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1 文学の勧進
ここに源氏が御代(世)に出でさせ給ひたる由来を詳しく尋ねるに、元は津(摂津)の国、渡辺源氏(大阪市中央区、先祖は渡辺綱)の大将に遠藤武者遠房がその子に遠藤滝口盛遠という者がいたが、出家して戒名を文学(文覚)と名乗った。
その頃、文学(文覚上人、遠藤盛遠)は、前代未聞の荒行をこなし真言密教に心を懸け、極熱猛暑に笠をも着ず、厳冬の寒き夜に衾(ふすま)の数をも増やさず、大峰山から葛城山までの修験道を七度通り、熊野の那智の滝に三十七日間打たれ、正身の不動明王に逢い奉りしかば、すでに高徳の僧となり申しけれ。
その後、都に上り愛宕山の麓、高尾の神護寺と申す古寺に御座有りしが、かかる破壊の堂舎を修補し、仏閣を建立することを本望とし、先ず鐘楼から建てようとて、洛中洛外を勧進して廻られしが。
まず、後白河院の御所である法住寺殿へ参り、これは、高尾の神護寺の鐘撞き堂の勧進に参りて候、御寄附くださいと勧進帳を高らかに読み上げた。
頃は卯月(陰暦四月)上旬の事なるに、遅桜散る木の下は寒く空に知られぬ、卯の花の雪に見たてて御庭に散り敷きて、山ほととぎす村雨に、濡れてさ渡る折節に、後白河院の御所の仏前で読経に合わせて管弦を奏して営む法会の最中なり。
上臈(女官)たちが御覧じて、騒々しいなり、あの法師後日参られよ、御奉加(神仏への寄付)有るべしとの御諚なり。
文学聞し召され、何、院の管弦法会とや、笛、琴、琵琶などの遊びはひとときの栄華、鐘撞き堂の勧進は末世のためにあらずや、管弦法会を止めて御寄附あれと、文学(文覚、遠藤盛遠)は再び勧進帳を高らかに読み上げた。
上臈たち御覧じて、騒々しいなり、あの法師を追い出せとの御諚なり、承ると申して青侍(官位の低い若侍)七八人がはらりと立って、文学(文覚、遠藤盛遠)を引き出し、後日に参れ御奉加(神仏への寄付)あるべしとの宣旨にて候に、重ねて参る事こそけしからん事であると言うままに、首でののしって追い出す。
文学(文覚、遠藤盛遠)、合点の行かない事なれば、いかにも静かに歩み出るが、急ぎ出よと言うままに、勧進帳を奪って二つ三つに引き裂き彼処へ、がはと投げ捨て又取って引き立て門の外まで追い出した。
文学御覧じて、そもそもこれは何事ぞ、駄目だと言うのなら理由を説明すればよいものを僧衣をまとった身に恥をかかせるとは腹立たしい事だ、よくよく考えてみれば、千手観音の護法神二十八部衆、薬師如来の護法神十二神将と、降三世(密教五大明王の一つ)、軍茶利夜叉明王が不動明王の剣を引き下げて悪魔を退治されるのに。
何ぞ、文学が帯びたるこの剣は、どういう時のためのものかと思し召し、薄墨染の衣の袖をくるくると繰り上げ、右手脇下から氷のようなる剣を抜き、追いかけ、追いかけ刺す程に、青侍七八人一気に刺し殺す。
門番の武士共集まって文学を縄で縛りあげ、庭上の小庭に引き据えたり。
上臈たち御覧じて、乱暴者の文学とはあの法師の事か、急いで首を刎ねよと意見する。
されども、法皇よりの宣旨では、たとえ破壊者と言えど袈裟を着ている者なれば、七条大路に土牢を掘り、落とし入れ、百日待つべし、百日過ぎて掘り起し跡をば弔うて得させよとの宣旨なれば、官人ら鋤、鍬を持って出で、七条西の洞院に二丈五尺に土穴を掘って文学を落とし入れ、上にも土をかぶせ百日日数を送りしは実に哀れなる次第なリ。
2 文学に薬師の加護
かくて、十日ばかり過ぎた頃、文学の牢の中にて声ありて、この中の聖、聖と呼ぶ声がする、文学聞し召されて、こんな土窟に訪ねてくるものなどないのに、ただただ自分を殺してしまおうと言う宣旨であるのだな、五濁十悪といわれる種々の汚濁や罪悪が充ちている世の中なる間、そういう宣旨があったとしても、自分ではどうする事も出来ないとこそ仰せけり。
そうではない、比叡山根本中道の本尊、薬師如来よりの仰せであるぞ。
たとえ、あの者が、破壊の者と言えども、あらざる大行を企て未だその願い成就せず、この度の命助け置き願いを成就させてやろうとの仰せで、薬師如来の護法神十二神の中より金毘羅大将がお使いに参りて候。
土牢の中は暗い闇なれば、薬師如来が左手に持つ薬壺を与えるぞ、これからはこの壺の光で照らし、食事の望み有れば、この薬を服用し命をつなげ、それ給われや文学と言って、実に貴やかなる御手にて瑠璃の薬壺をぞ下さりけり。
実にと暗き闇をば壺の光で照らしけり、食事の望みのある時は薬を服して命をつなぐ、何にその身の衰うべき、痩せず黒まず文学は日数を送り給いけり。
また十日ばかり過ぎたころ、比叡山根本中道の薬師如来よりの仰せがある。
さように土牢に籠って居らずに、我が観音の前に来て、経を読み仏の教えの陀羅尼を唱えて完結させ百日待つべし。
文学(文覚、遠藤盛遠)承って、このような土屈に籠ってどのようにして出るべきぞと言うと、その時、薬師如来の御使いである金毘羅大将が腹を立て、そういう考えでいるから、このように土屈の中の暗闇生活の苦を受けるのだ、神通自在の力で思いのまま容易く出られることよ。
文学(文覚、遠藤盛遠)、実にもと思し召し、居たる所をさっと立つと、その身はけし粒のように小さくなって出でられけるぞ殊勝(感心する)なる。
さて、金毘羅大将と共に比叡山根本中道に参り着く、経を読み陀羅尼を満ちて給いて明かし暮らすとせし程に、はや百日になりにけり、満じる夜半に、かたじけなくも御帳の内より御本尊が霊験あらたかな声を出された。
いかに文学、日数も今日は百日目、人が考え望んでいることを駄目にするのは、菩薩の行にあらず、急ぎ土牢に帰り法皇のお尋ねに答えなさいとの御諚なり、承ると申して急ぎ土屈に帰られる。
3 勧進帳を読む
さる間、法皇よりの御諚には、先だっての僧は日数も今日は百日と覚えたり、急ぎ土屈を開け死後を弔ってやりなさいとの宣旨なれば、役人が鋤、鍬を持って出で土屈を開けてみて有れば、痩せもせず、黒みもせず、血色あでやかににっこと笑って出給う、役人は仰天し東西にばっと逃げ散ったり、文学御覧じて、のう何とて動転し給うぞ、私の姿は在りし時の聖にてはなきかと、出てきた文学に力を付けられて、ようよう心を取り直し、すぐに、後白河院の法住寺殿にお連れした。
上臈たちが御覧じて、御目を合わせ舌を巻いて怖気づいた。
法皇、叡覧ましまして、殊勝(感心した)なり文学、さるたとえがある、愚か者がすることは善のつもりでも罪の要因を含んでいるが、智者のすることは罪であっても全て善の要因を含んでいるとは、今こそ思い知らされた、さらば、有りし時の勧進帳を読んで聞かせてくれ、聴聞あるべしとの御諚なり。
文学聞し召されて、すでに捨てられた勧進帳が今手元にあるはずもなく、時間をおいてからでは意味がないと、持ちたる扇を押し広げ、勧進帳を声高らかにこそ読み上げけれ。
4 勧進帳(本文)
沙弥(比丘になる前の十戒を保つ出家者しゃみ)文学敬白(文学謹んで申す)、殊には貴賤道俗の助成を蒙りて(身分の高い者低いもの僧侶俗人の援助を受け)、高尾山の霊地に一院を建立し、二世安楽(現世と来生が安らかで苦痛がない)の大利(利益)を勤行せしめんと請う勧進の状。
それ密かにおもんみれば(静かに考えてみるに)、真如広大也(宇宙諸法の本性は計り知れない)。
生仏の仮名を立と言えど(衆生と仏と仮の名で区別はしているが)、法性随妄の雲厚く覆って(心理が妄念によって覆い隠されて見えなくなって)、十二因縁(生死輪廻する因果)の峰にたな引きしより以来(このかた)、本有心蓮(本来備えもっている清浄な蓮花のような仏性)の月の光りかすかにして、いまだ三徳四曼の太虚に現れず(仏の徳と諸尊の働きが大空に現れていない)。
悲しきかな、仏日(仏は)早く没して、生死流転のちまた、冥冥たり(生死流転を繰り返す人間世界は暗闇に閉ざされている)、只色に耽(ふけ)り、香に耽る。
誰か、狂象跳猿の迷いを謝せん(誰が狂象跳猿のような本能のとりこになった者の迷いを押さえ除く事が出来ようか)。
いたづらに人を謗(そしる)じ、法を謗(そしる)ず、これ、豈(あに)閻羅獄卒(閻魔庁の鬼)の責めを免れんや。
ここに、文学、たまたま俗塵を打ち払いて、法衣を飾ると言えと、悪行なを心にたくましくして、日夜に罪を作り、善苗又耳に逆らって、朝暮に廃る(将来良い結果を生ずる因になる善言は、反発を招いて受け入れられない)。
痛ましきかな、二度、三途の火坑(火の燃える穴)に(悪趣)帰って、長く四生の苦輪(苦悩を輪廻する)を廻らさん事を。
このゆえに、牟尼の憲章(釈迦牟尼の経文)、千万軸千万軸に仏種の因をあかし(千万軸の経典は、成仏の因を明らかにする)、随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に至らずと云う事なし(仏説の方便や真実の教法はどれ一つとっても衆生を菩提の岸に送らないものはない)。
かるがゆえに、文学、無常の観門に涙を流し(悟りを開く教えに感動し)、上下の真俗(出家と在家)をすすめ、上品蓮台(極楽往生する際の最上級)の縁を結び、等妙覚王の霊場(仏の寺院)を建てんとなり。
それ高尾は、山うづ高くして、鷲峯山(釈迦が説法したインドの山)の梢を表し、谷閑かにして、商山洞(秦の暴政を避けて老人が隠れた洞窟)の苔を敷けり。
厳泉咽んで布を引、嶺猿叫んで枝に遊ぶ、人倫遠くして、きょう塵なし(人里遠く離れているので煩わしさと穢れがない)。
咫尺(しせき)ことんなうして、信心のみあり(周辺の有様は格別で、本願を信ずることに専念できる)、地形すぐれたり、もっとも仏天を崇むべし。
奉加少しきなり(寄進は僅かでよい)、誰か助成せざらんや。
仄(ほの)かに聞く、聚沙為仏塔功徳、たちまち仏神を感ず(子供が砂遊びで仏塔を造るような小善根も成仏の因となる)、いわんや、一紙半銭の宝財においてをや、願わくば、建立成就して、金闕鳳暦御願円満(皇居と御代が安泰であるよう願いが十分達成され)、乃至都鄙隣民遠近親疎、尭舜無為の化をとたひ(中国の尭舜の治世のごとき太平無事の政治を褒めたたえ)、椿葉再改の笑みを開かん(椿の葉が八千年を一春として再び改まるといわれるほどの長い太平を喜ぼう)。
殊には、又、聖霊幽儀、前後大小、速やかに一仏真門の台に至る(死者の霊魂が死の前後、身分の上下に関わらず直ちに成仏して浄土に至る)。
必ず、三身万徳の月をもてあそばん(三身に無量の功徳が集まる事を願う)。
よって、勧進修行の趣き、けだし以てかくのごとし。
治承三年三月日、文学房。
とぞ読み上げける。
法皇叡覧ましまして、殊勝(感心した)なりとよ文学、さては権者にてましましけるや、今日よりは文学上人(五位)に任ずる、急ぎ自分の山に登り御奉加あるべしとの宣旨を受けた、面目とこそ聞こえけれ。
5 伊豆流罪
しかし、諸卿残らず、一同に奏聞申されしけるようは、例えばあの修行僧を何もせずにそのままにして置かれますと狼藉国にあまるべし、死罪をば止められて流罪にさせられ候へと奏聞申されたりければ。
右大将平宗盛(平清盛の三男)の卿は、この由を承り、もしそう云う事でありますならば私が文学の身柄を貰い受けて伊豆の三島の観音堂へ流しましょうと申されたりければ、法皇もその頃は、平家の言うことには、良いにつけ悪いにつけ無視することはなさらなかった。
平宗盛、文学(文覚、遠藤盛遠)を賜わり、絶対に主要街道を行くことは許されない、熊野の灘を渡し船路で行けとの御諚にて、福井の庄(姫路の)下司(荘園の下級役人)次郎太夫ありはると申す侍に仰せ付け、上下三十六人にて文学(文覚、遠藤盛遠)守護し奉り後白河院の御所である法住寺殿をぞ出でにける。
あらいたわしや文学、都から出るのは今度が最後だとでも思われたのだろうか、七条大路に立ち出でて。
東を遥かに眺むれば、音羽の山の松風は己と琴や調ぶらん、麓に落ちる滝壺は名に流れたる清水寺、本尊は千手千眼観音、この観音が御誓いをなさって下さるのならこのままの措置に捨て置きましょう今一度都へ帰して給えと祈請して。
西を遥かに眺むれば丹波に老いの山、峰の堂、谷の堂嵯峨法輪寺、太秦の薬師(広隆寺)になをも名残あり。
北には、鞍馬(寺)、赤山(禅院)、鬼門に当たりて比叡山、中堂薬師の十二神、さて我が山の十二神金毘羅大将に付く七千の夜叉がいる、北野天満宮を拝し奉り、文学(文覚、遠藤盛遠)のこの度の遠流の罪をなだめつつ今一度都へ帰し給えと祈請して。
南を遥かに眺むれば、八幡山に立つ霧の石清水にやかかるらん、皆、解脱する事を得て衆生を救う、故に八幡大菩薩と号す、願わくば源氏を守りたび給えと祈誓を申させ給いつつ、四塚作り道(朱雀大路を延長して羅生門の四つの塚から鳥羽に至るまでの新しく作られた道)、鳥羽院の御山荘よそながら伏し拝み、刑部左衛門何某(文学の恋人で誤って殺した袈裟の夫)のその旧跡を、見るからにいとど涙もせきあえず、念仏申し経を読み、その幽霊を弔いて淀の津に着きければ、はや川舟に移されて水に任せて流れ行く。
左手を遥かに眺めれば、琴の音調ぶる禁野の里(現枚方市)かの在五中将(在原業平)の眼白の鷹を手に据えし交野の原の狩衣今来て(着て)見るぞ由なき。
右手には山崎関戸の院(関の官舎)、誰が建てけん宝(積)寺、鄙を育つる鳥飼野、冠の里(現高槻市)はこれかとよ、絵の具剥げたる古仏、早渡辺に着きしかば海上遥かに梶を取り追手の風に帆を上げて波路遥かに吹かれ行く心ざしこそ哀れなリ(東国へと流されていく)。
文学(文覚、遠藤盛遠)仰せける様は、あっぱれ源氏の世であれば、かほどの罪で、よも遠島までは流されじを、これも平家の奴ら共が度を越してのさばるからである、これより伊豆の大島へ何十日にも行けばよい。
源氏を護るしるしに絶食してみせるとの給いて、船底に入らせ給い枕取って引き寄せうち伏し給いてその後は起きさせ給う事もなく、又寝入り給う事もなし、伏しながら仰せけるは、さて此処は何処を通るぞと問われ、天王寺の沖と申せば。
文学(文覚、遠藤盛遠)聞し召されて、異国にては南岳大師、我が朝にては聖徳太子、衆生済度の慈悲深し、いくら何でも仏教側の自分をまさか最後まではお見捨てになるまい
さて、此処は何処を通るぞと問われ、住吉、堺、宇治の湊(和歌山)、和歌、吹き上げ玉津島、布引の松、紀三井寺、藤代峠、由良の湊、切部の王子、千里の浜、南部、田辺の沖過ぎて那智の沖とぞ申しける。
文学(文覚、遠藤盛遠)聞し召されて、我この御山に参り三十七日滝に打たれ正身の大聖明王に逢い奉りしその時は、早権者とこそ言われしに、自分はどれほどに修行したのであろうか、自分の修業が本当に確かなものであればこんな事になるはずがない、ここは何処ぞと問えば、浜の宮(那智勝浦)、佐野の松原(新宮)、太夫の松、新宮の湊、井田の里(三重県)、伊勢の国、志摩の国、尾張、三河の沖を過ぎて天竜の灘(遠州灘)に着き給う。
6 天竜灘の奇瑞
この天竜の灘と申すは東国一の難所であり、富士の高嶺に黒雲が二波三波湧きかかると見えしかば、あわや景色の変わるは縄手を解いて、むしろ帆を下ろし帆柱を立て直せと言う隙もなく伊勢の国地風の嵐が真十文字に吹きたりれり、熊野の新宮おろしは後ろに吹く、一方ならず四五方より揉み合わせたる風ならば、枯れ木は枝を下ろして吹く、木葉を洗い草の根を返して上げる波は、ひとえに煙の立つが如くなり、四方の風が一度にばっと揉み合わせて吹く時は、今はこの船叶うべきやあらずして、片腹を立ててくるりくるりと廻りけり。
船の内なる者共が声を揃えて一同に、南無阿弥陀仏と申しけれども、船底に居る文学(文覚、遠藤盛遠)は何思うた気色もましまさず、空いびきしてこそ伏されけり。
守護の武士、舵取りどもこの由を見るよりも、何と非道なあの聖や、例えば定期的廻船に乗りたるとか申すども、かかる風難に遭うならば御経を読み陀羅尼を満ちて海神竜神納受の祈祷などあるべきに、この沖にて我々が死せんずる事どもは、あの文学ゆえと覚ゆるなり、船底より引き出し海へ入れんと言うもあり。
またある人たちの評議では官旨によって連行している文学なので勝手にどうすることも出来ない、かように色々沙汰しけるを聖聞し召さるれども、いよいよ聞かぬ体をして空いびきしてこそ伏されけれ。
かかりける所に、艫打つ波が余って文学の頭の上をざっと打って通りける。
その時、文学(文覚、遠藤盛遠)腹を立て、臥したる所をかっぱと起き上がり、船のへ舳先の板に突き立ち上がって、大音あげて、如何にこの沖を上人が通るのを知らないのか、さこそ流人だと竜王のあなどっての事か、この波風を立たするは大竜の仕業か小竜めの仕業か、雨風止めぬなら文学が竜宮に分け入って文句を言ってやろうぞ、え、龍王めとぞ怒鳴り散らした。
守護の武士、舵取りどもこの由聞くよりも、さればこそ文学には早ものが付いて狂わするぞ、竜王めと悪口を言えばいかで波風止むべきぞ、是につけても我々が死せんずる事どもは疑いなしと申しつついよいよ念仏しけれども。
聖はちっとも動転せず、竜王めとぞ怒られける、文学(文覚、遠藤盛遠)の御心末頼もしく見えにける。。
係りける所に、髪を左右に分け両耳の辺りで束ねた竜宮の乙姫が一人波の上に浮かび現れた。
我をば誰と思し召す、竜宮の乙姫こひさい女(八歳)とは自らなり、聖人がこの波の上を通らせ給うを拝み申さんと、その為に津の国渡辺からここまで付き添い申せども、船の中で寝て起きることもなし、かくて大島の御堂に上がらせ給いてしまえば、又いつの世にかは拝み申すべきと思い、この波風を立たせ申し、上人の御姿をひと目拝める事のありがたさよ。
これで、竜女の十六本の角が落ち男子に転じて成仏できます、いざさらば、大きな波を立てている風を止めて差上げましょうとて掻き消すように消え失せければ、今まであれほど荒れて恐ろしき闇海の海面も平々とし、追い手の風が吹きければ、守護の武士も舵取どもも上人を礼拝し奉り、櫓櫂、梶を立て直し風に任せて吹かすれば、都を立って文学(文覚、遠藤盛遠)、伊豆の大島まで五十五日に着き給う、断食してきたのは源氏を守るためである。
7 源頼朝と対面
さて、文学(文覚、遠藤盛遠)は伊豆三島の観音堂に入り給えば、警固の人々も御暇申し都へこそ帰りけれ。
ここに、文学(文覚、遠藤盛遠)の御弟子に学文房というのが居って、片時も離れなかったけれども、この度は流罪の事なれば同船も許されず、一人都に止まって嘆く事は限りもなし、かくても有らぬ事なれば、御跡を慕い申し下らばやと思い、本街道を夜に日に次いで下る程に、伊豆三島の観音堂に参り上人に逢い奉り喜ぶ事は限りもなし。
かくて、師、弟子の人々は観音堂に御座有りけれども、辺りの里人参り尊み申す人もなし、何とかして里人たちを寺に近寄らせようと思し召し、人の顔かたちから運命を占う相形の法を行わせ給う。
これから来るであろうと思われる八十日間、過ごし方八十日行わせ給う。
そこへ、伊豆の蛭の小島で流罪となっていた源兵衛の佐頼朝は、都から上人が流されてきたと伝え聞いて、側近の安達籐九郎盛長を召され仰せけるは、真や承れば三島の観音堂に都より加持祈祷にあらたかな法力を持ち学識仁徳の備わった高僧が御下向在りて、相形の法を行わせ給うがよく当たると承る、いざや参りて御占一つ問い申さんとて。
主従御船に召され三島の観音堂に上がらせ給う。
観音堂に上がった源頼朝は、正面の礼堂に行かず、仏堂の本尊の背後の空間にある、本尊の守護神が祀られる呪的神秘な場である、後堂の縁の板をどうどうと踏み鳴らして入ってきた。
折節、初夜の勤め(午後六時から十時ごろの間の勤行)のため高座にいた文学(文覚、遠藤盛遠)は、只今、後堂の縁の板のなったる音を聞し召し、不審に思い十干十二支で占ってみたれば、遠くは百日、近くは五十日の間に、日本の主となる人の足音と聞こえたる事の不思議さよと弟子に語れば。
これを、後堂で源頼朝が聞いて、あら目出度い占いや、これに増したることはない、さあ帰ろうと仰せければ、側近の安達藤九郎盛長承り、かかる有験知徳の上人に御対面ありて、さらなる末の目出度い話を御尋ね聞きましょうと申す。
源頼朝、げにもと思し召し、勤め一座の過ぎるまで後堂に立ち休憩なされて、かくて勤めも過ぎければ、只今の客人此方へと仰せけり。
源頼朝御座に直らせ給う、文学(文覚、遠藤盛遠)御覧じて、あら不思議や、御身は誰ぞ童名を文殊子、元服されてその後兵衛の左頼朝であられますか、源頼朝は不思議そうにして、その通りと仰せけり。
8 父源源義朝の髑髏
文学(文覚、遠藤盛遠)仰せけるは、そなたの父源義朝の成れの果てを見たいかと仰せければ、源頼朝聞し召されて、見たいとか見たくないとかの問題ではなく、見たいのはとても申し上げられないほどですと答える。
文学(文覚、遠藤盛遠)は、いでいで、さらば見せ申さんと側に置いた笈を引き寄せ、からげ縄をふるふると引っ解いて上段よりも錦七重に包みたる、風雨にさらされたしゃれこうべを取出し、これこそ御身の父義朝の成れる果てよ見給えとて、頼朝の御手に参らせらるる。
源頼朝御覧じて、全く本物とは思わなかったので素知らぬ風をして、側の机に置き給う。
文学(文覚、遠藤盛遠)御覧じて、程古りたる事なれば、定めて御疑いあるべし、そのしるしを見せ申さんとて机の上の首に向かい、兵衛佐頼朝こそ是まで来り給え義朝、義朝と二三度呼ばせ給えば、さらされた首の内よりも御涙注ぎ、それかどうか分らぬくらいの御声かすかに聞こえければ、その時、源頼朝が机の首を取り上げ御袖の上に乗せ高々と差上げ、只今生きたる人にものの給う風情にて、さても頼朝、父(平治の乱で死んだ)に言う。
西坂本までは父の列に御供申せしが、暗さは暗し雪は降る下がり松の辺りにて追い遅れ参らせ夜もほのぼのと明けるまで竜華の山(京都と近江間の峠)に迷いしが、比叡山の横川法師の大将大屋の注記という者が後より手を緩める事無く追いかけてきて既に難儀に及びし時、北近江伊吹の麓の草野の庄司に助けられ、彼の所にて年を送り春になれば父の後を慕っていこうと思っていたら、父は尾張の長田(長田庄司忠至)に討たれ(正月三日湯屋に誘い出され騙し討ちに合い)させ給い、御首京に上り獄門に懸れる由を承る。
せめては、変わらせ給う御姿にでも逢いたいと思い、草野の里を立ち出でて忍び都に上りしが、今須河原(関ヶ原)という所にて弥平兵衛(平宗清)に生け捕られ、うき六波羅に渡されて六条河原で既に死罪に及びしを、池の尼公(平清盛の母)に助けられこの国に移されて、二十余年の春秋を送り迎えて過ぎ行けど、少しも父の御事を忘れたことは一度もなし、
あれは文殊か兵衛の佐かと、今一度仰せ候えとて消え入るように泣き給う、文学(文覚、遠藤盛遠)も学文も、さてお供の盛長も声も惜しまず泣きいたり。
文学(文覚、遠藤盛遠)これ由御覧じて、源義朝は保元の乱後勅命で捕えられた父為義を処刑しているので、殺父の罪を犯した仏法で言うところの五逆罪の人にて、涙を掛けぬ事にて候、それ此方へと仰せありて錦七重に包み元の如くに納め給い、文学があらんほどは御心安く思し召せ、平家を調伏すべしとて、やがて十二か条の巻物を書きこそ記し給いけれ。
そもそも、十二か条と申すは、第一に天地の祈祷、第二に国王の祈祷、第三に父母の祈祷、第四に源氏の祈祷、第五に源氏を守る衆生の祈祷、かくの如くの五カ条は、五体(頭頸胸手足)五行(木火土金水)五節(句)の祝いをかたどる所なり、今残る七カ条では平家を失い滅ぼすべき調伏の七不思議をあらわす七つの数なりけり、これは御身のはるばると来たり給えるこの度の御引出物とて参らせらる。
源頼朝、感激し三度戴き守りに掛け、万事は頼み奉る暇申してさらばとて、又御座船に召されて名古屋の御所にぞ帰られける。これやこの源氏の繁盛の始めと聞こえけり。
9 平家調伏の祈祷
その後、文学(文覚、遠藤盛遠)は、白きの輿を作らせ、南の縁にかき据えて虚空に向かて仰せけるは、文学こそ只今上洛仕れ、輿担ぎやあると仰せければ、おっと答えて程もなく大力の者二人来たり、空飛ぶ御輿を担ぎ虚空へ上がると見えしかば、刹那が間に王城の祇園八坂神社の林に着き給う。
昼は人目をはばかり夜に入れば文学(文覚、遠藤盛遠)、四条の街へ立ち出でて沢山の御供え物を買い集め祇園林のそのうちに、調伏用の三角形の三重に祭壇を作り、七重に棚を結び百八十本の幣串を切り立て、数の人形を作って、平家の主だった殿上人の雲客の名字名乗りを書きしるし調伏の法を行わるる。
三十七日に満ずる時、上段中断下段の百八十本の幣串が一度にばっと乱れ合い、平家の宗徒の雲客の御首切れて明王の利剣に立つと見えしかば、一法は成就したりとて、壇を破って出で給う(成就のしるしを得る)。
かくて寿永(1183)の秋の頃、平家、都を落とされ遂に戦に勝たずして、滅び果てさせ給ひしは、文学(文覚、遠藤盛遠)の憤り強きゆえとぞ聞こえける。