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1 頼朝父とはぐれる
(源)義朝に三男、童名は文殊子、元服し給ひてその名を兵衛佐頼朝、いまだ若にておはせしが待賢門の夜戦にかけ負けさせ給い(平治の乱に初陣した源頼朝は、源平の激戦が行われ待賢門で敗北して父義朝に従って)東国さして落ち給う。
西坂本までは父(源義朝)の御伴召されしが、暗さは暗し雪は降る。下がり松(京都左京区)の辺りより(父との列に)追い遅れさせ給い夜もほのぼのと明くるまで(父・兄たちとはぐれ)吹雪に吹かれ道も無き雪の山にぞ(一人)迷われる。
御年は十二歳、いつしか都に居わせし時は輿車か稀にも馬に召すをだに(乗るのが普通であった身が)、世にも不思議に思せしに、徒(歩)裸足なる(での)雪の道(で)、これが始めの事(初体験)なれば、さこそ物憂く思すべき。
(源氏相伝の一つ源太が)産衣(うぶぎぬ)と申す鎧をば小原(大原)の里に預け置き(置いたが)、(源氏相伝の名刀)髭切の御佩刀(はかせ)を杖に突いてぞ落ちられける。
((平治の乱で源頼朝が着用した「源太が産衣」とは、始め小一条院の判官代として仕えた源頼義が覚えもめでたく院より、生まれた嫡子義家の顔を見たいと言われ、参内の時新調し、その袖に嫡子義家を座らせた、その後源氏嫡男の鎧着初めで使われる甲冑で胸板に天照大神と八幡神を鋳付け、左右の袖に藤の花を威した、清和源氏に代々伝えられる鎧で源氏八領の一つ))
されども、弓矢(武家)の名将とて、かかる吹雪のもの憂きに(宝刀)髭切ばかり(は)捨てもせで(できずに)命と共に持たれたり。
((髭切とは、源頼光四天王の一人渡辺綱は、頼光に用を頼まれ一条大宮へ遣わさる、帰り道一条戻橋で美女に夜で心細いので五条まで送ってほしいと頼まれ、馬に乗せ行く途中鬼に姿を変えた美女は我の行く所は愛宕山ぞと言い綱のもとどりを掴み乾の方へ飛んで行く、綱は少しも騒がず宝刀髭切で鬼の腕を斬り落とす綱は北野天満宮の回廊に落ち、その後鬼は綱の養母に化けて屋敷を訪ね、斬り落とされた片腕を奪い取っていった時の刀))
既にその夜も明ければ、今は追手ぞ懸るらん。行方も知らぬ(氏素性もわからぬ)雑兵のその手に懸り、中々に(かえって)源氏の家の名を腐(くだ)さんよりも(名誉を汚すよりも)、清き(潔く)自害をせん(しよう)とて、雪の上に柴折り敷き、御肌の守りより(懐から)法華経一巻取り出し、心静かに遊ばして、追手掛からば尋常に清き自害と思し召し、しばらく息をつき給う。
2 草野庄司の助け
かかりける所に、蓑笠着たる(姿の)旅人の二人連れて京の方へ(に向かう)通りしを(通りかかったので)、頼朝御覧じて、この者共を頼み(にて)何処へも一先ず落ちばやなん(落ち行かん)と思し召し、なう如何に旅人と御言葉を掛け(呼び寄せ)給う。
何事にやと申して御傍近く参りければ、頼朝これ由御覧じて、我は人目をつつむ者、然るべくは(出来る事ならば)御芳志に(お気持ちで)助けて賜ベ(お助け下さい)と有りしかば。
庄司これ由承り、これ(私)は間近き北近江伊吹の裾に住まいせし草野の庄司とは我事なり(旅人は、名乗り、我が)子にて候、藤九郎が君(殿)のお供仕り罷り出でて候しが、待賢門の夜軍(よいくさ)に味方(源氏が)かけ負け(敗れ)給いて、行方知らずと承れば、その行方をも聞かん(探す)ため片田(堅田)の辺りに有りつるが都へ上り候ぞや(探しに行く途中なれば)、かかる差し合いなかりせば(このような事情がなければ)易き程の事なれども、人を助け参らせて(今人助けしている場合ではなく)、我が子は何と成すべきと(どうなることやかと)、すげなく其処を通りけり(過ぎようとした)。
頼朝この由御覧じて、さては運命尽きぬるや(運尽きたか)、しばし留まり、願わくば死骸をなりとも隠して行け(埋めてほしいと)腹を切ると宣給いて、押し肌脱がせ給えば、庄司心弱くして御刀にすがり付き、年の程を見申せば、まだうら若き緑子(幼児の事を言うが緑で松が導かれ)の松の久しき末までも(行く末長く)、実に頼もしき年の程(年齢で)、我が子も生きて有るならば、この君に如何程年増さん(似た年頃)、この君御自害ましまさば(なされば)父母(この事を)伝え聞こし召し、さこそ庄司を疎(うと)ましく鬼畜のように思すべき(思うだろう)。
この君を一先ず落ちさせばやと思いて、蓑に押し巻き奉り十文字に(縄で)結い絡(から)げ、供の男に掻き(背)負わせ上に古蓑打ち掛けて、都には上らずし(向かわず)片田を指して下りしは、情け一とぞ聞こえける(情け深さにおいては比類がないと言われたことだ)。
いくほどなくて後よりも(途中、すぐに落人狩りの)横川法師(延暦寺の三寺坊のうち横川所属の衆徒)の大将に大屋の注記を先として五十余人楯をつき、怪ししや旅人よ止まれ止まれと追いかける。
庄司荷物を先に立て我が身は跡に踏みとどまって、これ(私)は他所より来たらず(よそ者ではなく)、御領内の百姓(で)小原の里に住まいする次郎太夫と申す者、元三(元旦用の副食用品)の菓子(果実)のために野老(新年の季節正月の食べ物)を持たせて、坂本へ参る(運ぶ途中の)者にて候なり、落人はこの先へ、その数数多(あまた)お通りある、疾うして(速やかに)追わせ給へや(下され)と雪踏み退けてやり過ごす。
かくて(源)義朝は片田(堅田の湊)より御船に召され(乗って)向かいの地へと聞こえければ、力及ばず追手の者共は皆坂本へぞ帰りける、その後、庄司静かに歩み片田へ入れ参らせ知る人を頼み、一葉の船に棹をさし朝妻(琵琶湖の東岸)の浜に上がり。
さのみ御身をいかにとして(このように何時までも貴方を)蓑には包み申さん(包んでいられましょうか)と、それよりも(そこからは)御手を肩にかけ草野の里に入れ申す、我宿所にていたわりて、新玉(新年)の月を送りしは目出度かりける次第かな。
ある時、庄司申しけるは、これより何処を指して御急ぎぞ、御心ざしの所まで送り届け申すべし。
頼朝これ由聞し召し、指して行くべき方もなし、何処の里なりとも哀れと言う人の有らば住み果てんとぞ仰せける。
庄司この由承り、我が子の九郎まだ見えず、折節来り給えば九郎が生まれ来れるか主とも子とも思うべし是にましまし(ここへ住んで)候へとて深くいたわり奉る。
国内、通計(つうげ)のことなれば(知れ渡っていることなので)、(源)左馬の頭義朝は尾張の長田に討たれ給い、御首上り獄門に懸れる由を聞し召し(親の死を知った頼朝は)、いかに庄司、我を誰とか思うらん、(源)義朝に三男、童名を文殊子、元服して頼朝なり、さりともと思いし父は討たれ給い御首上り獄門にかかる由を聞いてあり、今は命の生きたりとも誰か哀れと問うべきぞ、都に上り今一度父の御首一目見て、もしもの命長らえば(討たれなければ)様を変えて(出家して)ひたすらに亡き人々を弔うべし暇申してさらばとて立ち出でさせ給えば。
庄司をはじめ女房も御袂にすがり、さては、我が子の九郎めが主君にてましますや(でありましたか)、我が子にこそは離れむめ、(その上)君さへ別れ参らせて、我等は(今後)何と成すべき(どうすればよいのか)と袂にすがり泣きにけり。
頼朝この由御覧じて、実に実に申しも理なり(道理なり、源氏の宝刀)髭切を(ここに)留め置く、是に置きては悪(あし)かりなん。
美濃の国青墓の長者が許へ送りつつ、いかならん世までも失はで(失う事無く)持て(持ってて欲しい)と申すべし(言ってくれ、更に)ここに刀一つあり、八幡殿の御刀、名を岩切(藤原保昌が酒呑童子退治の時に携行したとされる刀)と申すなり、憂き世の中の形見に庄司殿に取らすぞ、不思議の世にも出でたらば、この刀を知るべにて訪ね来たり候へとて、我が身は脇差ばかりにて(脇差のみ差し)編み笠にやつれ果て(た姿で屋敷を出て)都へ上り給いける、心ざしこそ哀れなれ。
((酒呑童子絵巻等には、京の都で姫君が次々神隠しに合い陰陽師安倍晴明の占いで大江山の酒呑童子のしわざと判明、一条天皇の命で源頼光は配下の藤原保昌と四天王を連れ六人で大江山に向かうが城が分らず、住吉神八幡神にが姿を変えた不思議な老僧達と出会う、神便鬼毒酒という酒をもらい山伏姿に変装するよう勧められる、頼光の笈には、らんでん鎖という緋縅鎧にちすゐという劔二尺一寸を、藤原保昌の笈には紫おどしの腹巻に元小長刀の柄を三束ほどに短くして打刀に変え二重に金を延べつけた岩切いう二尺の小薙刀を、渡辺綱の笈には萌黄の腹巻に鬼切と云ふ太刀を、碓井貞光、卜部季武、坂田金時も思いの腹巻にいづれ劣らぬ劔を入れ、鬼ヶ城で仲間になりたいと偽り鬼たちの宴に入り持参の酒を勧め鬼が酔いつぶれたところを見計い武装し、寝所を襲って酒呑童子の首をはね、首を都に運ぶ途中丹波と山城の境で、地蔵尊から不浄の首を都に入れるなと言われ途端に首が重くなったのでその地に葬るそれが丹波の老の坂である、酒呑童子の最期は、頼光の兜に噛み付き鬼に横道はなきものを、これは自分は道に外れたことはしていない道に外れているのはお前たちではないかと言葉を吐いたという))
3 頼朝、宗清に捕まる
さても、六波羅の御所(平家)には、人々に勧賞を行はる(戦の功労者への恩賞である領地を授けていた)。
弥平兵衛宗清には、美濃の国垂井を賜わり罷り下りしが(途中)、今津河原を通るとて頼朝に参り合う(出会う)。
編み笠の内人に忍ばせ給う体(顔を隠して通る様子)怪しく思い申しとて、笠引き落とし見申せば頼朝にておわします。
(これは)天の与うる敵(天からのご褒美)とてやがて(直ぐに)生け捕り奉り、美濃へは下らずし急ぎ都に上り(引き返し)六波羅に参りこの由かくと申し上げる。
(平)清盛聞し召し、さればこそ、ここぞとよ(やはりそうだ、そういう事なのだ)運は天の成す所、果報は過去の宿ゆふ(この世の運命は前世の業因がそのまま取りついて応報となったもの)
(源)義朝は討たれぬ(討たれた)、悪源太(嫡男、源義平、六条河原で処刑)、朝長(次男、父義朝と青墓の宿で傷口が悪化し腹切った)は腹切りぬ、(三男の)頼朝も生捕りぬ(生捕った)。
今は誰か残り居て平家に敵をなすべき(敵となる者はいない)、やがて頼朝切るべけれども、古刑部卿忠盛(清盛の父平忠盛の命日)の仏事、折節(ちょうど)差し合いなり、仏事過ぎて切るべし(過ぎてから頼朝を切ろう)。その間、(弥平兵衛)宗清に(頼朝を)預くるぞ。
(弥平兵衛)宗清、頼朝を預かり申し、幾程ならぬ生涯(余命いくばくもない命)を見るこそ中々哀れなれ
あらいたわしや頼朝幾程ならぬ生涯とて心まします御僧たちを請じ申し、後世の黄泉(死後死者の魂の行く所)暗き闇の迷いを頼み奉り、未だ幼稚にましませど(身なのに)持経者にて(法華経を肌身離さず持って)御座あれば、日夜に御経怠らず、暁方の回向には、この御経の功力によって父兄先立つ人一つの蓮に生まれ給へと一心に回向し給えば、(弥平兵衛)宗清も女房もこの由を承り、ただ人の宝には子に過ぎたるはましまさず、あれ程嘆きの御中に念仏申し経を読み回向の心ざしをば十方の神仏さこそうれしく思すらん、悔しくもまた宗清が生捕り参らせて憂き目を見る悲しさよと夫婦ともにいい語り深き思いとなりにけり(念仏や読経して亡霊の菩提をとむらう姿に夫婦は深い嘆きの種となってしまった)。
4 宗清夫婦の恩情
小夜うち更けて殊更心細げにまします所へ、(弥平兵衛)宗清夫婦まいり酒を進め申せども更に見入れ給わず、若き人にてましませば偽り御心をも慰めばやと思い。
いかに頼朝聞し召され候へ、実にや承れば古刑部卿忠盛(平清盛の父)の仏事、折節(ちょうど)差し合いなり、その他死罪の人々も皆首を繋ぐと承る。
殊更、御身をば横川の僧都めいしゅん、三井の僧正ゆふあん、仁和寺のけいうん折りしきりに申さるる御訴訟(嘆願)の前なれば、たとえ流罪はなさるるとも死罪は更に候まじ(死罪まではありません)、御心安く思し召せと偽りすかし(嘘でなだめ)申せば。
頼朝聞し召し、あら愚かなリ(弥平兵衛)宗清、命を惜しみ頼朝が嘆く身にては無きぞとよ、昔は源平両家とて鳥の二つの羽交ひ車の両輪の如くにて(両家揃わなければ役に立たず)劣り勝りは無くし天下の守りと有りつるが、前世如何なる事ありて、この時滅び果つるらん、父兄兄先立つ人一つの蓮に生まれんと此の事ならで他事もなし、今夜はこの酒飲むべきなり各々も参り給えやと嘆く気色もましまさず(様子もなさらず)。
頼朝仰せけるは、此の程は管弦すさみつるにあまり思えば心なし(最近音楽から遠ざかっていたので)笛やあるとの御諚なり(笛を貸すように頼んだ)。
(弥平兵衛)宗清承り、漢竹(中国製)の横笛を取出し(頼朝に)参らせ上げる、頃は春の半ばなれば双調に音を取りて、しゅつこん楽を遊ばし憂き身の上の嘆きには、くわいこん楽を遊ばす。
(弥平兵衛)宗清も女房も、感涙押さえ難くして、琵琶一面琴一張取りい出し、女房に琴を押し預け(渡し)、我が身も琵琶の緒を合わせ撥音気高く弾きければ、女房涙諸共に十二の弦を選り立、為の緒(十二番目の弦)に手を駆けにけり、これ(楽器は)仏教の器物(仏道への菩提心を誘う機縁になる物)、憂さも辛さもうち忘れこれに慰み給いけり(慰められた)。
夜もほのぼのと明け方に、門を叩く者あり、人を出して問すれば、頼朝を今日切るべしと申使いなり、琵琶、琴を取り潜め(隠し)頼朝に抱きつき申し泣くより外の事はなし。
頼朝大人しやかに(落ち着いた様子で)給いけるは、思い設けたる事なれば(前より覚悟していた事なので)今更嘆くに及ばず、定めて首をば大路を渡さるべし髪梳(かみけずり、髪をすく)てたび給え。
(弥平兵衛)宗清も女房も、名残りのためと思いければ、三十三枚(歯)の櫛と払いを取り出し、昨日までは一筋を千筋百筋、千秋万歳(千年万年、長い年代の栄えを寿ぐ言葉)と祈りし黒髪を、今日は又、六条河原の蓬(よもぎ)が許の塵(ちり)となさん事こそ悲しけれと落ちる涙に目がくれて、櫛のたてども見も分かず、さてあるべきにて有らざれば夫婦ともに分けけずり(髪をすく)、行水させて参らせて、生絹(すずし、練っていない絹糸で織った布)の単衣(ひとえ、薄い裏なしの衣)肌に召させ練貫(ねりぬき、絹織物)に大口(裾口が大きく広い袴)重ね、憂かりけるかな法(定め)なりとて高手の(両手を後ろに廻し)縄をかけ申す。
(弥平兵衛)宗清も女房も、高手の(両手を後ろに廻し)縄に取り付いて、それ人は一樹の陰一河の水を汲む事も他生の機縁(同じ樹の陰に宿り同じ川の水を飲むのも前世からの因縁による)と承るが、今生ならぬ御機縁に参り合い候て、今更憂き目を見る事よ、御用いも有るならば我々夫婦が首を召され、頼朝の御命を助け給えや悲しやと、流涕焦がれ(深い涙で)泣きければ、実に情けなき方までも哀れと問わぬ人ぞ無き。
5 池殿、頼朝を救出
頼朝、逆修(生前に自分の死後の冥福を祈って行う仏事)のために、卒塔婆を三本刻み、一本は父のため、一本は兄兄のため、今一本は我のためとて、上には(密教の)阿(の)字を遊ばし(記され)、中には経の文、下には趣旨回向の旨、年号日付、源頼朝と遊ばし(記され)、この辺にいづくにても(何処でもよいので)、駒の蹄も通わず車に圧されぬ(踏まれない静かな)所やある、尋ねて参れ(持って行って建ててくれ)と仰せければ、(弥平兵衛)宗清承り三つの卒塔婆を賜わり、いずくいずくと申すども駒の蹄も通はず車に圧されぬ所は、池殿(池の禅尼)の山荘(内の)中島なりと申して西八条(平清盛の別荘)に持っていき、中島に渡り三つの卒塔婆を立てる。
かの池殿(池の禅尼)と申すは古刑部卿忠盛(清盛の父平忠盛)の後家(未亡人)にておわします。
(平)清盛には御継母、慈悲第一の人なり(「平家物語」に池の禅尼が頼朝の助命をするのは我が亡き子家盛に生き写しであったためとする)。
折節(折しも)、縁にましませしが、(池殿が)誰、卒塔婆ぞ問い給う(どなたの卒塔婆かと尋ねられ)、只今斬られ給う頼朝の卒塔婆なりと申す。
召し寄せ御覧じて(卒塔婆に書かれた立派な筆跡を見て)、(他)人して書かせけるか(書かせたのかと言われるので)、いや自筆なりと(答え)申す。
いくつになるぞと問い給う。十三と申す。
年の程よりも、手は遥かに大人しく見えけるや(筆跡も十三と言う年齢よりも大人びている)。
要文多しと言えども殊に勝れたる名文なり(文面も経文の大切な文句を入れ立派なものだ)。
何々「我従無数劫来、積集諸大善根、一分不留我身、施与十方衆上」
この文の意(味)は、我、無数劫より(数えられないほどの長い時間より)此の方、積み集める諸々の大善根を、一分も我身に留めず、十方の衆上に施し与う。
これ(は浄土成仏と穢土成仏を対比的に述べ悪世における穢土成仏を願った釈迦の大悲を讃えた経典)悲華経の名文なり。
(文章に心を動かされて、)この理を聞く時は助けでいかがあるべき(助けないでは済まない)、(牛)車遣り出せ牛飼いよ、急げ共せよ(弥平兵衛)宗清とて、取る物も取りあえず(頼朝斬首の刑場の)六条河原に出で給う。
さる間、頼朝は(刑場護送の)追つ立ての官軍(役人)七八十人が中にして、源五右馬の允(は)縄取りなり、介錯人は難波(次郎経遠)、妹尾(太郎兼康)、五条の橋より下、六条河原へ引き出す。
さる間、頼朝、敷革に直り(座らせ)給いければ介錯人が参り西の方へ押し向け御念仏を勧めければ、手を合わせ高声に念仏申さるる。
池殿の御車を半町ばかりに遣り寄する(寄せる)、御念仏のその声が(牛)車の中へ聞こえければ、池殿聞し召し、自ら行くと思わば(私が行くと知ったら)やがて頼朝切らうず(事が面倒にならない内にすぐに切ってしまうであろう)。
人に知らせで(知らす事無く)この車を早めよ、やれ(弥平兵衛)宗清。
鞭を打てや牛飼よ、唯(ただ)一所におどるは(車が進まず一カ所ではねているようなのは)、わざと頼朝切らせんとや(わざと頼朝を斬らせてしまおうと言うのか)、頼朝切らるるものならば我は御所へは帰るまじ、やがて身を投げ死のうぞ、如何にや殿、(弥平兵衛)宗清抱き降ろして賜び給え、ただ一飛びに走ろうに。
物見(牛車の小窓)の簾をさっと打ち上げ、車の榻(しぢ、牛車の踏台)に只今転び落ちんとし給うを、検見(検証)に立てた後藤内(兵衛定綱が)車の飛ぶを見つけ、いかさま四箇の大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)より、大僧正か僧都が囚人請わん車ぞ、疾く(早く)切れや(斬ってしまえ)と指をさす。
太刀取り後ろへ廻って投げかけんとせし時、八幡の誓いかや(源氏の守護神八幡大菩薩が頼朝を守護しようとしたのか、介錯人が)河原の石に踏みくじけ(違えて)うつ伏しにかっぱと転び太刀を河原に投げかけ、起き上がって太刀を取らん取らんとする隙に、車をさっと遣り寄せ未だ止めもせざりしに、池殿転び落ち給い、頼朝を引っ立て同じ(自分の)車に打ち乗せ、求めた殿の首かな(私が探し求めていた首だ)、今はよも切られじ(もう大丈夫)、心安く思え(安心なさい)とてはらはらと泣き給う。
頼朝も池殿の御袂(たもと)にすがり付きはらはらと泣き給う、ものによくよくたとうれば、罪深き罪人、倶生神(人が生まれた時から肩に居て死後閻魔王に善悪行為の記録を奏上する神)の手に渡り、無間大城(地獄)の底に落とさるべかりしを、六道能化(六道の衆生を教化すると言う菩薩)の地蔵(菩薩)の錫杖をからりと打ち振って、(地蔵菩薩の真言)かかかんみさんまい(一切衆生の種々の煩悩をこの呪で希有に除く)と呼ばはりかけ救い上げ助けんとし給うも、これほどぞありつらん(地蔵が罪人を救うのも是位のものであろう)、八条殿に帰られる。
検見、奉行も、切り手も六波羅殿に参り、清盛にかくと申しければ、疾う(早く)切らぬこそ不覚よ(斬ってしまわなかったのが失敗だった)と御後悔とぞ聞こえける。
6 池殿と頼朝の親子の誓い
(平清盛は)やがて主馬(寮)の判官(長官、平)盛国(清盛の側近で重臣)を召して、汝(なんじ)、八条殿に参り申すべき事は、力及ばず、頼朝をば池殿に参らせ候(池殿の助命の願いを聞き入れ身柄を任せることにてした)。
源氏に伝わる重宝に、(源氏相伝の)鎧には、かんたが産衣(源太がうぶぎぬ)、七竜、八竜とて有り、(宝刀の)太刀には髭切とて候を、今度、(源)義朝(が)待賢門を出でし時(から逃げ出る時)、(源氏の宝を)嫡子悪源太にも譲らず、二男朝長にも譲らず、三男頼朝(が末代の大将と見たか頼朝)に譲りぬる由聞こえ候(譲ったと聞いている)。
((「異制庭訓往来」では、凡源氏相伝鎧には、七竜、八竜、月数、日数、源太産衣、膝丸、薄金、小袖等がある))
おそれながら、池殿の御口入(こうじゅ、口添え)によって尋ね出して給わらば(もらえば)、平家の宝たるべし(宝になる)と御使いを立給えば。
池殿聞し召されて、頼朝にかくと仰せければ、頼朝聞し召し、あら何共なの事共や(取り立てて問題とすることもない事だよ)、家に伝わる重宝を命を惜しみ如何にとして敵の手に渡さんと思し召されける間、とかくものをも宣わず、思い入りてぞおはしける(考え込んでいた)。
池殿仰せけるは、愚かなリ頼朝、命だにも(命が)有るならば宝を求めて待つべし、只自らに御任せ候いて、ありのまま仰さられよ。
頼朝、実にもと思し召し(しぶしぶ)、さん候、産衣をば山科のしょうしんが許、髭切は美濃の国青墓の長者が許に預け置き候と、ありのままにぞの給いける。
((この太刀の行方については諸説があり、屋代本平家・剣の巻では頼朝のことづけで草野丞が熱田大宮司に渡して熱田社に納められたとするのに対し、平治物語諸本は青墓の長者の許に置かれてあったが泉水を髭切と偽り頼朝もこれを黙認し清盛の許に置かれた、あるいは後白河院の手に渡ったとする))
池殿御喜び有て六波羅へかくと仰せければ、六波羅より使いを立て二つの宝を召し出す。
かくて(こうして源氏の)二つの宝、平家に納まるべきにて有りし(物となったものの)を、小松の内府(平清盛の嫡男の重盛)の仰せには、愚かなる御諚かな、これは源氏の宝なり、源氏方に持ちてこ、宝とはなるべけれ(なるものを)、平家方に持つならば障碍(しょうげ)をばなす共(さまたげになる事があっても)、宝となる事候まじ(宝にはならない)ただ返し給えとて(申し立てた、よって)、皆々源氏へ返されけり。
さらば頼朝をば、いかならん波島へも流し失へ(どこの島に流してしまえ)と仰せけり、一番の度には伊勢の国御座の島(志摩半島の突端)とぞ聞こえける
池殿聞し召し、かの御座の島と申すは伊勢平治が多くして叶うまじと仰せける。
二番の度には、伊豆の国北条蛭が小島、これも心許なしとて御身間近き侍に、纐纈(こうけつ、頼朝の脇肱の臣)の源五盛康が子に(安達籐九郎)盛長と申して生年十六歳に罷りなるを間近く召され、いかに盛長よ頼朝が共をして伊豆の国に下り朝夕宮付き(宮使い)申すべし、いささかの(ちょっとした)事もあるならば、急ぎ我に知らせよ、我の事にて有るならば(もしもの急な事があったなら)、盛長先に腹を切れ、後をば問うて取らすべし(死後の弔いはきっとしてやろう)。
如何に頼朝、産まずとも(私が産まなくても)我をば親と思うべし、御身を子供と思おうぞ、南無や源氏の氏神の正八幡大菩薩、頼朝の御寮(貴人の敬称付)を安穏に守り給えやと後姿を拝み給う。
頼朝も立ち帰り伏し拝ませ給いけり、生まれ合うたる(この世にちょうど生まれ合わせた)親子ぞと御喜びは限りなし。
さるほどに頼朝、(安達籐九郎)盛長を伴い伊豆の国に下って(1160年配流)、北条蛭が小島にて二十一年の春秋を送らせ給いけるとかや。
遂に源氏一円の御代(全国を支配する時代)となり給いて、攻めし所はどこどこぞ、一の谷鵯越(ひよどりごえ)、讃岐に屋島、長門に壇ノ浦、早、鞆が沖までも三年三月に攻め靡(なび)け天下を治め給う事、八幡大菩薩の御誓いとぞ聞こえける。
このほか宝刀髭切等の話としては
《参考》
◎ 1594年(文禄三年) 10月大29日、江戸亜相(家康)へ冷同道罷向対顔了、碁・将棋有之、見物了、舞之太夫高(幸)若一、以上五人来了、舞二番(イフキヲロシ、カマタリ)等有之、聞了、次夕食有之、相伴衆三十四人有之、酉下刻ニ帰宅了(言経卿記)