆえの事なれば、憂き物密かに持ち出し持ちて参りたり御覧ぜよと仰せあり、袂より巻物を取り出し信田殿に手渡す。
信田殿、開いて見給うに、本領の地券(所領の証書)や代々伝わる文書一揃え、これは家に代々伝わるべき重宝にて候えば、持ちては何の益あらん、取てお帰りましませや。
姉御この由聞し召し、それはさる事なれども例え御身死したりと閻魔の庁の出仕の時、倶生神の御前にて捧げ給うものなれば道理限りあるにより、どうして地獄の責め苦から逃れないことがありましょうか。
ただ持ち給えとありし時、取り立てぞ持たせ給いける、このままここに居られない立場にて名残りの袂引き裂けて姉御は帰り給いけり。
14 預かりの千原、信田を逃す
既にその夜も夜半ばかりの事なるに、小山よりも使いが立って、信田をば沈めて有りけるか、早く沈めよと有りしかば、千原力なうして小舟一艘こしらへ信田殿を乗せ奉り、沈めの石を首にかけさせ申し沖を指して漕ぎ出で、ここにてや沈めん、かしこにてや沈め申さんと探すが沈めかね浮かれてしばし漂えリ、ああ何と辛い事だろう世の中にすまじきものは宮仕え、我奉公の身ならずば、かかる憂き目によもあらじ、昔は相馬に仕え申す、
この君を主君と仰ぎしその時は、月とも日とも思わずや、山よりも高き恩、芝蘭よりも香ばしく付き添い廻り申せしが、いつぞのほどに引き替えて移れば変わる身の憂さは、我が手にかけて沈めなば草の陰にて相馬どの差こそ憎しと思ずらん。
たとえ信田殿を助けたことが漏れて、罪に問われて明日深淵に沈められる破目になろうとも、一度この君をひそかに逃そうと思いて、只今こそ御最後よと念仏を勧めれば、手を合わせ高らかに高声念仏申されるる。
千原も共に申し腰の刀をひん抜いて縄散々に切って捨て、沈めの石ばかりをだんぶと打ち入れ、南無三宝只今が最後ですと高く言い沈めたようにとりつくろい助けて陸に戻りけり。
これは丁度秦の始皇帝に捕われた燕王喜の子息燕丹が、稀有の命助かり故郷に帰った喜びにもなぞらえて思われることだ、明けなば人目もあるとて夜の間に送り奉り、暁かけて千原は我が宿にぞ帰りける。
15 千原拷問で死ぬ
既にその夜も明けければ、小山よりも使いを立て千原御前に召され、信田をば沈めて有りけるか、如何にも改めてお尋ねになるまでもありません沈め申して候。
小山聞きて、命じた通り沈めたのなら、その場の検証をどうして要求しなかったのか、まさに合点がいった汝は相馬先祖からの家人心変わりして落としぬると覚えたり、尋常に尋ねたのではとても白状はすまい拷問で責め問え。
無慚や千原を取って伏せ吊るして攻め七十回の苦痛を与え目も当てられぬ風情なリ、五体身分切れ損じ余りの苦痛の有る時は、落ちばやとは思えども待てしばし我が心、千原の命は沈む夕日のごときものである。
信田殿を例えれば出る日、蕾む花なれや、残された命と言っても僅かである、替われや命とて如何に問うとも落ちざりけり。
水を浴びせたり火で焼いたりの責めに当てて問う、是にも更に落ちざれば、枯木から縄を下げ上げれば息絶え下ろせば蘇る、七日七夜は暇もなく新手を入れ替え責めければ、どうして堪えられようか儚く命絶えにけり。
小山大いに腹を立て妻子はないのか重ねて問えとて、二人の若と母諸共に庭上に据えられ、小山つくづく見て、こんなに優遇され結構な身分でいた者が、落ちぶれた信田に思い寄せて逃がしたとは残念である。
男が言いし事を知らぬ事はよも有らじ、偽る気色のあるならば、やがて男のごとくすべしと大いに怒り給えば。
女房,優えたる色もなく、例えば私を粉々になされたとしても知らない事は申せません、有りし夜の暁、信田殿を沈め申しに出るとて小舟一艘こしらへ信田殿を乗せ参らせ沈めの石を首に掛けさせ申し沖を指して漕ぎ出でる。
自ら余りのいたわしさに浜に下り事の様を聞き候へば、信田殿の御声として念仏を召され千原も共に申すだんぶと物の鳴ってより後は音もせず、どうせこのように殺される身であったなら、何故信田殿の命に替わってひとまずお逃げし申し上げなかったのか残念な事だ、これ偽りと思うなら辺りの浦人を召してお尋ねあれと申す。
されば召せとて多くの浦人を召され詳しく問い給えば、その夜の沖の様子何事ありとは存ぜねども皆同じと申す、さては沈めけるものを、不便に千原を問いけると妻子を返し給う。
16 信田、人買いに売られる
あらいたわしや信田殿、なおも都の恋しくて明けぬ暮れぬと上らせ給いける程に、近江の国に聞こえたる大津の浦に着すせ給う、門並みこそ多きに運が尽きる時の悲しさは、人買い売る辻の藤太の小家に、宿を借りてお泊りになった。
藤太は信田殿を見参らせ騙して売らんため、夜中御機嫌を取った、御年も若いがどこからどちらへお通りあるぞと問いければ、信田殿聞し召されて、これは坂東方の者にて候が都へ上り候。
藤太承って、乗り物にも乗らず歩いて旅をなされるとはお気の毒な事だ、都までのお供を私がしましょうとて、痩せ馬に鞍を置き信田殿を乗せ奉り共に出でにけり。
京は不案内の事でしようから、お宿の事は私がお世話をしましょうと、五条に行って博労座の人商人の総領王三郎に言い語り、駒一匹と交換し藤太は国に帰った。
王三郎の許から鳥羽の船頭に売られ、それよりも津の国堺の浜へぞ売ったりける、四国、西国へと売られてゆき、後には北陸道の灘(海洋荒い地)、若狭の小浜、越前の敦賀、三国の湊、加賀の国に聞こえたる宮の越(金沢市)へぞ売ったりける。
物の哀れは大けれども、宮の腰にてとどめたり、折節春の事なるに卑しい仕事を教えて、田を打てと責めければ鍬と言う物を持ち小さな田んぼに出で給えど、下々の労働など知らぬ高貴の出自ゆえ、打つべき様は更に無し。
かの三皇の古は神農皇帝かたじけなく自ら鋤を担いで、その一頃の田を返し五穀の種をまきしかば神農、感応目出度くし尺の穂丈も長かりき、それは賢王聖主にて国を育む道理あり。
かの信田殿の農業は涙の種を蒔くやらん、野にも山にも竜田姫(秋の女神)、佐保姫(春の女神)の林に平伏して泣くより事の外はなし。
これを見る人々が役に立たぬと疎んじられ、隣の里、隣国に買わんと言える者はなし、ついには信田殿を放り出し奉る。
17 乞食の信田の苦難
知らない土地にさまよい出で、寄るべのない身と成りて道をたどり歩く、泊り定めぬ浮かれ鳥、鳴く音に人も驚き夜が明け、開らかれた門の前を通り過ぎる、道ある方に迷い行く、身は餓え人となるままに袂に物を入れてもらう乞食となり、はかない命を露天の宿に託し、目指す所のないままに足に任せて行くほどに能登の国に聞こえたる輪島の湊に着き給う。
折節、輪島小屋の湊へは野党が寄せて来ると言う門々門を切り塞ぎ用心厳しかりけり、かかると余所にて知る由もなく門々門に佇んで、落ちぶれてさ迷い歩く者に御恵みをくださいと有りしかば。
折節、老人一人来て、あら恐ろしやこの所、何時押し寄せてくるかと用心していた盗人の下見がやって来た、あれ寄って打ち殺せ若者どもと下知をなす。
折節、有り合う若者共が櫓櫂の折れ、やすの柄を引っ提げ立ち出で、そのような馬鹿者は何処に居るとて信田殿を見つけ申す。
先ず一杖づつ打ったりける、太夫重ねて言いけるは一杖づつは遊び事か、あのような物を助けて物を言わせば後には人が損じ候ぞ、ただひた打ちに打って、打ち殺せ若者どもと下知する。
いとど逸りたる若者が、いたわしや信田殿を散々に打ち伏せ申す、今ははや御命も助かり難く見えさせ給うところに、この浦の刀禰(有力者)の女房、情けのみ有者にて信田殿を見参らせ。
あらいたわしや、この人は世に捨てられる人の子、親の行方を尋ねかね、かかる遠国波濤まで来りたると覚ゆる成り、どうかこの人我に下されと申す。
若者共がこれを聞き、女房の仰せなりともと、ひた打ちにぞ打ちにける、女房余りの悲しさに、酒を御馳走しよう助けよ、酒とだにも聞きければ年配から童まで杖を捨ててぞ退きにける。
かくて我が家に入れ申し、大切にお世話し以前ほどではないが姿も少しずつお戻りになった。
18 信田、外の浜の庄司の養子に
かかりつけるところに、遥か陸奥の国、外の浜の塩商人がかの浦へ船を乗る、塩問屋は刀禰の支配の許なれば、信田殿を見参らせ、あの人我に譲ってくれとて無理やり塩と交換し船に打ち乗せ申す。
十八日と申すには遥か陸奥の国、外の浜にぞ上がりける、彼の太夫は情けも更に無き者にて一両日も過ぎるに、この浦に住む者は塩を焼かでは叶わぬぞ、塩焼き給え客人と塩焼きの薪を切らせ塩釜の火を焚かするこそもの優けれ。
いとど塩垂れ衣着て下燃えくゆる釜の火を、焚くこそ物優かりけり、辛き中にも慰むは塩屋の煙一結び末は霞に消え匂いて、行方の程も白波(知らず)の寄る(夜)袖を絞らして、常陸の国の恋しさはいとど日々にぞ勝りけり。
秋も半ばの事なるに、かの浦の領主、塩路の庄司殿と言いつ人、浜出して夜もすがら月を眺めて遊ばれしが信田殿を御覧じて、ここで塩焼く童の目の内に気高さよ、物腰の上品さは尋常ではない、只者ではないと気づき。
いかさまにも、太夫は世に有る人をかどわかしに来たりと覚ゆる成り、我この年になるまで子を持たず我が子にせんと宣いて押さえて奪い取り給う、嫡孫と号し自分の養子にする。
大切に世話を給いけり、かくて元服させ申し塩路の小太郎殿と申して、上から下に至るまで尊敬しない者はいなかった。
19 国司の前で名乗り世に出る
かかりし時の折節、国司都より国に下り給い多賀の国府に着かせ給う、在庁御家人馳せ集まって日中当直の警護に当たり、国司よりの御諚には、我常陸の国に有りし時相馬氏と内木氏が不祥事件をお越し両方絶えて年久しし、其れも座敷での着座の上下を争い論、盃の献杯の定めの無かつし故なり。
我在国の間に座敷の様を定めんとて左は勝田の太夫、右は柴田の庄司、総じて座敷は十三流れ人数かれこれ三百余人、
装束を整えて出席しているので座敷の立派さはこの上ない、中にも塩路の庄司殿、我が身老体なる間養子の嫡孫小太郎殿を出だし申さるる、並びの在庁これを見て、着座を許すわけにはいかないと押し止めようとした。
国司よりの御諚には、何とて塩路の自身参らぬぞ、上を軽く見ているためか、その儀ならば塩路の本領ことごとく召し上げるべきとの御諚なり。
信田殿聞し召されて、我が身の素性を名乗ろうと思った、しかし国司が、もし小山太郎の内縁の人ならばと迷っていたが、今名乗らねば養子の父母の恥、また座敷を退席させられるのも残念と、身に付けていた我が身を証する系図を取出して国司の前に捧らる。
正直に自分の素性を説明すると、国司はこの由御覧じて、なになに、桓武平氏の第三皇子より六代の後胤、平将門の御孫、相馬の実子、信田小太郎何某と書かれており、五十四郡が其の内にこれ以上の家柄はいないと国司と対等に向かい合って着座することが許され申し、直り給うぞめでたけれ。
既に御酒盛り七日とぞ聞こえける、在庁御家人暇申して館々に帰らるる、信田殿も同じく暇乞うて帰らるる、高貴な血筋を知った国司は御覧じて、いたわししいたわしし、奥州を三年の間預け国司代理の目付とし、その間に国司は都に上らるる。
さる程に信田殿、昨日までは塩を焼き浮き身を焦がし給ひしが、今日はいつしか引かへて、五十四郡の主となり国を平らげ給ひけり。
20 姉、小山に追放される
常陸の国に候いし小山の太郎行重は栄華栄えて際もなし、七月七日には節目とて宝物を取りい出し七夕の神に貸す習いなり、小山殿も金銀綾羅、数の宝を取りい出して七夕に貸されける中に信太と玉造の地券等の丸かし(一切の重要書類)を如何に探せどなし。
これは余の人の知るべからず、御身(内)の盗み取って他の宝となしたると覚ゆるなり、かかる後ろ暗き人を頼みて何の益あらんとて、いたわしや妻(千手姫)を追い出し申す。
あらいたわしや姫君、もとよりこうなる事は覚悟の上、今更嘆く事でもないとて乳母ばかりを引き連れて小山の館を出でられける。
(追い出された信田殿の姉は)浅ましや自ら誰を頼んでいづくへとてか迷うべきぞや、信田殿が身を入れし内海に沈まんととて浜路へ下らせ給いけり。
21 姉、尼姿で信田殿を探す
かかりける処に、信田殿を逃がして殺され千原の後家参り、のう、全くお嘆きになる必要はありません、信田殿の御命には男の千原が替わり申して候ぞや。
数々の文どもを留め置かせ給えども、暇がなくして(信田殿の御姉御へ)参らせず候、これこれ御覧候へとて有りし昔の文共 を、姉御の御手に参らせ上ぐる。
姉御この由御覧じて、あら嬉しや信田はまだこの世に存命しているのですね、叶わぬまでも訴訟の為都へとてぞ上りつらん、いざや乳母これより都へ上り尋ねん。
さりながら、このまま都に上れば、つまらない浮き名が立ってしまうでしょうと、辺りの尊き寺にて背丈ほどある髪を剃りこぼし給いけり、乳母もやがて同じ姿に様を変え、墨染に身をやつし都へ上り給いけり。
名所旧跡を眺め越えさせ給いつつ三十五日かかって、常陸から京の都に着くと清水観音に参り、南無大悲観世音、万の仏の願よりも千手観音の誓いは頼もしや、今一度信田殿に会わせてほしいと祈請深くぞ申さるる。
熊野道を尋ねんと南海道にさしかかり天王寺、住吉、根来、粉河を打ち過ぎて、熊野に参りて本宮、新宮、那智大社の三山を心静かに伏し拝み、尋ね給えど行方なし。
それから四国、九州を尋ねんと寺社参詣の巡礼船に乗り四国に渡り、淡路島も心静かに尋ねけり、筑紫下りの道すがら、長門の国府、赤間ヶ関、芦屋の山鹿、博多の津、志賀の島尋ぬれどその行方もなかりけり。
名護屋を出て瀬戸を行く、平戸の大島、松浦、弥勒寺、静の里、くわんぎ、五島島、伊王が島(長崎県)も近くなる、壱岐のもとおり通るにぞ消えゆるばかりの我が心、日向の国に土佐ノ島、紀の里に淡島、豊後、豊前をさし過ぎて、肥後の国に聞こえたる踊り堂の山を越え恋いはし、うしのみつし、阿蘇の岳を越え過ぎて、筑前の国に生の里、遠国波濤に至るまで名所は尽きぬ物なり。
信太の小太郎何某と問えど答える者はなし、筑紫の内に曇りなし、いさや乳母これよりも中国差して尋ねんと、周防の国にさしかかり大内の郡、朝倉や、極楽寺と聞くからに立ち止まりて尋ねけり、播磨の国に入りぬれば赤松河原、由井の宿、高田の渡り、矢野の宿。
名所旧跡を眺め越えさせ給いて、堺の松に出でさせ給う、そうたの森、烏埼、人丸が岡を尋ねれどその行方なかりけれ、須磨の浦、蓮の池と聞くからに同じ蓮に乗らばやな。
兵庫に着けば湊川、雀の松原、打出の宿、昆陽野、伊丹、手島の宿、太田の町屋、芥川、神内、山崎、狐川、舟に乗らねど久我畷、月の宿るか桂川、浮世は車の輪の如く廻り来ぬれば九重の花の都に着き給う。
九重の内に曇りなし、いざや乳母これよりも元の道に差し掛かり下らんと宣いて、我をば誰か松坂や大阪の関の清水に影見えて今や引くらん望月の、駒の足音聞き馴れる大津、打出の浜よりも志賀唐埼を見渡せば、堅田の浦に引く網の目ごとにもろき涙かな、瀬田の唐橋遥々と尋ねる人の面影を写しもやせん鏡山。
愛知の河瀬の波散りて裾は露、袖は涙の隙よりも磨針山を越え行けば、荒れてなかなかやさしきは不破の関屋の板間漏る、月見垂井の宿過ぎて、植えし早苗の黒田こそ、秋は鳴海と打ち眺め参河の国の八橋の蜘蛛手に物や思うらん、富士をいづくと遠江、恋を駿河の身の行方、待つ宵の月も雲間を伊豆の国、信太にはいつか奥州まで三歳三月がその間、信田の小太郎何某と問えど答える者はなし。
22 姉妹の再会
その年の文月(七月)半ばに多賀の国府に着かせ給う、頃は十四日、盂蘭盆にて上下万人押し並べて慈悲を施す日になっていたので、信田殿も父母の孝養のために、辻々に札を立て僧侶等に施しを与え給いしが、比丘尼達を御覧じて、あれあれ請じ申せとて、持仏堂に移せ申し善きにいたわり奉る。
あらいたわしや姫君、持仏堂に移らせ給い夜もすがらお経を遊ばせしが、暁方に成りしかば回向の鐘打ち鳴らし御声高く回向あり。
この御経の功力によって生きる者すべて生死の迷いを離れ悟りに到達できるように、特に父相馬殿、母御台、信田殿成仏得脱なり給え、その中に信田殿未だ憂き世にあるならば、この御経の十羅刹女の功力によって祈祷と成らせ給いて信田の小太郎に今一度会わせて賜び給え、南無三宝、南無三宝と衣の袖を顔に当ててもろきは今の涙かな。
信田殿も父母の孝養のそのために持仏堂に御座有りて夜もすがらお経を遊ばせしが、回向の声を聞し召し夢現ともわきまえず間の障子をさっと開け、詳しく見奉りしに姉御の成りゆく姿なり。
走り寄り袂に縋り付き、信田の小太郎にて候へとて消え入るように泣き給う、姉御も此の事を現と更にわきまえず、さていかに小太郎か、これこそ古の千手の姫で候なれ。
辛い時に涙が流れるのは当然だが探し求めた弟に出会えた嬉しい今どうしてこんなに涙が流れるのであろうと睦ましげ成る御有様よその袂も濡れぬべし。
23 信田殿、小山に報復
信田殿、仰せける様はかほど目出度き世の中に、何をそんなに涙を流してお嘆きなのか、さあ元気を出してください姉御前。
我常陸の国へうち越え、余り憂かれし小山の首を刎ねこの間の無念を散ぜんとこそ仰せけれ。
もっとも然るべしとて奥州五十四郡が其の内よりもよかりける兵三千余騎揃えられる。
小山この由伝え聞いて、国にこらえがたくして逃げて都へ上りける。
さる間、都に上っていた国司は信田殿の安堵を申し給わって、国に下り給いしが、小山太郎行重が道にて参り会い、駒よりも飛んで下り、真っ平この度の命を御助けあれと申す。
御安い御用とて謀り寄せてからめ取り、京土産と名付けて信田殿に賜び給う、信田殿大層喜び、武蔵の国妻恋の野辺に引き据え首打落とし給いて朝の露と消えけるを憎まぬ者はなかりけり。
やがて信田殿上洛ましまして、天下の御目に掛らるる、帝叡覧ましまして坂東八か国を信田殿に賜び給う。
このついでに近江の国とかや大津の浦を申し請け、信田殿を売りとばした人買い辻の藤太を絡め取り十日に十の爪を剥がし、二十日に二十の指を捥いで首を挽き首にし給えリ。
ただ今は情け在れ、情けは人の為ならず、終には我が身に報うと憎まぬ者はなかりけり、番場の宿へうち越えましまして、春草と小太郎が萌え出で候、嬉しきをも辛きをもなどかは感ぜざるべきと小島の庄三百町番場の(信田殿の自害を思い止めた)宿の亭主に賜び給う
常陸の国に下向在りて、信田の河内にて(信田殿を匿い)討死したりし浮島太夫の子孫はないかと問い給う、太夫の孫は三人召出し候いて三千町を賜びにけり。
(拷問で殺された恩人の)千原が後家若諸共に参れば大いにうれしく思し召し、坂東八か国の荘政所を若共に賜び給う。
やがて御身は信田の河内に御所を建て、御年二十五にて御代に立たせ給いて日勤当直勤めさせ栄華に栄え給いける、姉御の比丘尼大方殿(姉に母親と同じ待遇で)と申していつきかしづき (大切に世話され) 給いし末繁昌と聞こえけり。
《参考》
陶入道は公家の飛鳥井雅俊(1462-1523)とも交流があり和歌にも優れていた。この陶入道が亡くなり、天文20年(1551年)周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害される。この時の話がある。
八月廿六日大樹義輝公ヨリ上使有。又大友義鎮ョリモ使者. 有ケレパ…日夜酒宴アリ。幸若流ノ舞ノ上手小太夫ニ志田. 烏帽子折ナド舞セラレケレバ、上下聴聞ニ貧著シテ合戦ナドノ噂モナシ(陰徳太平記巻十九)。〔参考〕越前ヨリ幸若太夫下向セシカバ義隆卿甚ダ賞翫シ給ヒ軈烏帽子折ヲ所望有ケリ、太夫廂ノ間ニ於イテ手拍子丁丁ト拍テ之ヲ舞ケルニ、聴聞ノ貴賤感慨二堪兼テ袖ヲ濡サヌハ無リケリ(陰徳太平記巻二十)。
8月23.4日から、陶(すえ)隆房の討入りの噂は周防国中に広がって大騒ぎになった。大内氏の始祖琳聖太子以来、千年の治政も終わりかと、人々は家財道具を運び、妻子を連れ、老いたる父母を伴って山里に隠れようと逃げ出し国中がひっくり返るような混乱の中で、
8月26日大内義隆(1507-1551)は築山館で将軍足利義輝の使者を迎え、大友義鎮(豊後国キリシタン大名宗麟)も使者を寄越したので、夜に日をついでの酒宴を催した。
幸若流の小太夫に、「志田・烏帽子折」などの曲を舞わせて、国中の騒動など知らぬげに、これを楽しんだ。舞は滅亡への序曲であったのか、8月28日陶隆房が若山城を出発。その後大内義隆は大寧寺に逃れたものの、抗戦を断念して自害する。(9月1日)
この謀反では多くの公家が巻き込まれました。武田信玄の正室・三条の方の父親三条公頼や、二条良豊などで、二条良豊は死ぬ前に内藤興盛に伝言を頼もうとしたが、伝言を聞く前に良豊の首をはねてしまいました。陶の兵には、都落ちした公家に対する積年の恨みがあったと思われる。
のちに陶晴賢(すえはるかた)が晴英(義長/大友宗麟の弟)を新たな当主に据えたが、毛利元就の攻撃により義長が自刃し、毛利元就は天文24年(1555年)に厳島で陶晴賢の大軍と戦い、これを討ち破り勝利します。これが「厳島の戦」いである。