【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 満仲、仏道に帰依する
それ、ひそかに思いめぐらすに、万物を覆い尽くすのは天の道である。載せて捨つる事なきは地の徳なり。
始め清くして澄める物は、上って天となり、重くして濁れる物は下って地となる、中央は人たり、これよりして君子の道行わるるものか。
およそ人皇(神武天皇以降)五十六代帝をば清和天皇と申し奉る、王子六人おわします、陽成院、貞秀の親王、貞元の親王、彼の貞元の親王は、琵琶弾きにておわします、桂の里に住み給えば桂の親王とも申す、貞平の親王、貞義の親王、貞純の親王とて兄弟六人おわします。
中にも第六貞純の親王の御子をば六孫王と申す、六孫王の御子をば多田満仲と申し奉る、その頃源の姓を初めて給わらせ給い、上野守と申し奉って天下に並びない武士が居りました。
嫡子、津の守(源)頼光、二男大和守頼信、三男多田の法眼とて比叡山八部院を初めて建てられし人なり、これらの子と共に、すこぶる朝廷の御守とし、朝敵を滅ぼし国を従え給う事は、降る雨の国土を潤すに似たり、正しい道理によって訴訟を裁き、法律に照らし合わせ不公平の嘆きの無いようにした、しかる間、人々に尊敬されること限りなし。
ここに多田満仲は、ある時ふと考えました、それ生死の習い、この世の現象や存在は種々の因縁で生じ絶えず変化の理は、みな夢幻の世の中なり、この世の人間の限られた命を思えば僅かに六十年。
思えば人間の一生などは不定で、はかない下天の暁の夢の如きもの。
行く末とても夢ならざらんや、松樹千年の緑も霜の後の夢と遂に覚むべし。
たとえ今は栄えていたとしても槿花一日の栄も露の間の身保ち難し、朝には若さを謳歌して仕事に励んでいても、夕には命付きて白骨となり山野の塚に埋もれてしまう、宵には楼月をもてあそぶと言えど、暁は別離の雲に隠れてしまうようなもの。
僅かなる世の中にあって、そんなものに執着して何になろう、我、今こそ、武士として人に恐れられてはいるが、冥途に赴かん時には、数千人の従者も一人として付き従ってはくれないであろう。
只、人の命を奪う死の国の鬼に追い立てられ、たった一人地獄の獄卒に責められながら進むだけ、何と口惜しこと、しかし、仏法に帰依しようと思えば、人を殺す事を専業とする武士の勤めが疎かになろう、どうしたものやら、その御心の捨てがたくて、そこで多田満仲はある尊き上人の庵室を尋ねました。
上人様、我等のような衆生は、どうやって後生を助かり極楽に往生すればよろしいのでしようかと尋ね給えば、上人聞し召されて、よくぞお尋ねくだされた、もっとも出家の験には次のようになされ。
それ欽明天皇の御代より、仏法が我が朝に渡って来て(五五二年)、蘇我馬子が十四歳の上宮太子(聖徳太子)を総師にして物部守屋を討滅(五八七)しより此の方、仏法繁盛の国でございます。
中でも法華経という八巻の貴い経がございます。これに親しみ仏道と縁を結びなさいと仰せければ、多田満仲聞し召されて、その法華経というのはどのような経でございましょうかと尋ね給えば。
上人聞し召されて、それ法華は、人の善根を毒する三つの煩悩(欲深い貪、怒る瞋、思いこむこ癡)により、我等衆生が本来具有している仏に成れる素質は、濁水汚泥の中よりも法の蓮を開き出す、衆生の心を汚し疲れさせる煩悩や妄想は自然な悟りの形である。
これによって、釈迦の成道から涅槃までの一代の説法の最高の到達は五時の法華涅槃時である、八万の花(釈迦の数多くの聖教)は五時の春に開き、三代即是(空仮中の三つの真理は一体)の月(真如)は、八教の秋に明らかなリ。
武家として人を殺す事も生かす事も全て一刹那の心の動きによる、煩悩や生死の迷いはそのまま悟りとなる、因縁と悟りは最高の心の動きである、浄土だ穢土だと言うが元来実体の無いもの。
さてやこの御経を、釈尊四十余年の説法の後、八カ年に真実の相を説き現し給いて候、この御経に現世安穏後世善所と説き又は若有聞法者無一不成仏と述べたり。
この経の中の一句でも聞いた人は五波羅蜜に優る功徳を得ると申します、仏の弟子となったが教団から離れ五逆罪を犯した調達は、地獄に落ちたが来世で仏に成ると予告を受けている、八歳の竜女も南方無垢の世界の成道を遂げたり(法華経等に竜女の即身成仏を説く)。
ましてあなた様は武家として仏法や国家や人民を守るために弓矢を持って戦っておられる、一人を殺して多くの命を救うという功徳があるはず、仏が悪魔と戦ってやっつけるという経もあるのです、たとえ出家しなくとも心の持ちようによって成仏することは可能です。
かの天竺の維摩居士や我が国の聖徳太子も在家のままで仏道修行をなさいました、たとえ殺生等十悪五逆の重い罪を犯した輩であっても、ほんの一瞬の道心により罪障が消滅すると申します、あなた様も在家のままであっても仏道を願う気持ちさえあれば、きっと往生できましょう。
多田満仲聞し召され、あら何とありがたいこと、そういう経でありましたら是非とも法華経を一部伝授して下さいませ、たとえば愚鈍ではございますが常に参上いたしますので、たとえ一字なりともお授け下さいと仰せければ。
上人聞し召されて、承りました、仔細に及ばず授け申すべし、さても仏がこのお経を説かれた時には、草や木、国土が全て成仏したと申します。
即身成仏とまではいかなくても力の限りお教えいたしましょうとて、上人は間もなく多田満仲に法華経一部を伝授しました。
2 子息美女御前の仏門入り
多田満仲心に思し召す、やはり人間にとって最も大切なのは後生を願うことである。末の息子を出家させ、われらの後生を弔ってもらおうと思し召し。
そこで美女御前という十二歳になる若君を呼んで仰せけるは、美女御前よ寺へ上り学問して法師になり我らの後生を弔っておくれと仰せければ。
美女御前は聞し召し、内心これは困ったことだ、他人のことと聞いてさえ出家などいやだと思っていたが、よもや自分の身の上に降りかかってくるとはと思し召され共、父親の命令ですので背くわけにはいきません。しぶしぶ了承申されければ、すぐに中山寺(兵庫県宝塚市)というお寺に預けられることになりました。
多田満仲が重ね重ねて仰せけるは、汝、寺に入ったら、まず学問の最初に法華経を学び、それから他の教えを学ぶがよいと念を押しければ、美女御前は約束して寺に入りましたが、もとより気に染まないお寺暮らしで、御経を学ぼうなどという気は全くありません。
木の皮や草の蔓などで鎧、木長刀、木太刀を作っては他の稚児を追い回し、飛んだり跳ねたり相撲をしたり力比べをしたりと武芸のまねごとばかりして、ひたすら昼夜天狗のように素早く動き回り、師匠がお説教しようものなら、かえって師匠を殴りつけるしまつ。まったく手に負えない、寺一番の乱暴者になりとぞ聞こえける。
多田満仲この事を夢にも思し召さず、今頃はもう美女御前は法華経を暗誦していることであろう。一度呼んで聞いてみようと仰せあって、家臣の藤原仲務仲光を使いに出し美女御前を呼び下し給う。
あわてたのは美女御前で、これは困った。この二三年寺にいたことはいたが経など一文字も学んではおらず、里へ帰れば父上は、きっと法華経を読めと仰せになるに違いない。これはどうしたものか、けれども今さら法華経を習うわけにもいかいとて、そのまま多田の里へ向かいました。
3 美女の成敗を命じられる仲光
多田満仲はすぐに対面し、久しぶりじゃのう美女御前。大きくなったものじゃ。さて、約束の法華経は覚えただろうな、さあさあ聞かせておくれ聴聞しようと仰せければ、承ると申し、紫檀の文机の前に紺地に金泥で書かれた八巻の法華経が並べられ、稚児の前にぞ置かれける。
多田満仲御覧じて、かねてより申していたのはこの経じゃ、さあ聴聞しようではないか、けれども美女御前はだまっています。
多田満仲御覧じて、なぜ経を読まぬのじゃ、もし一字でも読み間違えたらただではおかぬぞと、膝の上の太刀に手をかけ早く読むように催促しける。
かわいそうに美女御前は一字も学んでいなかったので巻物の紐を解くまでもありません、真っ赤になってかしこまっています、しびれをきらした満仲は、ええい頼りがいの無い奴じゃ、こうしてくれるわと太刀を抜いて斬りかかれば。
寺にて習わせ給いたる早業のしるしに机の上の御経一巻取って張良の一巻(兵法書)と名付けて太刀をうけ後ろへひらりと飛び退き、稲妻、雷火、ふゆう、蜻蛉、飛鳥なんどのごとくに早ちらりと失せて見え給わず。
怒ったのは多田満仲です。家来の藤原の中務(なかつかさ)仲光を呼び、汝、この太刀にて美女御前の首打って持って参れと命じ、先祖伝来の太刀を差しだします。
藤原仲光は、まさに道理の叶った事であり御返事申さず、黙って頭を下げ赤面平身低頭ししていると、多田満仲御覧じて、わしに逆らう気か。主人の命に背くとは不忠義者め、こうまで言われて辞退はできません。藤原仲光は太刀を受け取ると自分の宿所へ罷り帰る。
あらいたわしや、美女御前は、藤原仲光の館に逃げ入り、面目なさそうにたたずんでいる処へ、藤原仲光罷り帰れば。直垂の袖にすがりつき、お前だけが頼りなのだと泣き給えば、まさに討手には遣わらせけれども、余りの御いたわしさに、のう、何としてそんな所に御座候ぞ、こちらへと美女御前を中へと案内します。
藤原仲光申す、さても、お父上が数ある侍の中でそれがしにあなた様を討つようにお命じになったのも何かのご縁です、たとえそれがしが首を討たれようとも、御命をお助けいたします。ご安心なさいませと申す所へ。
多田満仲の御方よりも重ねて使いを立て、どうして美女御前の首の届くのが遅いのかとの重ね重ねの催促する御使いが遣わされて来る。
藤原仲光承って、さてどうしたものか、たとえそれがしが腹を切っても殿は若君のお命をお助け下さるまい。討てと仰せなのも三代相恩の主君、助けよと仰せなのも主君(若君)にて、どうしたらよいのであろうかと藤原仲光は進退窮まってしまいました。
そうじゃ、それがしの息子幸寿丸は若君と同年じゃ。九歳の時から寺へ上らせ今年は十五歳になる。これを呼び戻し若君の身代わりにしようとこそ思われけれ。
4 子の幸寿丸に身代わりを頼む
総じて、この稚児幸寿丸の心はとても温和でけなげな性格であり、師匠、同宿も多くいる稚児の中にも特に抜きん出た人物と思われていた、姿形も美しく大変聡明で柳よりもしなやかで、膚は白雪のごとし、さながら十五夜の月の風情。
一度笑めば百の媚びあり、学問世に優れ一字を千字に悟る並ぶものがない師と成る力を持つ稚児学匠の名を得たり、特に詩歌管弦の道に長じ、酒宴遊興人に優れ、しかる間一山の僧達あるいは思いを寄せないものなどなかった。
一樹の花を見ては皆我が家の光を争う如くなり、およそ志は山岳の如く高く、義は黄金よりもなを堅し、真夜中を告げる鐘の声、暁の別れを恨む、かりそめの思いは幸寿丸の場合も男女の間の場合と同じ切ないもの、いつも心に詩を作り歌を詠じて、閑居に日月を送り給いけり。
かかる優なる稚児の元へ親の意向を持って使者を遣わし、少々相談しなければならない事情の候急ぎ下られ候へと言えば、幸寿丸はこの六七年両親に会っていなかったので恋しく思っていた矢先であり、喜んで里へ下る。
父の藤原仲光は門に立って待つ、幸寿丸は父を見つけ、うれしそうに馬から下りて駆け寄ってきた姿、骨柄、礼儀したる風情その大人びた姿を見て、あら無残や、ここまで育てた甲斐もなく自らの手にかけなくてはならない不憫さよと涙を流します。
幸寿丸よ、そなたを呼び出したのは他でもない。主君美女御前が父上多田満仲の仰せに背かれたゆえ、それがしに討てとの命令が下されたのじゃ、しかも若君はそれがしを頼って逃げ込んでこられた、どうして無情にお討ちできようか、それ信義を重んじて命を惜しまず、生死の分かれ目に屍を土中にうずめる覚悟を持つのが君主と臣下との間の約束事である。
君は臣を使うるに恩を持ってし、臣君に仕え奉るに、義を守って身を惜しまざるは忠臣君の法なり、主君の恩を受けている臣下、遂に一度は臣下たるもの、主君の命に変わるべきである。
孝行な子供は身を捨てて親の菩提をとむらうという、そなたは寺で学問したからには、このあたりのことはよく分かっておろう、面目ないとは思うが若君の身代わりになってはくれまいかと思いて呼び下したるぞといえば。
幸寿丸聞いて、にっこりと微笑み、そうおっしゃって下さってうれしゅうございます、武士の子と生まれたからには主君の御命に替わるべきものと思っておりました、かつ親の御命に従うことができるとは光栄でございます、さあ早く私の首をお召され、そして美女御前を助け参らせ給え。
命など露ほども惜しくありません、仲むづまじい男女の契りも生きている間の事、亀鶴千年万年の契りを致すも露の命の消えざるほど、何処の里人か一人として残り留まり候べき、このまますぐに生まれ変わる事こそ私の喜びにて候へ。
そうは申しましても少しのお暇を下さいませ。母上に最後のご挨拶を申し上げとうございますと言えば、藤原仲光聞いて、何と哀れな事や、急いで母と対面せよ、くれぐれもこのことを母に知らせるでないぞと言えば、その時、幸寿丸腹を立、情けないこと、未練がましい者とお思いか、ご安心なさいませと、けなげに申しなし、母のもとに参上、母を見るなり涙を流しました。
母御覧じて、久しぶりの対面でさぞ喜ぶであろうと思っていたが、我を見て涙を流すとはどうしたことかと仰せければ、幸寿丸落ちる涙を押さえ、その事にございます、昔唐土(もろこし)の漢王が胡国に攻め込んだとき、こうせい将軍を大将として百万騎を率し派遣されるに、合戦既に十二年経て遂に戦にうち勝って凱旋した将軍は、故郷の母親の元に参上して涙を流しました。
将軍の母親は、戦に勝ってさぞや喜んでいるであろうと思っていたのに何が辛くてそのように泣くのじゃと仰せければ、将軍は、胡国へ出陣いたしました時には真っ黒だったおぐしが今は真っ白であらせられます、それが悲しくて不覚にも涙を流してしまいましたと答えました。
将軍の母聞し召し、親が年取ったことを見て泣くとは哀れにも嬉しくもあることよと哀れにも喜んだということです、そのことを今思い出しました。
九つの時に寺へ上がった時には真っ黒だった御髪が、今年十五にまかりなり、今は白くなられたので、あとどれ位このようにお目にかかれるのかと悲しく、つい涙を流してしまいましたと偽り申したりければ、母はこれを聞いて疑うはずもなく幸寿丸の親孝行な心を喜び、頼もしく思われける母の心ぞ合われける。
このままもう少しお話していたいとは思いますが、美女御前がこちらにおいでとうかがいました、お目にかかってご挨拶してから、またすぐに参りましょうと偽り母の御前を罷り立つ、これがこの世の最期の別れと思われける、幸寿丸の心ぞ哀れなる。
5 幸寿の最後
その後幸寿丸は一人部屋に入り念仏し辞世の歌を読みました。
君がため命に代はる後の世の闇をば照らせ山の端の月
(主君の為身代りとなりますが月が闇夜を照らすように仏様どうか私の後世の闇夜を明るく照らして下さいませ)
か様に書き、お寺の師匠や同輩たちに形見の文を残したくは思うのですが、それも叶いません。ただ一通偽りの文を書きました。
さてさて、この度里へ退出いたしましたのは他でもなく主君の美女御前がお父君の御意にそむかれ、お父上多田満仲殿の手にかかって命を落とさら給いて候を、菩提をお弔いするようにと、わが父からの命令でございました。けれども若君のご最期を拝見いたしまして、そのおいたわしさに居ても立ってもいられず父にも母にも知らせずに若君の遺骨を首にかけて高野山へ登ることにいたしました、三年たちましたら必ず帰り、お目にかかりましょう。幸寿丸よりと書き留め、形見に髪の毛を一筋そえます。名残惜しさといったらありません。
その後父の前に参り、母上に最期のご挨拶をしてまいりました、今はもう思い残すことはございません、ただ、あちらの部屋に文が一つございます、それを長年住み慣れたお寺へお届け下さいませと、それだけ言うと敷物の上に座り、髪を高く上げ西に向かって手を合わせ、南無西方極楽世界の阿弥陀仏、殊には我頼み掛け申す、大慈大悲の観世音願わくば本願を捨てず我を導き給えと。
取り乱す様子は全くなければ、父藤原仲光は太刀をもって近付きましたが悲しみに心もくれ惑い太刀をどこに振り下ろしていいかもわからないほどです。
悲しきかなや春三月の花も無常の風の吹かざるほど十五夜の月も雲の覆わざるほどなり、無常の剣を抜き、一度身に触れなば一期の位を転じて、すなわち得脱すべきなり、いずれの人か親となり何者が子と生まれ例なき事をもらすらん、命葉落ちやすし秋一時の電光の影の内に、剣を振ると見えしかば首は前へぞ落ちにける。
6 幸寿の母の嘆き
かねてから覚悟していたことです。今さら嘆いても仕方ありませんとて若君(美女御前)の御直垂を申しおろし、直垂の袖に幸寿丸の首を包み、多田満仲の御前に参り、御意背きがたく、いたわしながらも美女御前の御命をいただきました、今はもうご本望をお遂げなされたのですから、お怒りをお解き下さいませ、あら御情けなの我が君の御処置ですこと、言い終わらない内に、首を御前に差し置き、直垂の袖を顔に押し当てて泣き出しました。
多田満仲も御覧にたえない様子で、よくぞやり遂げた、首は汝にとらせるぞ、よくよく供養してやってくれとだけ言うと奧に入ってしまいました。
その後藤原仲光は首をもって宿所に帰ると女房を呼びだし、真相を話し聞かせて、幸寿丸の首を見せければ、女房はそれを見てものも言えません。
それはしとやかで若く美しい顔で花に妬まれるばかりの姿もあどけなく散り、夕べの風に誘われ艶やかで美しい眉で月に妬まれし形も暁の雲に隠れ、縁あって出会った者が分れる運命にあるのは、この世の人間の宿命である、生死が繰り返され変化して留まる事のない道理は、様々多しと申せどもとりわけ哀れなりけるは、幸寿丸の事で留めたり。
さればこそ、幸寿丸寺より下り我を見て泣くほどに不思議に思い候へば、異国の事を語りだし自らを慰めしは、こういう訳だったのですね。
主君の命に替わる事を、どうして私が止めたりいたしましょう。事情を話して下されば、ともに介錯して最期を見届けましたものを、そうすればこれほど悲しい思いはしなかったでしょうに、お恨みいたします仲光殿」女房は首に抱きつくと倒れ伏して泣き続けました。
7 藤原仲光、美女を比叡山に送る
ちょうど美女御前がこのやりとりを障子越しにて幸寿丸の最後の由を聞し召し、間の障子をさっと開けると、今何と申した夫婦のものよ、私のかわりに幸寿丸の首を討ったとな、幸寿丸の首を討つくらいならば、どうしてこの美女御前の首を討たなかったのだ、幸寿丸の変わりに生き永らえたとて誰にも顔向けできぬものをと言うが早いか自害しようとした。
藤原仲光夫婦はあわてて駆け寄り刀を奪い取り、今日からは学問をしっかりなさって幸寿丸の菩提を弔って下さい、早くお忍び候へとて、人目を避けて夜半に紛れて多田の里を出ると坂本の比叡山の麓十禅師に向かいました。
藤原仲光仰せけるは、この十禅師権現のおはからいによって、比叡山の学僧のお弟子となって、よくよく学問なさいませ、いかに若君聞し召せ、それ天竺に獅子と申すは獣の中の王なり、彼の獅子年に三つづつの子を産む、生まれて三日と申すに万丈の岩石を落としてみるに、損ぜず破れざるを子とし空しくなるはそのままなり、かかる獣までも子をば試す習いの候。
殿多田満仲の若君様を御勘当候を恨みとばし思し召され候な、来世には必ず縁が結ばれるべき理由があっての事です、暇申して若君。
美女御前が聞し召し、やや、もう帰るのか、藤原仲光よ、浮世は輪廻の輪のごとく命の内に今一度巡り会うべき由もがな、名残惜しやとの給いて美女御前はいつまでも藤原仲光を見送り佇み給えば、行く道更に見も分かず、たまたま言問うものとては嶺に響き渡る猿の声も我身の上と哀れなリ。
藤原仲光もまた振り返り振り返り見送りて、跡に心は留まりて多田の里へと下りける。
さて多田の里についた藤原仲光は女房にむかって、誠に人の命は捨て難きものぞ、幸寿丸の最期の時我も共に命を捨てたいと千度百度思ったが、若君を無事にお逃がしするまではと思って生き永らえてきた。
今となっては心残りもない、暇申してさらばと言うが早いか腰の刀を取り出して切腹しようとせし時、女房は刀にすがりつき、落ち着いて下さいませ仲光殿、私とて思いは同じでございます。
まずは私を斬ってから自害なされませ、けれどもよもやお忘れではありますまい。貴方と私の亡き後、幸寿丸が身代わりとなったことが殿のお耳に入ったらどうなさいます、美女御前が深い山奥に隠れていらっしゃるのを探し出されるかもしれません。
そうなれば草葉の陰で幸寿丸もさぞや嘆くことでしょう、どうか自害を思い止まって下さいまし。夫婦一緒に幸寿丸の菩提を弔おうて取らせなば、どうして生死の苦海から脱け出して菩提を得ない事がありましようかと申せば、自らが命を惜しむに似たるべし、ともかくも良き様に御計らい給えと言いければ、死を決意して我が定めとしたが、もっともな理由に藤原仲光も自害を思い止まりました。
8 源信の弟子となり円覚と名乗る
一方、十禅師の美女御前は、右も左も分からず誰について学問してよいやら途方にくれておりましたが、けれどもこれも十禅師権現のお導きでしょうか、比叡山より、かの有名な恵心僧都が十禅師に参詣なさるところに行き会い、美女御前を御覧じて、これは何と美しい若君じゃ、このあたりでは見かけぬ顔じゃがどこから来られた、どういった身分の人かと尋ね給えば、
美女御前聞し召し、幼いときに両親に先立たれたみなし子にございますと仰せければ、僧都聞し召されて、それならば共に参られよとて、恵心僧都は同宿の僧たちに美女御前の手をひかせ自分の坊へ連れていきました。
かくて年月積もりければ、蛍雪の窓の前に肘を砕き、天台大師智顗の摩訶止観十巻を学び、師に使えて修学に勤め悟りの境地に達する観法の奥義を探求するなど熱心に学問に励み、御年十九歳になった時、正法念処経という経を読みながら、涙を流しています。
これを見た僧都は不思議に思ってたずねた、稚児よ何が悲しくて泣くのじゃと仰せければ、美女御前が、この経には親不孝な子供は阿鼻地獄に墜ちると書いてありますので、身につまされて泣いておりますと仰せければ、
僧都聞し召されて、おかしな事を申すものじゃ、そなたは幼いときに両親に先立たれたと申していたではないか、親不孝とはどういうことか。
美女御前聞し召し、今となってはもう隠し立てはいたしますまい、私は学問もせず、怠けておりましたために勘当された者にございます、親は津の国多田の里におります満仲と申す者にて候と仰せければ、
僧都聞し召して、これは何としたこと、日頃から並の身分の人ではないと思っていたが、さてはかの有名な多田の満仲殿の御若君であらせられたか、今まで気付かなかったのは愚僧の不覚でござった、それならばますます学問に励まれよ、立派な僧侶となられたあかつきには、この源信が多田満仲殿のもとに参上して、ご勘当の許しを乞おうではないかとて、
美女御前は十九歳で出家し恵心院の円覚と名付けられました、されば止観の窓の前には、唯一絶対の法華経、生滅を離れた万有の実相を見極めの月を澄まし、また迫害に堪え心を動かさない衣の袖には、四種曼荼羅の優れた特質の花を包み、遂に天台宗の教えの本質を窮め給いて、御年二十五と申すに師匠恵心の御伴をして多田の里にぞ下られける。
9 源信、円覚を伴い多田に下向
昔の陪臣は錦の袴を着てこそ故郷の人に見えぬると承りて候(出世して故郷に帰る例)が、今の美女御前は錦に勝る墨染めの衣をめされて故郷に帰り給いける。
まず、僧都が藤原仲光の邸に趣きひそかに案内と仰せば、藤原仲光は美女御前の姿を見て、あまりのうれしさに言葉もありません、流れる涙を押しとどめ、なんとめでたい若君のお姿よ、それにつけても思い出されるのは幸寿丸のこと、多田満仲殿もかねてより若君が僧侶となられることを望んでおられた、さだめしご対面なさるであろう、さあさあ、すぐに参上しましょうとて、藤原仲光はすぐに多田満仲の御前に参上しました。
美女御前のことは言わずに、比叡山で名高い恵心僧都が、殿にご対面なさるためにお越しですと申す。
多田満仲聞し召されて、何と申すぞ、あの恵心僧都が御自らおいでとな、思いがけないこともあるものじゃ、さあさあこちらへお通しせよとて僧都を招き入れます。
多田満仲は、僧都と対面して初対面でこのような事をうかがうのは、不躾かとは思いますが、我々のような大悪行の俗人は、後生にどうやって助かり極楽に往生する事ができるでしょうかと尋ね給えば、僧都聞こし召されて、それ法華経の名文に、大通智勝仏は十劫の間、道場に座して御られたが仏の法は現れず仏道をなすことが出来なかったと説かれたり。
仏も未だ出世し給わざる時は成仏もなく咎もなし、一念未生以前には無生無死にして成仏の直道にあらず、人の教導によるのではなく自ら深義を解悟すべきである、それ、経典の一詩頌でも聞いた功徳は計り知れない長い間に及んで良い果報をもたらす善行である。
大体人間は限りなく輪廻して多くの苦の生を生きるものだから、その輪廻を断つために仏道に縁を結ぶ必要があるのであり、ことさら武家の合戦の道までもこれを思し召し致さば、ひたすら仏の説いた戒律を守るという原点に立ち帰れば、諸々の罪は草に置く露のように消滅すると、天台大師の法華玄義と法華文句の見えて候と述べ給えば。
多田満仲、喜悦の眉を開き、それでは弓矢をとって戦っても、一心に願えば極楽に往生することができるとて御喜びは限りなし。
ちょうど九月十三夜の名月は澄み切って曇りもなく、山ありと知らする鹿の遠声も物寂しく聞こえて、千草にすだく虫の音までも自分の存在を人に知らせるかのように泣いている趣深い夜です。
円覚(昔の美女御前)は尊き御声にて法華経の一句を、寂寞無人声、読誦此経典、我爾時為現、清浄光明身と高らかに唱えれば、誠に人倫の住所なりというどもひっそりとして人の声もなし、四明の洞(天台宗発祥の聖地)にはあらねども、経典を読む御声は、梵天、忉利天の雲の上まで届くかのようです。貴いなどといったものではありません。聞く人はみな涙を流しています。多田満仲も感動してうれし泣きをしています。
恵心僧都にもうしばらく逗留してくれるように頼みますが、僧都は修行のために明日帰らなくてはならないと仰せければ、それならばあの御弟子の御僧に一週間残っていただきたく存じます。
恵心僧都聞し召されて、あの者は幼いときから常にそばに置いている者だが、一週間だけ留め置こう、御用がお済みになったら比叡山へ返していただきたいとの給いて、恵心僧都は勘当の御事をば一言も口にせずに翌日に比叡山へ帰ってゆきました。
10 母の眼を治した円覚の名乗り
円覚(昔の美女御前)は一人留まって、七日間経を唱えます、多田満仲はその様子を見て、貴僧はどのようなお方でしょう、某も貴僧と同じくらいの子供を持っておりましたが、学問もせず怠けてばかりいたので、家来に首を斬らせました、今さらながら後悔しておりますが、甲斐もありません、ここにおりますのはその母でございますが、悲しみの余り両目を泣きつぶして候。
今は盲目となってしまいました、貴僧のお姿を見ていると、何となくわが子に似ておられる、のう御台よ、この御僧こそ美女御前に少し似ておられるようじゃと仰せければ。
御台所聞し召されて、まあそれはそれはおなつかしいこと、これからは特に用事がなくともお立ち寄りになって経を聞かせて下さい、そうすれば心もなぐさみましょう。
円覚はこれを聞いて、さては自分のふがいなさのために、母は盲目となられたか、神仏も私を憎いやつと思し召しであろう、罪障(悟りの妨げとなる罪)の口惜しさよと、涙を流し、神様、仏様、どうか我が母の目を開かせて下せ給えと祈りました。
南無霊山世界の釈迦善逝、法華守護三十番神、本山護王山王十禅師、仏法の威力霊験、地に落ち給わず母の盲眼をたちまち開かしめ給へ、我見灯明仏、本光瑞如此と唱え肝胆を砕き祈られれば、誠に仏神も不敏に思し召されか、本尊の御前から金色の光が発せられ、北の方の額を照らしました。
多田満仲が大いに驚き、のうのう御覧ぜよ、本尊の御前から金色の光があらわれたぞと言うのを聞いて、北の方聞し召し、それはどこにと言った瞬間、有難や長い間盲目だった両眼が、たちまちばっと開きました。
多田満仲夫婦は、手を合わせ真の生き仏が座っておられるとて尊く礼拝し給えば、円覚は畏まって座を退きます。
多田満仲御覧じて、これはかたじけないこと、どうしてそのように座を退かれるのかと言うと、お釈迦様が説法なさった時にも、お釈迦様の父上である浄飯大王がいらっしゃる時には、仏であっても蓮華座を去って敬意を表したと言う事です、まして私のような卑しい僧は、なおさらでございますと円覚が答える。
多田満仲聞し召されて、あら愚かの仰せよ、それは親子の礼儀でしょう、我々は他人なのですから、どうして遠慮なさることがありましょうか。
円覚聞し召されて、今となっては隠し立ていたしますまい私はあの美女御前にございます、藤原仲光の情けによって、我が子幸寿丸を切り、我をば助けてくれたのです、今は縁あって、このように恵心僧都のお弟子となっておりますと語れば。
多田満仲夫婦は、円覚(美女御前)の袖にすがり付きこれは夢か現か。夢ならば覚めないでおくれと喜びます。
すぐに藤原仲光夫婦が呼び出され、これを見よ夫婦の者よ、今からは美女御前を、汝ら夫婦の為には幸寿丸と思って後生のことは頼もしく思うがよいとて、多田満仲夫婦も藤原仲光夫婦も、円覚にすがりついて喜びの涙を流します。
多田満仲は、九万八千町の領地を二つに分け半分の土地を与え藤原の中務(なかつかさ)仲光に治めさせました、また幸寿丸の菩提を弔うために小童寺(兵庫県川西市の仏法山菩提院)というお寺を建てて稚児文殊を作り獅子に乗せ給う。
11 自他一如の事
それ法華と言うのは、弥陀依正法万徳の位、過去現在未来の三世にある仏達がこの世に現れた目的は衆生を救済して悟りの道に導く事である。
経に現わす時は、妙法蓮華の五字に約(つづ)め、名に説く時は、南無阿弥陀仏の六字に摂するなり。
あるいは五劫思惟唯思(長い時間の思案に基づき、衆生の心に一切が存ずると言う釈迦の悟り)の経を、六字の波阿弥陀仏の名号に簡約化し、阿弥陀仏が十劫の昔に成就した正しい悟りの結果の功徳を、救いを求めて一心に阿弥陀仏の名号を念じる衆生に恵み与えていると見ることが出来る。
思惟と言うのは、座禅の無念無想の奥義である。
天台宗では、妄念を止め不動の心で諸物の実相を理解する止観で説明し、真言には実相(不変の真実の理法を悟り)教相(仏の教えの姿えの解釈研究)と述べたり。
法相宗の一切有(現象界の存在を有と認める)、三輪宗の一切空(現象界の存在の実体は空無とする)は、有相、無相の二有の対立的観念に依処している。
究極には実体がない融通無下の名詮自性(ものの名はその本性を現わす)は、これ全て一実無相(心理は差別を離れている)の開顕(とらわれを除き真実を顕す)にしかず。
ただ、止々不須説我法妙難思(三止三請の場面の仏の言葉)と観ずべし、中国の妙楽大師の御釈にいわく、諸教所讃多在弥陀故以西方而為一準(しょきょうしょさんたざいみだこいさいほうにいいちしせゅん)、唯心の弥陀故心の浄土なれば、本来無東西何処有南北(阿弥陀仏も極楽浄土も自分の心の中にあるとする天台宗の本覚思想の考え)と聞く時は、いかにもまして声に出して念仏を申すべし。
阿弥陀は本来の面目なり、十万億土も隔てず我々の心の中にはっきりと感得できる、歴々として分明なり、もとより方角なし。
数多くの仏の名号を念じれば心も本来の清らかさを取り戻す、どうして目に見えるような姿に関係があるのだろうか、もとより法華宗も念仏宗も元は同じ法門であった。
されば。古仏の伝にいわく、昔は霊山にあって法華を称し、今西方にあって弥陀と称し、濁世の末代は観音を称す、過去現在未来の三世の衆生を利益する仏は同じ仏体であ、とりしゅうしゃと云う云う。
如何にとして法華と念仏、格別に心得べき、ただ生死は春の世の夢の如し、真如の月は元より明白たり、他人の寿命を借りて自身の命をつなぐ、迷いの中では全てが非で悟りの境地では全てが是である、迷いも悟りも本来同一のものである、自他一如(区別ない)なり。
分明なるかや、先に死する幸寿丸、後に死する美女御前、今は早、名のみばかりぞ残りける、されば空也上人の一首の歌にかくばかり
世の中にひとり留まるものあらば、もし我かはと身をや頼まん
(この世に一人留まる者がいたとしたら、もしや自分ではと期待しようか)
と詠う給いけるや、東方朔の(仙術にたけ西王母の桃を盗んで長寿する)九千歳、鬱頭藍(釈迦が出家後師事した仙人うつつら)の八万歳も名のみばかりぞ残りける、悲想八万劫(三界の有頂天)、むとうが眠りも只夢の世の内なり。
多田満仲は、弓矢をとって仕える武士でありながら、罪障を懺悔し、発心したので、子孫も繁盛し、天下を治めること千年万年の源(氏)家が繁栄する礎を築かれた。
また、一方で、かように義理を重んじ、自分の命を捨てて名を後代に残した幸寿丸の心中、上古も今も末代も、これや例(ため)し、なかるらん、人々申し合いにけり(人々はその類なき心映えを褒め称えた)。
《参考》
◎ 越前幸若小八郎家に伝来する幸若家系図に、桃井安直が日吉権現の神前で満仲を語り、神託によって幸若舞を創始した由の由来諢がある、また幸若独自の語り物ではない。謡曲にも同名の曲がある。(「舞の本」校注者麻原美子)
◎ また、織田信長は、徳川家康の嫡男に嫁がした徳姫からの文で、徳川家と武田家の通謀を理由に家康に対し妻子(築山殿・徳川信康)の処刑を命じました。この時、徳川家老酒井忠次は、安土城に呼び出され、織田信長から「嫌疑十二条」を示されたにもかかわらず弁明することなく、その内の十条を素直に認めます。家康は、しかたなく二股城主大久保忠世に対し嫡男信康(岡崎三郎君)の監視を命じ幽閉させます。
1579年(天正七年)岡崎三郎君こと家康嫡男の信康は、自らの無実を大久保忠世に改めて強く主張しましたが、結局、服部正成の介錯にて21歳の若さで自刃しました。
◎ 歴史書「常山紀談」本の「岡崎三郎君の御事」の中には、徳川家康が幸若舞「満仲」を鑑賞した折の逸話が記録されています。幸若舞「満仲」の曲の内容は、源満仲の子で寺一番の悪童であった美女丸が、忠臣藤原仲光の子幸寿丸の身代により一念発起し、やがては円覚という高僧になっていくという大変劇的な物語の曲となっています。
家康が幸若太夫の舞「満仲」の曲を家臣たちと共に熱心に鑑賞中の事です。音曲の中では、源満仲が自分の息子である美女丸の殺害を家臣である藤原仲光に命じました。
命じられた藤原仲光は主君の心境を察して我が子幸寿丸の首を斬り落とします。そしてその首を主君の子美女丸の身代りとして、主君源満仲に差し出します。この場面に音曲が差し掛りました。
その時、涙を流しながら幸若舞を鑑賞していた徳川家康は、後ろで同席鑑賞中の酒井忠次と大久保忠世の方に振り返り「おお、二人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ」と舞っている幸若太夫の方を指さして言われました。家康のこの言葉に、酒井と大久保の両人は身を震わせて顔を上げられなかったということです。また、後年(関東に入った時に)、酒井忠次(隠居)の嫡男酒井家次は下総・臼井三万七千石しか与えられなかった、井伊直政十二万石、本多忠勝と榊原康政の十万石に比べ少ない事を、酒井忠次が機会をとらえて所領に対する不満を訴え出た折にも、徳川家康は「そちも、子はいとおしく思うのか」ときつい嫌味を交わしたということです。