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1 平敦盛、熊谷直実に追われる
そもそも、この度、平家一ノ谷の合戦(1184年)に、御一門侍大将、惣じて以上十六人の組足(軍団)のその中に、ものの哀れを留めしは、(入道)相国(平清盛)の御弟(平)経盛(清盛の異母弟)の御子息に、無冠の太夫(平)敦盛にて、ものの哀れを留めたり。
その日の(敦盛)御装束いつに(もまして)優れて華やかなり、梅の匂(深紅の濃い色から段々に薄くぼかす色)の肌寄(肌着)の優なるに(上品なものに)、唐紅(の上衣)を召され、練貫(ねりぬき、横練糸に生糸縦糸で織った絹布)に色々の糸を持って、秋の野に草尽くし縫うたる(鎧)直垂、弓手の手蓋(てつがい、左籠手)、(表裏)両面(に模様を織りだした)のすね当て。
紫裾濃(すそこ、上段は白で下段へしだいに濃く赤紫になる)の御着背長(縅の鎧)、黄金作りの御佩刀(はかせ)、十六差したる染羽(鷹の白羽を色染めした)の矢、村重藤(黒漆塗りに藤を巻いた)の弓。
連銭葦毛(あしげ、白黒褐色混毛に灰色丸斑点の付いた)なる駒(馬)に、梨子地蒔白覆輪(なしぢまちしろぶくりん、漆地に金銀散らし前後を銀で縁取)の鞍置かせ、御身軽げに召されたり、召されたる御馬鎧の毛(縅の緒)に至るまで実にゆゆしくぞ見えられける。
御一門と同じく主上の御供を召され、浜に下らせ給いしが、御運の末の悲しさは、(愛用の中国産)漢竹の横笛(小枝)を内裏に忘れさせ給い(忘れられた事)。
若上臈(じょうろう、うぶで一途な公達)の悲しさは、捨てても御出で(捨て置いて)あるならば、さまでの事の有るまじきを(一門の方々において行かれることもなかったものを)、且うは(かつうは、同時に一方では)、この笛を忘れたらんずる事を(忘れたことは)一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給いて(戻ったため)、かなたこなたの(かれこれ)時刻に(過ぎてしまい)。
御一門の(帝や大将の乗った)御座船を遥かの沖へ(と)押し出す(出船してしまった)、あらいたわしや敦盛、塩屋(神戸)の(浜の)端(海岸伝い)を心がけ駒(馬)に任せて落ちさせ給う(落ちて行かれた)。
かかりけるところに、武蔵の国の住人(で武士団)私(市、きさい)の党の旗頭、熊谷の次郎直実(は)、この度一ノ谷の先陣とは申せども、させる功名をきわめず(大した手柄もなく)無念類はなかりけり(残念に思っていた)、あっぱれここもとを良からん敵の通れかし(通ったならば)、押し並べむずと組んで分捕りせばや(組み伏せて首を奪い取りたいものだ)と思い、渚に沿うて下りしが(その時)、敦盛を見つけ申し、斜めならずに喜うで(大変に喜んで)駒の手綱うっ据えて(をととのえ)大声上げて申す。
あれに落ちさせ給うは(落ちていかれるは)、平家方におきては良き(平家では立派な)大将と見え申して候、こう申す兵(つわもの、我)をいかなる者と思し召す。
武蔵の国の住人(で武士団)私(市)の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵においては良き敵候ぞ(敵としては申し分のない者ぞ)は、まさなくも(見苦しくも)敵に鎧の総角(あげまき、結び緒)、逆板(背中)を見せ給うものかな(見せて逃げていくのか)。
引つ返し後勝負候へ(なされ)、いかに、いかにとて追いかけ申す、あら、いたわしい(事に)や、敦盛(は)、熊谷と聞し召し逃れ難くは(難いと)思し召されけれども(思ったが)駒に任せて落ちさせ給う。
かかりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり、あの船を招き寄せ乗らうずものと(乗る事にしようと)思し召し、腰よりも(腰から)紅に日出したる扇(を)抜き出で、はらりと開かせ給いて沖なる(沖の)船を目にかけて(めがけて)ひらりひらりと招かるる。
船中の人々(の中)に、人しもこそ多きに門脇(中納言平教盛、平清盛の異母弟)殿は(が)御覧じて母衣懸け(を担いだ)武者の船(を)招くは(招いているのは)、左馬の頭(かしら)行盛(清盛二男の子)か、(それとも)無官の太夫敦盛か、あれを見よとの御諚(御言葉)なり。
悪七兵衛(藤原景清)承り、船梁に突っ立ち上がり長刀を杖につき、兜を脱いできっと見て(確認すると)、いたわしの御事や、何(故)んとして御座船に召し遅れさせ給いけん(遅れられたのか、平)経盛(つねもり)の御子息に、無官の大夫敦盛にて渡らせ給い候ぞや、召されたる御馬の毛、鎧の毛(色)に至るまでまがふ所はましまさず(間違いはございません)、いたわしさよと申しけり。
門脇(中納言平教盛、のりもり)殿は聞し召し、(平)敦盛ならばこの船を押し寄せて助けよ(との命で)、水手(夫)、舵取り承り櫓櫂(ろかい)、梶を立て直し船を渚(港)へ寄せんとする。
この程二三日吹きしほりたる北風の名残の波は今日も立つ、風はきほおって(勢いをまし)波は強蛇のごとくなり(高くうねうねと蛇のようにうねっている)。
白浪(波は)船枻(せんがい、船べり)を洗い砂子(いさご)を天に上ぐれば、ただ雪の山の如くなり、小船こそ自ずから弓手へも馬手へも(左にも右にも)思うようには扱わるれ、殊に優れたる大船に大勢は召されたり、畳む波に塞(せ)かれつつ(折り重なって寄せる波にさえぎられて)、次第次第に出づれども磯へ寄るべきやうはなし(岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない)。
(平)敦盛この由御覧じて、いやいやこの馬泳がせてあの船に乗らうずもの(乗ろう)と思し召し、駒の手綱かい操って海上にうちい出て浮きぬ沈みぬ(に馬を)泳がせらるる。
いたわしや(平)敦盛、老(練な)武者にてましまさば(あれば)、三頭(さんず、馬の尻の盛り上がり)に乗り下がって、時々声を立て給えば御馬は逸物(抜群に優れている)なり(なれば)、沖の御座船に難なく馬は着くべきに(着くものを)、若武者の悲しさは(悲しさか)馬に離れて叶わじ(離れるものか)と思し召されける間、前高に乗り懸りて(鞍の前方高い所に乗り)、左右の鐙(あぶみ、足掛け)を強く踏み、手綱にすがり給いて(付けば、馬も)浮きぬ沈みぬ泳がせらるる。
馬に逸物(優れもの)とは申せども畳む波に塞(せ)かれつつ(荒れた波しぶきに手こずり)、泳ぎかねてぞ見えにける(馬を上手く捌けずにいる様子である)。
2 平敦盛、熊谷直実と勝負する
熊谷(直実)、これ由(この様子)を見参らせ、正無(まさな、みっともない)の平家や、沖の御座船は遥かにほどを隔てつつ(離れている)しかも波風荒うして、いかで叶わせ給うべき(荒く叶わない)、引つ(き)返し(て)御勝負あれ、さなき物ならば(さもなくば)中差しを参らせん(戦闘用の矢を射申しましよう)と弓と矢をうちつがえて、そぞろ引いてかかりけり(威嚇した)。
(平)敦盛御覧じて、なかなか(なまじっか源氏の赤)錆び矢に射当てられ(たら平家)一門の名折り(恥である)と思し召し、駒の手綱(を)引つ(き)返して、遠浅になりしかば(まで戻り来ると)水鞠(まり、玉のしぶきを)ばっと蹴立て(色染めした)染羽の鏑(かぶら矢を)うちつがえ、こうこそ(このように)詠じ給いけり。
梓弓(あずさゆみ)矢を差し矧(は)げて引く時は、返す事をば知るかぞも君
(神事に使う梓の木で作った弓に矢をつがえて引く時に、引いたはずみで玄を左手外に跳ね返すという事をあなたは知っているか、弓を返すように私はあなたの方に引き返すのだ)
熊谷(直実)も心ある弓取り(情理を解する心ある武士)にて、あっと思い左右の鐙(あぶみ)を蹴(り)放って、返歌と思しく(返歌せんと)かくばかり、
平題箭(いたつき)の甲矢(はや、早やと矢を掛けた)、外れんと思ひしにやという声に立ちぞ留まる
(先の丸い矢じりの甲乙一組の先に射る甲の矢が、早くも弦を離れかと思ったが、やっ(待て)と言う声に立ち留まったことだ、平敦盛が引き返すというのであれば待つことにしよう)
(と返歌を)かように詠じて、待ち受け申す。
さる間、(平)敦盛(は)弓と矢をがらりと捨て、御佩刀(みはかせ、貴人の刀)ひん抜いて、受けてみよとて打たれたり、熊谷(直実)さらりと受け流し、取って直してちようど(激しく)打つ、二打ち三打ちちょうちょうど打ち合わせけれども、いずれも勝負見えざれば、「寄れ組まん」、「もっとも」とて互いに打ち物(刀剣類を)がらりと捨て、鎧の袖を引つ違えむずと組んで、二人が両馬の間にどうと落ちる。
あらいたわしや(平)敦盛、御心は猛く勇ませ給えども、老武者(相手は実戦経験豊富な百戦錬磨)の熊谷(直実)にて、物の数とはせざりけり(問題とはしなかった)。
やすやすと取って押さえ申し、兜をちぎり(取っ)てがらりと捨て、腰の刀(を)引ん抜いて首を取らんとしたりしが、余り(に)手弱く思い(思えたので)、さしうつぶいて相好(そうこう、顔つき人相)を見奉るに(見てみると)、薄化粧に鉄漿(かね、お歯黒)黒く、眉太う掃かせ(黛で作り眉にして)
さもやごとなき(とても高貴な)殿上人の年齢ならば十四五かと見えさせ給う(に見える元服間もない若武者だった)。
熊谷(直実)あまりのいたわしさに、少しくつろげ申す(手を少しゆるめ申し上げる)、上臈(あなた様)は平家方に於いては如何なる御公達にてましますぞ、御名字を御名乗り候え。
あらいたわしや(平)敦盛(は)、老武者(百戦錬磨)の熊谷(直実)に組み敷かれさせ給い、よに苦しげなる息をつき(息遣いで答える)。
げにや熊谷(直実と言えば)は文武二道の名人(達人)とこそ聞きつるに、何とて(どうして)合戦に法無き事をば申すぞ(法に合わないことを言うのか)、我等は天下の朝(廷に仕える)臣(下)として雲客(殿上人)の座敷に連なって、詩歌管絃の道に通じたりし身なりしかども(であったものを)、この二三ヶ年は一門の運(が)尽き帝都をあこがれ出でしよりこの方(さ迷い出て以来)、武士の勇める法をばあらあら(武士の合戦の方法を大体)聞いて候。
それ人の名乗りという(もの)は、互いの陣に群がって(向かって)、戦乱れの折から(敵味方が入り乱れ闘うような時に)、矢なき(使い果たして)箙(えびら、背負用矢入)を腰に付け、鍔(つばの)無き太刀を抜き持って、これはそんじょうその(どこそこの)国の何がし誰がしと名乗って、打物の勝負をし、また組んで勝負を決するとこそ聞きつるに。
我は(今)敵に押さえられ下より名乗(らせる方)法とは(なんぞや)、今こそ聞いて候へ。
(熊谷直実は)おう心得たり、名字を名乗らせ首を取って汝(我)が主(人)の(源)義経に見せん(が)ためな(り)。
(平敦盛が)よしよし、それ世には隠れもあるまじきぞ(隠すこともない事だ)、ただそれがし(だれそれ)が首を取って汝が(の)主の(源)義経に見せよ、見知る事もあるべし(顔を知っているかも判らない、もし源義経が)それが見知らぬ物ならば(分らなければ)、蒲の冠者(源義朝六男、頼朝の弟で一ノ谷合戦での大将軍源範頼)に見せて問へ(問うてくれ)。
蒲(かば)の冠者(この合戦の大将軍源範頼)が見知らずば(それでも判らなければ)、この度、平家の生捕りの如何程多くあるべきに、引き向けて見せて問へ、それが見知らぬものならば(それらの者に見せ誰も知らないと言うならば)、名もなき者の首ぞと思いて草むらに(でも)捨て置けよ、捨てての後は用もなし熊谷(直実殿)、とこそ仰せけれ。
熊谷(直実)承って、さては上臈(御公達様)は武士の勇める法をば詳しくは知ろし召されぬや(知らない御様子)、世にもの憂きは我らにて候、君(主人)の御意に従って(命で)身を助けんとすれば、親と争い子と戦い、はからざる(計る事の出来ない)罪をのみ作るは武士の習いなり。
花の下の(で)半日(だけ遊んだだけ)の客(や、名)月(を眺めて)の前の一夜(を過ごしただけ)の友、清風朗月飛花落葉の戯れ(一緒に自然をめで自然を楽しむ人間の営みは)、なを今生ならぬ機縁と承る(この世だけではなく前世からの因縁と聞いています)。
この度の合戦に人しもこそ多きに(大勢の中で)熊谷(直実と)が参り合う(出会った)事を、前世(からの因縁)事と思し召し(になって)、御名乗り候へ(下され)、御首を給わってただ奉公のその忠(義)に後世を弔い申すべし(しましよう)。
(平)敦盛聞し召し、名乗らじものとは(名乗らないでおこうとも)思えども後世を問わんず(死後を弔ってくれると言う)嬉しさに、さらば名乗って聞かすべし、我をば誰とか思うらん、門脇の(中納言、清盛の異母弟の平)経盛(つねもり)の三男に未だ無官は仮の名(まだ官職がないうちは通称)にて太夫敦盛、生年は十六歳、軍(いくさ)は是が初めなり、さのみ(余り)に物な尋ねぞよ(質問しないでくれ)、はや首取れや熊谷(直実殿)よ。
3 熊谷直実、平敦盛を討つ
熊谷(直実)承って、さては上臈(貴殿)は桓武(天皇)の御末(裔)にて御座あるけるや、何、御年は十六歳、某(なにがし、我)が嫡子の小次郎(熊谷直家)も生年十六歳にまかりなる、さては御同年に参り候らいけるや、かほどなき小次郎(熊谷直家は)眉目(みめ、見た目)悪く色黒く情けも知らぬ東夷(あずまえびす、武骨で気性の荒い東国武士)と思へども、我が子と(同じ年と)思えば不憫なり。
あら無残や、(熊谷)直実(と直家親子)もろ共に(搦手(裏面)軍に所属していたが)、今朝一ノ谷の(先陣を志し戦列を離れ)大手(正面に回って木戸口に攻め寄せた時)にて、敵(平家の侍)まれいの三郎が放つ矢を(に熊谷)直家(嫡子)が(の)弓手(左)の腕に受け留め(当たったので)、某(なにがし、私)に向かって矢を抜いてたべ(下ださい)と申せしを。
痛手か薄手(深傷か浅傷)かと問わやばと思いしが(問おうかとしたが)、いやいや、熊谷(直実)ほどの弓取りが敵味方の目の前にて言うべき(言葉でない)かと思い(気づき)、はったと睨んで、あら言いに甲斐なの(不甲斐ない熊谷)直家や(ぞ)、その手が大事ならば(深傷なれば)そこにて(その場で)腹を切れ、また薄手にてあるならば(浅傷なら)敵と合うて討死をせよ。
味方の陣を枕とし私の党(武士団私市党)の名ばし朽すな(くたすな、名を汚したりするな)と言いてあれば(言えば)、誠ぞと思い某(なにがし、どこそこの)が方をただ一目見(一目散に)敵の陣へ駆け入りてよりその後又二目とも見ざりし也(見えなくなって行ってしまった)。
さても熊谷(親)がつれなく命長らえ(何事も無く生き延び)、武蔵の国に下り、直家が(の)母に逢いて(嫡男直家が)討たれたると言うならば眼路の母が(目の前で母は)嘆くべし(嘆くであろう)。
(貴殿平敦盛の親の平)経盛(つねもり)とやらんも、花のようなる若君を渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給うらん(嘆くに違いない)、(平)経盛の御愁嘆(嘆き)と(熊谷)直実が想いをば物によくよく例うれば、流水同じ水なれど淵瀬の変わる如くなり(思い嘆きの深さは全然違い熊谷直実如きではないであろう)。
熊谷(直実)あまりのいたわしさに、又さしうつむいて御相好(顔)を見奉るに(覗き見れば)、嬋娟(せんけん、美しい)たる両鬢(両側の鬢の毛)は秋の蝉の羽(の透き通る美しさ)にたぐへ(似て)、宛転(えんでん、ゆるく弧を描いてい)たりし双蛾(蛾の二つの触角のような眉)は遠山の(に掛る)月に相同じ(月のようだ)、(六歌仙の一人在原)業平のいにしえ交野の野辺の狩衣(伊勢物語82段)袖打ち払う雪ノ下(伊勢物語83段の様な優雅美麗な業平の容姿よりも勝る)、翆黛(すいたい、緑の眉墨)紅顔(若々しい艶やかな容貌)錦繡(きんしゅう、錦と刺繍をほどこした立派な衣服)のよそおいをたとえば絵には写すとも、この上臈の御姿を筆にもいかで尽くすべき。
熊谷(直実)心に案じけるは(何とも言えない若々しい艶やかな容姿、豪華な美しい織物等絵や筆にどう表されようかと、あれこれ考えを巡らし)、いやいやこの君の御首を給わって(もらって)某(なにがし、だれそれが)恩賞に与りたればとて(あずかっても)千年を保ち、さて万年の歳(よわい)かや(千年も万年も生きられず)、末代の物語りに助け申さばや(助けになれば)と思い。
のういかに(平)敦盛(殿)、平家方にて(の人に)仰せられるべき事は、武蔵の熊谷(直実)と申す者と波打ち際にて組みは組んで候えども(戦ったが)、我が子の(熊谷)直家に思い替え(て)助け申したり(助けられた)と御物語り候へ、と取って引き立て奉り(と言えばよいではないかと立ち上がり)、鎧に付けたる塵(土を)うち払い、馬に抱き乗せ奉り。
(熊谷)直実も共に馬に乗り西に指して(向かって)五町ばかり行き過ぎ(進んだところで)、後ろをきっと見てあれば、近江源氏(佐々木氏流の一族)の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結(佐々木一族の紋所)の旗差させ五百騎ばかりで追っ掛くる(追ってくる)。
弓手(左の方)を見てあれば成田、平山控えたり、馬手(右方)脇には土肥殿七騎で追っ掛くる(追ってくる)、上の山には九郎御曹司(源義経)白旗を差させ、御近習にとっては(近く付くのは)武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として声々に申しよう、武蔵の熊谷(直実)は敵と組んづるが(だが)既に(すぐ)助くるは(けるは)二心(裏切)と覚えたり、二心(裏切)有るならば熊谷(直実)共に討ち取れと我も我もと追っ掛くる(追ってくる)。
この(若)君の有様(は)、物によくよく例えれば、籠の内の鳥とかや、網代(あじろ)の氷魚のごとくにて漏りて出づべきようはなし(絶対絶命で逃れようがない)、人手に掛け申さんより(るぐらいなら熊谷)直実が手に掛け後世を某(それがし)弔はばや(った方が良い)と思いて、又むんずと組んでどうと落ち、いたわしや御首を水もたまらず(一刀のもとに鮮やかに)掻き落とし目より高く差し上げ、鬼のようなる熊谷(直実)も東西を知らで(分別する力もなくなり大声で)泣き居たり。
4 平敦盛の形見の品々
熊谷(直実は) 涙を留め(拭いて)御死骸をかなたこなたへ(あちこち)押し動かして見奉れば、鎧の引き合わせ(目の懐)に、漢竹(中国製)の横笛を紫檀(でできた)家(箱)に篳篥(ひちりき)を添えて差されたり。
また馬手(右)脇を見て有れば巻物一巻おわします、是は何なるなん(何んであるか)と開いて拝見仕るに、あらいたわしや(平)敦盛の都(を)出(る時)の言の葉を(言葉が)くれぐれとこそ遊ばしけれ(細かく書かれていた)。
この君都に御座の御時は、按察使(あつぜつし、地方行政監督官で後白河院の寵臣)の大納言資賢(すけかた)の卿の姫君(が)十三歳にならせ給いしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて月次(つきなみ、毎月定例の)管弦の(催し物)有りし時(に)。
(平)敦盛は笛の役、同じ楽工(がくこ、楽団)にて琴弾き給いし(この姫の)御姿を一目見しより恋と成りて、歌を詠み(何度も)文に書きこさる(書いてよこされる)その文、数の重なりて逢瀬の仲となり給う(になっていたのに)。
中三日と申すに、平家帝都の花洛を去って(平家一門は花の都を落ちて)西海の波浪に赴き給う、あらいたわしや(平)敦盛、(その)御身は一ノ谷に御座あると申せども御心はさながら都へのみぞ通われける。
思し召し出されし時(思った時)に作られけるかと覚しくて(綴られた春夏秋冬の)四季のちょうをぞ(歌が)書かれける(書かれている)。
まず青陽(せいよう、春)の朝には、
垣根木伝う鶯(うぐいす)の野辺になまめく(優雅で情緒がある)、忍び音や、野径の霞現れて外面の花もいかばかり、重ね桜に八重桜。
九夏三伏(夏の九十日間の酷暑の間)の夏の天にもなりぬれば、
藤波(藤の枝が巻き)いとうか(かばうか)、ほととぎす夜々の蚊遣り火(かやりび)下燃えて忍ぶる恋の心す。
黄菊紫蘭の秋にも成りぬれは、
尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく(枕元で鳴く)きりぎりす(の声を)聞かでや(聞かないで)萩の咲きぬらん(咲いているのだろうか)。
玄冬素雪(冬の白い雪)の冬の暮れにもなりぬれば、
谷の小河も通い路も、みな白妙(しろたえ、白い布)に(周囲)四方なると言えども消えて跡もなし(一面真っ白で積雪に隠されて何も見えない)
名残惜しき故郷の木々の梢を見捨てつつ、今はまた一ノ谷の苔路の下に埋もるる、(平)経盛の末の子の無官の太夫敦盛、
と書き留めてぞ置かれける。
かれを見これを見奉るに(あれこれ見ると)、いとど涙も塞きあへず(いよいよ涙が出ておさえきれない)、御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物共に持たせ大将(源義経)の御前に参りこの由かくと申し上ぐる(報告した)。
判官(源義経は)御覧じて(この笛を見て)あら不思議や、この笛は、某が見知るところの候、それを如何にと申すに、一年(ひとせ)、(後白河院第二王子)高倉宮(の以仁王が源頼政と平家討滅を)御謀反企ての(未然に発覚、宮は三井寺から南都へ逃走途中討たれた)時、天下(の名笛)に小枝(と)蝉折とて二菅の笛あり。
蝉折(の笛)をば三井寺にて弥勒に回向し給えり(菩薩に捧げて極楽往生を祈られた)。
小枝(の笛)をば最後まで持たせ給う由承るが、(京都)水無瀬(の)光明山(寺)にて討たれさせ給いし時、この笛(が)平家の手に渡る、一門の中に笛に器用を召されしに、弱冠なれど(若い平)敦盛は笛に器用の人なりとて(名手とてこの笛を)下されけると承る(と聞く)。
((「捨芥抄・楽器部」に小枝・蝉折とあり、高倉宮が所有していた笛で、「平家九・敦盛最期」にはこの小枝は鳥羽院から平忠盛が拝領し経盛が相伝し敦盛に渡ったとされる))
今朝、一ノ谷の内裏役所にて笛の遠音の聞こえしは、この人の(が)吹きけるかとて大将(源義経)涙を流させ給へば、(平敦盛を)知るも人知らぬ(人)も押し並べて皆(連られて)涙をぞ流しける。
5 形見送り
(平)敦盛は名(だたる)大将、(これを討ち取った)熊谷(直実は)いしくも仕たり(見事に討ち取ったものだ)、この度の勧賞(けじょう、恩賞)には武蔵の国長井の庄を取らするぞ、急ぎまかり下れ(領国に下られよ)との御諚なり。
熊谷が(直実の)郎等共、所知入りせん(領国に下る)と喜ぶところに、熊谷(直実)その御返事に及ばず、涙の隙よりもかくばかり(と歌いこれを辞退する)。
(熊谷直実の句)
人となり人とならばやとぞ思ふ、さらずば終(つい)に墨染めの袖
(人間として人情を解せる人になりたいと思う、それができないならば最後は出家して僧衣を着るまでだ)
かように詠じ、御前をまかり立ち(去り)。
何としても(平)敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄(ひづめ)の通う処に捨て置き申すべきぞ(捨て置いてはならないぞ)、送り申して有ればとて(平家方にお送り申したからといって)、よも罪科には行われじ(刑罰に処せられることもないだろう)、いやいや送り申さばやと思い、塩屋(神戸)の端に下り、小船一艘こしらえ(手に入れ)雑色二人(と)侍一人相添え(て書)状を書きしため八島(屋島)の磯へぞ送られける。
平家軍は、元暦元年二月七日に一ノ谷を落ち、浦伝い島伝いして十三日の早朝に(は)八島(屋島)の磯に着く、熊谷(直実)が送りの船も同じ日(に)八島(屋島)の磯に着く(着いた)。
敵味方の事なれば、その間遥かに櫓櫂を留め(離れた所から)、大声上げて申す、そもそも源氏方よりも熊谷(直実の)が私(用)の使いにまかり向かって候、門脇殿(平教盛)の御内なる伊賀の平内左衛門の尉(じょう、平家長)殿へ申したき子細の候と、高らかに呼ばはる。
((熊谷直実が、遺体と共に添えた送り状のあて先、平内を勤めた平家長は、平知盛の乳母子で、かって知盛に仕えていた熊谷直実とは旧知の間柄であった))。
あらいたわしや平家は一ノ谷を落ち、海路遥かに落ち延びたれば、左右なう源氏の勢のかかるべし(簡単に源氏方がここまで追って来る)とも思し召されず(お考えになれず)、只この程の朦気(もうき、気持ちの塞がること)には波枕、梶枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ(命も惜しまず活躍する九州地方を鎮める鎮西)松浦(党、松に待つを掛け)船(団、漕ぐに掛けて)焦がれて物や思うらん。
((松浦党の戦力を待ち焦がれる平家方の心情、豊後の緒方氏が平家に敵対したのに対し、松浦党は最後まで平家に忠節を尽くした))
心細く思せしに、源氏の船よと聞こし召し、我先に我先にと櫓櫂を速め落ち行け(逃げ)ども東国の源氏に会わんと言える平家なし。
大臣殿(おおいどの、平清盛の三男内大臣平宗盛)御覧じて、不覚なり方々(臆病であるぞ皆さん方)、世は澆季(ぎょうき、末世)に及て時末法に帰す(道徳や人情などが乱れ、時代が終わる寸前)という、例えば異国(中国)の(猛将)樊噲(はんかい)が渡って乗ったりとも、あれ程の小船に何程の事の有るべきぞ、誰かある行き向かって聞いて参れと有りし時。
平内左衛門(平家長)承って、存ずる道候(承知しました)聞いて参り候わん(ます)と屋形の内につつと入って出で立つ。
その日の装束は華やかにこそ見えにけれ、肌(着)には白き(真白な)帷子(かたびら、裏を付けないひとえの衣服)皆白折って引き違え(単衣を折って重ねて着)褐(かちん、濃い紺色)の鎧(の下に着る)直垂の(左右の袖口すそ口)四(ヶ所)の括(くく)り緒ゆるゆると寄せさせ(結び)、楊梅桃季(華やかな色)の左右の小手(籠手)、(金箔を置いて透き漆を塗り磨いた)白檀磨きの脛当てに、獅子に牡丹の(絵柄を持つ豪華な)脛楯(はいだて、膝当て鎧)し糸縅(緋色縅)の鎧の巳の時(色彩も鮮やかに)と輝くを綿噛(わたがみ、鎧両肩を乗せる部位)取って引っ立て草摺長にざっくと着(大鎧をゆったりと着て)、結って上帯ちょうど(強く)締め、九寸五分の鎧通し(の短刀)を馬手(右)の脇に差しいたりけり。
一尺八寸の(腰に差す)打刀十文字に差すままに、三尺八寸候いける赤銅作りの太刀佩(は)いて、(兜の下に被る)梨子打烏帽子に鉢巻きし、白柄の長刀を杖につき。
我に劣らぬ郎等どもを七八人相具し(引き連れて)、(本船付の)端舟下ろし打ち乗り、前に(波除の)楯を蔀(しと)ませ(立てて)、さざめかいて(にぎやかに音を立てて)押し寄せる、(異国の猛将)樊噲(はんかい)が勢いも、おう、かくやと(この様であっただろうと)思い知られてあり。
そもそも源氏方よりも(から)熊谷(直実)が、私(私用)の使いとは、そも何事の子細ぞや(と平内左衛門は、源氏の船に向かって尋ねた)
(形見)送りの者申す、さん候(左様にございます)、(平)敦盛を熊谷(直実)が手にかけ申す、あまり御いたわしきによって御死骸に色々の武具共、又は(目上に)進上(する書状)を相添え(て)是迄送り申して候、急ぎ御座船に御移しあれと申す。
(平敦盛守役の)基国(が)聞いて、あら不思議や、(平)敦盛は一門の御船に召され阿波の鳴門にまします由を(居られると)承って候が、やはか(どうして源氏に)討たれさせ給うべき(お討たれるになるはずが有りましょうか)もし偽りにてや候らん(ひょっとして誤りではないでしょうか)。
(形見)送りの者(が)申す、御不審は理(ことわり、もっとも)誠偽りをば(本当か嘘か)ただ船(の)中を御覧ぜよと申す。
基国(平敦盛守役が)聞いて、実に実に(誠に)是は言われたり(おっしゃる通り)とて、送りの船に我が船を押し寄せ長刀杖につき送りの船をさし俯(うつぶ)いて見て見りければ、実にと色々の縫物したる直垂に(平)敦盛の御死骸と覚しきを押し包みてぞ置きにける。
紫裾濃(すそご)の御着背長、黄金作りの御佩刀(はかせ)、十六差いたる染羽の矢、村重藤の弓もあり、紛(らわしき)ところはましまさず、基国余りの悲しさに長刀(なぎなた)をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き泣けども更に涙なし、叫べども声は出でざりけり、ややありて基国は涙を流し申しよう。
いたわしや、この君の一ノ谷を御出での時この着背長(鎧)を奉る、おとなしやかに(思慮分別のありげな様子で平)敦盛の(が)、いつしか御一門世が世にましまして、四海に風の治まりつつ(世の中が平穏で守役)基国に所知領(し)らせみるとだに思いなば(領地を与えて治めさせてみるとだけでも思うことが出来たら)、いかばかりうれしかるべき(どんなにか嬉しいだろう)と仰せられしその時は、この基国が嬉しさを何に例えん方もなし。
誠の時(死の報を受けた時)には動転し、召されざる(御乗船になっていない平)敦盛を、(平家)一門の御船に召されつつ(お乗りになって)阿波の鳴門にまします(いらっしゃっている)と申たる(申し上げたこの)基国が(の)心の中の不覚(愚か)さよ。
今一度基国かと仰せ出され候へ(言葉を発して下さいませ)とて、消え入るように泣きければ、送りの者も供人も、実に理(ことわり)や、道理とて皆涙をぞ流しける。
送りの者申す、是(我等)は御使いの身にて候、急ぎ御座船に御移しあれと申す、基国聞いて、実に実に思いに(全く悲しみに我を)忘じ、思い忘れて候とて、(平)敦盛の御死骸を我が船に移し大船に漕ぎ寄せ、この由(様子)かくと申しあげる。
6 平家の人々の嘆き
門脇(平清盛の異母弟中納言平教盛)殿も、(平敦盛の親の平)経盛(つねもり)も、何、敦盛が討たれたると言うか、さん候と申す。
あら不思議や敦盛は一門の船に乗り阿波の鳴門に有る由を風の便りに聞きし程は、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷(直実の)が手に掛り、さては討たれて有りけるかと涙ながらに出で給う。
女房達にとりては女院(安徳天皇の母の建礼門院)を始め奉り、宗徒(主だった)の女官百六十人も袴の稜(そば)を取り(股立ちを上げて帯に挟み)、皆船端に立ち出でて御死骸に抱き付き、是は夢か現かと一度にわっと叫ばれしを物によくよく例えれば。
これやこの釈尊の御入滅の如月(きさらぎ)や(の時)、十(人の)大御弟子(高弟)、十六(人の)羅漢、五十二種(の生き物)に至るまで別れの道の御嘆き、かくや(の如き)と思い知られたり。
やや有りて、父(平)経盛(つねもり)は落つる涙の隙よりも、あら無残や、敦盛(の)一ノ谷を出でし時、故郷の方を見送り心細げに立たりしを勇め(励ませ)ばやと思い。
「あら不覚(愚か)なりとよ敦盛よ、(太政大臣、左・右大臣の)三代槐門(くわもん、大臣)の家を離れ、屍(かばね)を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」
と言うてあれば、さらぬ体(素知らぬふり)にて渚まで下りしが「笛を忘れて候」とて取りに帰りしその時、共に帰らん(連れ戻そう)と思いつれども、敵味方に押し隔てられ又二目とも見ざりしなり(離れ離れになってしまった)。
情け在る熊谷(直実)にて形見是まで送りたり、空しき死骸、この形見、今日は見つ明日より後の恋しさを誰に語りて慰まん、のう人々と、の給いつつ悶(もだ)え焦がれ給いけり、平家方の人々は今一入(しほ、いっそう)の涙なり。
その後、熊谷(直実)が送りたる状を召しい出し、大将なればこの状を、もし(源)義経ばし(など)送りてあるか。
使いは是非をわきまえず(是と非を考えず)、ただ門脇殿(平教盛)へとばかり申す。
とても(どうせ)伊賀の平内左衛門へと書きたる状にてある間、(平)家長文を仕れ。
承り候とて船の船枻(せがい)にひざまつき、状を賜わり差上げ(て)高らかにこそ読んだりけれ。
7 熊谷直実の手紙
(熊谷)直実謹言、不慮(偶然)にこの君(平敦盛)と参会し奉りし間(お会い申したので)直ちに勝負を決せんと欲する刻(きざみ、思う時)、我に御敵の思いを忘じ(敵を忘れさせ)、かえって(反対に)武芸の勇み消え、あまつさえは(そればかりか)守護を加え(助け守ってやろうと)奉る所に、多勢一同に競い懸けて(敵味方大勢一緒になって争うようにかかり)東西にこれは居る(陣取る)、彼は(相手は)多勢、是は(こちらは)無勢、(中国のあの勇者)樊噲(はんかい)却而(かえって、是に引替え)張良(中国の勇者)が(も)芸を慎む(豪勇も武略も逆に抑えざるを得ない状況)。
たまたま(熊谷)直実は生を弓矢の家に生まれ、巧みを洛城にめぐらし命を同じうす(武芸技で都で命を懸け)陣頭が夕へ瀬々万々に及んで(戦陣の夕べあの時この時、数多くの戦を通し)自他かくの面目を施せリ(あれこれしかじかの名誉を得た)。
さてもこの度、悲しきかなや、この君(平敦盛)と(年長者の熊谷)直実(が)、深く逆縁(年少者の平敦盛の供養するという順当でない縁)を結び奉るところ嘆かしきかな、つたなき(意気地なし)かな。
この悪縁(助けようとして助けられないこの宿縁)をひるがえす(急いで改める)ものならば、長く(永久に)生死の絆を(迷界から)離れ(抜け出て)一つの蓮の縁とならんや。
閑居の地所を示しつつ(世を離れて独り静かに庵を結んで)、御菩提を懇ろに弔い申すべき事(平敦盛の死後の御冥福を熱心にお祈りするということが)誠偽り後聞く隠れなく候(嘘か本当かは後日人々の広く知る所になるでしょう)、この趣を持って御一門の御中へ御披露あるべく候、よって、恐惶謹言(恐れ畏まり謹んで申し上げます)。
元暦元年二月七日武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実、(貴人へ)進上、門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門尉殿へ
と読んだりけり。
御一門の雲客(殿上人)卿相(公卿)、(皆が)同音に、あっと感じ給い、実にや熊谷(直実)は遠国にては阿傍羅刹(地獄で罪人を責める獄卒で頭は牛馬、体は人の形を持つ悪鬼)、夷(えびす、野蛮で荒々しい者)なんどと伝えしが、情けは深かりける(者)ぞや。
文章の達者さよ、筆勢いのいつくしさよ(美しさよ)、かほど優しき兵(つわもの)に返状なくて(は)叶わじ(ない)と大臣殿(内大臣平宗盛は)返状を(平敦盛の父親平)経盛(つねもり)の自筆に遊ばして賜ぶ(返状を書かせた)。
使い(の者)は文を給わり、急ぎ一ノ谷に漕ぎ戻り熊谷(直実)殿に見せ奉る。
8 平敦盛の父親経盛の自筆返状
熊谷(直実)、いかんと(どのように)して弓矢(武士として)の冥加(神仏の恵み)無くしては、(平)経盛の御自筆を拝み申さんと三度戴き開いて拝見仕る、その御書にいわく。
(平)敦盛が(の)死骸、並びに遺物給わり訖(おはんぬ、届きました)、この度、花洛(花の都)を打ち立ちしより此の方、なんぞ(どうして)二度思い返す事の有らんや(再び都の事を思わぬ事が有りましょうか)。
(勢い)盛んなる者の(が)衰うるは(のは)無常の習い(常なき世の定め)、会える者に別れる事、穢土(えど)の習い(出会った者が分かれる事はこの世の習わし)、釈尊(は実子の)羅睺羅(らごらの存を愛し、詩人白楽)天の(は、)一子(三歳の娘を失い)の別れに(悲しむに)あらずや。
いわんや凡夫(凡人)をや去ぬる(平家は二月)七日に(一ノ谷を落ち)打立しより以来、燕来たって語らえど、その姿を見ず、帰雁翼を連ね空に訪れ通ると言えどその声を聞かず、されば、かの遺跡の聞かまほしきによって(敦盛の遺品などの事が知りたくて)、天に仰ぎ地に伏しこれを祈る。
神明の納受、仏陀の感応を待つところによって、七日が内に是を見る、内には信心を致し外には感涙袖を浸すによって、生まれ来れるに会えり(よみがえって帰ってきたのと同じような我が子敦盛に会うことが出来た)。
喜悦の芳意なくしては(喜びをもたらした貴殿の御取り計らいがなくては)、如何その姿を二度見ん、須弥、すこぶる須弥の頂(いただき)低うして(貴殿の芳意に比べれば全く須弥山の頂も低く)、蒼海かえって浅し(深い海もむしろ浅いくらいである)、進んで是を報ぜんとすれば(御恩に報いようとすれば)過去遠く遠くたり(過去の因果は遥かであり)、退き応えんとすれば未来ようようたるものか(未来にその機会を得る事も容易でない)
万端多しと言えど筆紙に尽くし難し、これは武蔵の熊谷の返し状。
とぞ読んだりける。
9 熊谷直実の出家
さる間に、熊谷(直実)よくよく見てあれば、(仏道を修行して悟りを得ようとする)菩提の心ぞ起こりける。
(一ノ谷の二月合戦からほぼ一年後の二月)今月十六日に讃岐の八島(屋島)を攻められるべしと聞いてあり、我も人も憂き世に長らえて、かかる物憂き目にも(こういう辛い目に)、また(この熊谷)直実や遇はずらめ(あうのであろうか)。
((また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる))
思へば、この世は常の住処(すみか)にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶(なを)あやし。金谷(きんこく、中国の晋の石崇の別荘、観花の宴で有名な金谷園)に花を詠じ、栄花は先立て無常の風に誘わるる。南楼(中国の晋の庾亮が観月をした故事で有名)の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり(はかない無常の世を雲にたとえたもの)。
人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生(しょう)を受け、滅せぬ物のあるべきか
(人間界の五十年は、六欲天の一つ化楽天の八千歳の長寿を保つ楽土に比べると一昼夜に当たるという、夢幻のようにはかない一瞬である、という詞章のこの部分の節に、織田信長が特に好んで演じたとが明らかになっている)
是を菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ、と思い定め、急ぎ都へ上りつつ敦盛の御首を見れば、もの憂さに獄門よりも盗み取り我が宿に帰り、御僧(侶に施物を行い)を供養し(てもらい)無常の煙となし申す(なりました)。
お骨をおっ取り首にかけ、昨日までも今日までも人に弱きを見せじと力を添えし白真弓(まゆみの木で作った白木のままの弓)、今は何にかせんとて、三つに斬り折り、三本の卒塔婆と定め(それで)、浄土橋に渡し(浄土に渡る橋をかけ)、宿を出でて(京の)東山黒谷(京都左京の浄土宗の祖)に住み給う、法然上人を師匠に頼み奉り、元結(を)切り(切って)西へ投げ(捨て直実の出家)、その名を引き変えて蓮生房と申す。
花の袂を墨染の十市(といち、奈良十市と遠地と掛ける)の里の墨衣、今きて(を着ると来るを掛ける)見るぞ由なき、かくなる事も誰ゆえ風にはもろき露の身と消えにし人のためなれば恨みとは更に思われず。
かくて蓮生(熊谷直実)、黒谷に籠居し正念(心の乱れを去り安らかに)念仏申していたりし(する)が、ある時、蓮生(熊谷直実)心の内に思うよう、紀の国に御立ちある高野山へ参らばやと思い、上人に御暇申し頭陀(仏道修行の行脚の)縁笈(ふちおい)肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷をまだ夜を籠めて出でけるが。
都出での名所に、東を眺めれば(京の浄土宗西山深草派の総本山)誓願寺、今熊野(新熊野神社)、清水(寺)、八坂(神社)、(京東山の寺)長楽寺、かの清水(寺)と申すは、嵯峨の帝の御願所すみともの造立、(坂上)田村麻呂の御建立、大同二年に建てられ万(よろず)の仏の願いよりも(本尊十一面)千手(観世音が)の誓い(千手千眼を身に供え衆生を救おうとして立てた誓願)は頼もしや、(平)敦盛の聖霊頓証菩提(速やかに悟りを得る事)と回向して、
西を眺めれば丹波に(京と亀山との間にある)老の山、下り口に谷の堂(最福寺)、峰の堂(法華山寺)。
北を帰りて見送れば内野(の荒野)を出でて蓮台野(の葬送地)、舟岡山の墓じるし見るに涙も塞(せ)きあえず。
南を眺めれば、(羅城門一帯を挟んで平安城鎮護の教王護国寺の)東寺、西寺、四塚(羅城門一帯)、年は行けども老いもせぬ、六田川原(むつだがはら)とうち眺め、山崎、宝寺(京大山崎の宝積寺)、関戸の院(山城と摂津の国境の関所跡)をうち過ぎ八幡の山を下向して、是喬(これたか、文徳天皇の第一皇子)の親王(みこ)の御狩せし交野の原を通り、禁野(天皇家の狩場で一般人立入禁止の狩場)の雉子(きじ)は子を思う、鵜ど野(淀川べり)に茂き籬垣(ませがき、柴を粗く編み作る低い垣)の宿を過ぎれば糸田(吹田糸田川)の原、窪津(淀川河口渡辺にある熊野九十九王子の第一番目)の王子を伏拝み天王寺へぞ参りける。
天王寺と申すは、聖徳太子の御願なり、(三水四石の)七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ(長い年月が立っても無くなる事はないだろう)。
((日本大百科全書の解説では、幸若舞敦盛に天王寺の七不思議が出てくるが、あるいは創建者聖徳太子の奇跡にかかわったものであろうか四天王寺の三水・四石の七不思議のことであり、三水とは荒陵池水・亀井・閼伽井(あかい)をいい、四石とは転法輪石・影向石(ようごうせき)・礼拝石・引導石のことである))
亀井の水の流れ絶えぬぞ尊(たつと)かりけると伏し拝み候いて(高野山・熊野・大峰参詣での立寄場所で栄えた)天野に参らるる。
(天野に鎮座する地主神丹生郡比売神)大明神とは、高野山の鎮守でおわします、御(高野)山に法師を授けてたばせ給へ(僧侶をお与えください)と懇(ねんご)ろに祈請申して、はや高野山へ参らるる。
かたじけなくも(空海が金剛峰寺を創建した)高野山と申すは、帝城を去って(皇居の有る都から離れること)二百里、郷里を離れ無人声(俗界から離れているために人の声もなし)、八葉の峰、八つの谷、峨々として岸高し青嵐梢を鳴らせど夕日の影のどかなリ。
(高野詣での宿駅)相賀の寺より(空海御影が安置されている)御影堂の谷、(大日如来の慈悲の面を現し示す世界)胎蔵界の大日、(胎蔵界を構成する八院の仏菩薩等の総数)百八十尊を表せリ、さてまた(密教の根本理念を表す根本)大塔よりし奥の院(空海の廟所)へ、是も大日の三十七尊(金剛界曼荼羅の三十七の仏菩薩)を表せリ、(金剛峰寺の本堂である)金堂の本尊は、阿閦(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これまた大師の御作なり。
大塔と申すは南天の(南インドの密教経典を収納した)鉄塔を学んで、兜率天(とそつてん、六欲天の第四天で弥勒菩薩が住まいし弥勒の浄土)のばんりを象(かたど)り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の(千手観音の眷属、行者の守護神)二十八部衆、下は(行者を守護する薬師如来の眷属)薬師の十二神、生々世々に際なく衆生悪所(悪行の結果死後趣くとされる苦界)の罪消え、来迎(臨終の念仏信者を極楽に導く阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩)の三尊を拝むぞ尊(たつと)かりけると伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。
路の辺りの白骨は砂子を撒(ま)くが如くなり、いよいよ念仏申し奥の院へ参り(平)敦盛のお骨を籠め置き、蓮華谷(高野聖が集住した別所)の傍らに、知識院(熊谷寺)と申す庵室を結び、峰の花を手折(たお)り、閼伽(あか)の水を掬(むす)び(手のひらですくい)行いすまし、(熊谷入道)蓮生八十三と申すに、大往生を遂げにけり。
悪に強ければ善にも強し、文武二道の名人、漢家(中国人)は知らず、本朝(日本)にかかる兵(つわもの)あらじと感ぜぬ人はなかりけり。
《参考》
◎ 「信長公記」には、永禄三年(1560年)五月十七日今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣。
織田方の佐久間大学、織田玄蕃から今川方は十八日夜に入り大高の城へ兵糧を入れ援軍のこないよう十九日朝、潮の干満を考えて必ず砦奪取の挙に出るに違いないとの旨を、十八日の夕刻になって清州の信長公へご注進申し上げた。
しかし、信長公は、その夜のお話にも軍議に関することはまったく出ず、色々世間のご雑談ばかりで、もう夜が更けたことであるから、みな帰宅せよと皆にお暇を出された。
家老衆は、運勢が傾くときには日頃の知恵も曇るということがあるが、このような時を言うのであろうと、信長公をあざ笑って皆々お帰りになった。
予想されたとおり、夜明け方に、佐久間大学・織田玄蕃から早くも鷲津山、丸根山に敵の軍兵が攻めかけたと、おいおいご注進があった。
このとき信長公は幸若舞「敦盛」の舞を遊ばされた、人間五十年下天の内にくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきかとうたわれて、法螺貝を吹け、具足よこせと仰せになり、ただちによろいをお召しになり、立ちながら食事をとられると、かぶとをお着けになって御出陣になった。
◎ 更に、「信長公記」中で、一切経(すべての仏典)を二度くりかえし読んだという天択という天台宗の僧侶が、関東へ下る途中の甲斐の国での話があります。
甲斐の国の役人から、「武田信玄公にご挨拶して行くがよい」といわれたことから、ご挨拶を申し上げた。
○信玄公~信長公のご様子をありのままに残らず話せ
○矢沢 ~舞と小唄がご趣味でございます
○信玄公~ほお、幸若太夫は教えにうかがっているか
○矢沢 ~いいえ、幸若太夫は来ていませんが、清洲の町人で松井友閑と申す者をしばしばお召しになって幸若舞を習っておられます、ご自身でお舞になり、幸若舞の「敦盛」一番の外は舞われることはなく、「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」の節をうたいなれた口つきで舞われております。
と記されている、織田信長は幸若舞「敦盛」のここの部分、人間50年の文言部分が特にお気に入りであったようである。
(注) 信長が舞った「敦盛」を能(謡曲)と勘違いしている人も多いが、実はこの「人間五十年」という詞章は、能の「敦盛」には存在しない