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1 東大寺供養の警備陣
この度、頼朝の御代を召されし由来(征夷大将軍の院宣を受けたこと)を詳しく尋ねるに、御舎弟九郎御曹司(源義経)の御心猛く渡らせ給う由来なりとぞ聞えける。
かくて、建久元(1190)年に源頼朝初上洛してから二度目(建久六年)の御上洛をされ、同じく奈良東大寺の落慶供養を展(の)べ給う(平家滅亡からまもなく、源頼朝は源平合戦で焼け落ちた南都東大寺を再建、落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝らが参列して挙行された)。
恒例なれば秩父殿(畠山重忠)が大将軍本陣前の先陣を勤められたと聞く。
さる間、源頼朝が畠山重忠と、その家来の本田次郎親経を召され、如何に本田親経承れ、この度も畠山重忠が先陣を賜わるなり、都のみに限らず五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)の者どもが僧侶も俗人も含めて大勢群がると聞く本田親経、との御諚なり。
段取りを命ぜられた本田親経は承り、童(主人の雑用をする下僕)は誰々ぞ、片田の熊王、蓬莱丸、福田の万歳を先として童二十人に赤地に錦の直垂を着せ、組糸で丸巻にされた鞘の太刀を担がせ、左手脇をぞ通しける、また、白地の直垂を着た者二十人に烏帽子折を着せ、白がらの長刀を担がせ右手脇を通しける。
秩父殿(畠山重忠)の御勢は七千余騎、鎌倉殿(源頼朝)の御勢は十万余騎とぞ聞こえける、先陣も後陣も、平安の京を御立あり、南都(奈良)へとてぞ急がれける。
東大寺の四つの門(南大門、西大門、中門、転害門)の警護は、結城、長沼、小山、宇都宮信房の方々で固め給う。
その中でも特に転害門は重要であるため、畠山重忠配下の将兵で、仏を護る四天王や武将保昌(藤原道長に仕えた武略の勇士)にひけを取らない兵五百余騎にて固められる、今、南都の供養は真最中と聞こえけり。
2 悪七兵衛景清、源頼朝を狙う
その中に、とりわけ物の哀れと申すか、平家の残党、悪七兵衛景清こそ、世の中に貧ほどつらい事はなく、親しき中は遠ざかり、疎き人には卑しまれ、貧者の家に生まれるほどつらい事はないものである。
承れば、源頼朝が南都の大仏供養に訪れるとうわさで知って、法会の庭とは存ずれども亡き主君(平清盛三男の平宗盛)の仇でましませば、忍び都へ上りつつ、源頼朝を一刀切り申し、主君平宗盛の霊前に手向けたいものだと思いければ、尾張の熱田を立ち出でて、忍び都へ上りけり。
京の清水坂の傍らに、悪七兵衛景清が契りを交わした仲の阿古王と申して遊女の有りけるに、浅からず契りければ、かの宿所に立ち寄って、南都の様子をくわしく問う、阿古王承り契る情けの切なさに有のままにぞ語りける。
悪七兵衛景清大いに喜んで、急ぎ南都へ下り、人々の内心を探ってみたいと存ずれば、出発する様がこれまた面白い。
萌黄匂の腹巻・草摺長めの鎧を着て、夏用の衣を上に着て、上帯をしっかりと締めたりけり、長絹の袈裟で頬被りし、主君平宗盛より頂いた痣丸(備前助平の打刀あざまる)を十文字に差すままに、藍色革鼻緒付の漆塗の高下駄を爪先立って履き、抜けば玉散るばかりなる反身の薙刀四尺八寸あるものを左の脇に抱え込んで、秩父殿(畠山重忠)の固める転害門をさらぬ体にて通ろうとした。
秩父殿配下の本田次郎親経がこれを見て荒々しく問いただす、貴方は如何なる人候ぞ、ここは秩父殿の固めてまします転害の門とは知らざるか、そこから戻りなさい。
悪七兵衛景清聞くよりも、何と言う事はないと存ずれば長刀両手に取り直し、近く寄って小声で申すは、怪しい者ではございません、東大寺の傍らに住まいする名は筒井淨妙明俊である、通して下されとぞ申しける。
幕の内側でこれを聞いた秩父殿が、大幕掴んでまくり上げ、あら不思議の事どもや、只今のなまりの声は、北陸道の傍らのなまりの声と聞いてあり、それよりも戻れと言え。
運命尽き果てて少しでも抵抗すれば切れとの命令なり。
さ承り候とてその勢は三百余騎、太刀、長刀の鞘はずし、御止りあれと追っかける。
悪七兵衛景清は見るよりも、正体がばれたと思い存ずれば、履いたりし高下駄をとある所に脱ぎ捨て三百余騎の真ん中にて長刀の秘術で、込む手、薙ぐ手、開く手、石突金具を掻い掴んで、はらりはらりと横に振り回したり、並はずれて強い兵三十騎程を一気に切殺し、残りの兵共に痛手薄手負わせて四方へばっと追い散らし、霧を降らして姿をくらませ春日山へつつと入り逃げて世間の様子を聞き居たり。
悪七兵衛景清心に思うよう、所詮此処にてかなわずは、明日には源頼朝が般若寺に御参りと聞いたので、山伏姿に変装し、狙ばやと思い、柿色染の山伏法衣篠懸(すすかけ)、飾摩(しかま)の頭巾を眉すれすれの所まで深く被って、背丈に合った笈を肩に打ち駆け、猪の目の彫刻の入った大まさかりを担いで吉野大峰山で修業する山伏達二十人ばかりを伴って般若寺前で、源頼朝の御参りを今や遅しと待ち伏せした。
さる間、畠山重忠は、おびただしい山伏の面々を見て、陸奥の松島、岩島、平泉、あすかけ、岩屋、外の浜、大峰なんどの行として磯伝いの行場めぐりで疲れたる山伏達と見なしたり。
さりながら、前から九番目、後から十二番目に、何とも背の馬鹿でかい上品な僧を真の山伏と思うなよ、方々不覚を取るなよ、あれこそ昨日転害門にての、大衆の無精ひげ面は僧侶に非ずなり、追い詰め搦め取って、君にお見せ申せ本田親経、と指示した。
本田次郎親経の勢五百余騎が太刀長刀の鞘をはずし、御止まりあれとて追い掛けてくれば、悪七兵衛景清は、これを見て現れたと思えば、背中に駆けたる笈を投げ捨て、主君平宗盛より頂いた痣丸(備前助平の打刀あざまる)をするりと抜いて、五百余騎を討ち破り、また霧を降らす景清の振る舞いは漢の劉邦に仕えた武将樊噲(はんかい)もこの様であったろうと思われる。
3 変装した西条坊信救をまねる
あら無残や悪七兵衛景清、今は作戦尽き果てて、我が身を抱いて立ったりしが、どのようにすれば主君の仇を討てるだろうと思う心の内こそ哀れなリ。
ここに一つのたとえがある。高倉宮(後白河天皇第三皇子)、三井寺を頼のみ行幸ならせ給う、三井寺何となく頼まれ申し、南都へ公式文書である重状(牒状)を遣わす。
寺の僧侶一同で評議して返牒を西条坊信救(後の覚明)に書かせられけるに、興福寺の園城寺への返牒中の文言に、平清盛を無駄な存在である事のたとえとして、平氏の糟糠(粗末な食べ物)、武家の塵芥(ごみ)と書いて送った。
その咎で西条坊信救(後の覚明)への討手を、平家の清盛の家人の難波次郎経遠、瀬尾太郎兼康が賜わり、一千余騎を率し南都に攻め上ってきた。
南都の大衆達は、西条坊信救(後の覚明)一人に頼まれ平清盛と敵に成り叶うまじと詮議して、心あら無残や、西条坊信救(後の覚明)が頼み申す大衆達は、心変わりをし給えば、今はせん方尽き果てて、乞食に変装し真黒な漆を買い、からだ全体に塗り漆かぶれの顔で蓑裏返しに着て、破れ笠を首にかけ乞食姿で京に向けふてくされて南都を出る。
奈良坂や般若寺の辺りにて討手の勢にぞ行き会いける、日頃は肩を並べ膝を組みし傍輩達が目の前を通れども、あれは如何に西条坊信救(後の覚明)か、と目に懸ける人もなかりけり。
それも心が剛なれば危険な場所も逃れて鬼神の門を立ち出でて、鳴海潟(名古屋市)に下りつつ、医師を求めて療治をし平癒し、かくて西条坊信救(後の覚明)熊野に越え、新宮の十郎行家(源為義の十男義盛)に付き申す。
治承四年の夏の頃、熱田の宮の願書の時には西条坊信救(後の覚明)とぞ署名したりける。
その後信濃に下りつつ(兄が木曽義仲の家臣であったので)木曽殿に付き申す、北国砺波山、埴生の宮の木曽願書の時には、西乗坊とは書かずしてその名を変えて木曽の大夫覚明とぞ署名したりける。
哀れ漆の知恵がなければ、西条坊信救(後の覚明)の命は危ぶまれていただろう。
かく申す悪七兵衛景清も、少し違えども、乞食に変装して源頼朝を狙はばやと思い、京の四条の店に行き、黒い漆を買い、顔身体をかぶれさせ、それは五体をしむる耐えがたき痛さであった。
4 景清を畠山重忠見破る
無残や悪七兵衛景清は我が身をきっと見て、かく成り果てつるも誰ゆえぞ、主君の為と思えば恨みとは更に思わず、如何に外面から見えない内面を見抜く霊妙で自在な能力を持つ畠山重忠と申すとも、かの悪七兵衛景清の振る舞いを見抜く事はないだろう。
蓑裏返しに着るままに破れ笠を首にかけ、清水坂の傍らに百四五十人並居たる乞食に交わり、のう、人並み人並みにこなたえも施しあれと乞う時ぞ、いとど昔を恋衣恋衣、袖は涙に朽ちぬべし。
さる間、畠山重忠、本田次郎親経を召され、かかる法会の庭には、ほんの僅かな善徳をしようとすると悪魔の大きな誘惑や妨害が思いがけなく起こって来る、大事の事が候ぞ、あのようなる乞食は、五行説で言うところの四季の調子に背く成り。
まず春は甲乙(きのえきのと)にて双調(十二律の音階の一つ)にてあらうず、夏は丙丁(ひのえひのと)にて黄鐘(十二律の音階の一つ)にて有るべし、秋は庚辛(かのえかのと)にて平調(十二律の音階の一つ)にてあらうず、冬は壬癸(みずのえみずのと)にて盤涉(十二律の音階の一つ)にて有るべし、土用は戊己(つちのえつちのと)にて一越(十二律の音階の一つ)にてあらふず。
これによって医師、陰陽にも、双、黄、平、盤、一と使い候。
今は秋にて候ほどに、平調にて有ろうずるが、あら不思議や、只今施しあれと乞うつる声を聞いて平調なり、漢方医学では左眼は腎臓より通じてその色黒く見ゆる、右眼は肝臓より通じてその色青く見ゆる、陰陽五行説の相剋相生(木火土金水の五行は巡る)の形、まさしく御身は乞食ではなくして平家の侍大将に悪七兵衛景清と見たは畠山重忠の見間違いか。
かく問うが間違っていたならば、こう申す、畠山重忠が君に御暇申し武蔵へ下ってあらん時、鎌倉将軍の居所の大御所に忍び入り、長廊下の垣根の隙間にても狙いたくば狙い給え、しかし畠山重忠があらん程は断じて思い通りにはさせないと、はっきりと通告されてしまった。
あっ恥ずかしと存ずればうつ伏せて居たりける、悪七兵衛景清、心に思うよう、我等が父の上総の守を、畠山重忠は元服の親と頼ませ給いたらば、我等が父の伊東忠清の忠の文字と、重の文字は秩父の重にて、秩父の畠山重忠と名乗らせ給うと承る。
烏帽子親と烏帽子子は、生まれ変わって七代までの縁と承って候に、情けなくも畠山重忠の一度も見許し給わぬ所は無念なリ、その儀にて有るならば、どうせ死ぬ運命にあるのだから畠山重忠と一戦交えてどうにでもなろうと思う心を先として、上に被った蓑をさっと脱ぎ捨て、どこかに差したる主君平宗盛より頂いた打刀痣丸をするりと抜いて眉間に差しかざし、おうお止まりあれ、とて追っかける。
畠山重忠は御覧じて、心得たりと宣いて四尺二寸の備前高平作の太刀を抜いて渡りおうてぞ見えられける、危うかりつる所に主君の御馬まわりの騎馬武者が一度にはらりと下り立って、畠山重忠を押し隔て奉り、
悪七兵衛景清を中におっ取り籠めて火水に成れとぞ揉んだりける、もともと悪七兵衛景清は心は剛なり力は強し持ちたる刀は剣、全力尽くして切りまくった。
馬に取って切る所、小口と小脇、尾の上三頭、足付け根の毛、顔と鼻、関節を切って落とす。
人に取って切る所、額真中、小額、左右の籠手、振り仰退けば内甲、母衣付と胴中、籠手板の外れをばはらりはらりと薙いだりけり、馬人の嫌いなく乗り越え乗り越えさんざんに切ってぞ廻りける。
屈強の兵をその数これは切り留め、残りの兵共に痛手薄手負わせて四方へぱっと追い散らす。
総じて景清が狙う所はどこどこぞ谷の堂に峰の堂、音羽、桂、常盤の里、南都にては東大寺、今度清水詣でまで一度ならず二度ならず、三十七度に及んで心を尽くし肝を消し、君(源頼朝)を狙い申せども前世の果報による運が素晴らしく、秩父殿(畠山重忠)に悟られ申し前後に叶う事もなし、
悪七兵衛景清心に思うよう、いやいやかかる事騒々しき時の、悪七兵衛景清の京住居は無益なリ、所詮、舅の熱田神宮の大宮司を頼み、下らばやと思い尾州熱田に下る。
5 お尋ね者景清の妻阿古王
さる間、源頼朝、梶原景時を召され、如何に梶原承れ、今度頼朝が代を取ったりと言えども、取りたるしるしもなし、それを如何にと申すに、平家の侍大将悪七兵衛景清という者に、あちこちで苦しめられ如何にも残念である、如何にしてでも彼の者を殺して捨てよと仰せければ。
梶原景清承りて、御前を罷り立ち、白い板をたくさん取り寄せ、札に削らせ筆にて物をぞ言わせける、平家の侍大将に悪七兵衛景清を討っても搦めても六波羅殿(源頼朝上洛の時の居所)に参らせたらん輩に、恩賞望みどおりに与える、景時、判、と書き留め、京白川の辻々に立てる。
札立って十日ばかりは差したるしるしも無かりけり、かかりける所に清水坂の傍らに阿古王と申す女、北野天満宮詣をしけるが、京白川の辻々に立てたる札を読んでみるに、九年連れたる我が夫の悪七兵衛景清を討たんと書いて立てて有、
阿古王余りのもの憂さに、この札を盗み取り鴨川、桂河へも流さばやと思いしが、途中で心を引返し、まてしばし我が心、日本六十六ヶ国に平家の知行とて国の一所もあらばこそ、敵を狙う平家一味の者とては、夫の景清ばかりなり。
隠せば、この事遂に洩れ討たれるであろう、悪七兵衛景清討たれてその後に、思いもよらない嘆きをするよりは、九年連れたる情けには二人の若の有るなれば、この事敵に知らせつつ悪七兵衛景清を討ち取らせ、二人の若を世に立てて、後の栄華に誇るらんと考えた末に決心した阿古王の心の内ぞ恐ろしき。
この札懐中し六波羅へ参り、札の表のことで参りて候と申し上げる、源頼朝、阿古王を召され、詳しく問わせ給えば、阿古王承り悪七兵衛景清の行方を人の知らぬも道理と思し召せ、今は尾張の熱田に候いしが、平家御代の御時よりも清水寺を信仰しており、月に一度は寺参り候、明日は十八日(観世音菩薩の斎日)必ず我が家に来たるべし、
もとより大酒呑みにて酒を進めるものなれば、前後分らず寝てしまう、その時自らが参りますので大勢率し押し寄せ、悪七兵衛景清を討ち取らせ自らに所領を与えて下さい、のう我が君と申す。
源頼朝聞し召されて、嬉しゅう候、阿古王御前、無理にでも特別報酬を与えようと仰せければ、砂金三十両阿古王に下し賜う、阿古王頂いて清水坂に帰りつつ、その日の暮るるを待ちたるは情けのうこそ聞こえけれ。
6 阿古王の裏切りのもてなし
あら無残や悪七兵衛景清、これをば夢にも知らずして、明日は十八日清水寺へ参らばや、と思い尾張熱田を打ち立って、四日の工程の道なのに、その日の暮れ程に清水坂の傍らにある我が宿所に立ち寄って訪れる、内より誰ぞと答えると。
いや苦しゅうも候わず景清なりとぞ答えける、阿古王喜び急いで立ち出で、門を開き悪七兵衛景清を内へぞ請じける、二人の若共は、父親に長い事会っていなかったので、父の辺りに立ち寄って睦ましげなる風情なリ。
阿古王涙を流す風情にて、あらいたわしや景清平家の御代の御時は悪七兵衛景清とて公家にも武家にも憎まれず一時の詣でにも、中間や小者を従えてにぎにぎしく華やかに、馬鞍小具足、尋常に、本当に立派でいらしたが、いつの間にか平家一門の人々に先立たれ、旅の疲れで気力も衰え、世話する供人もつかず、どんなに苦しい事でしょう。
前もって考えたくらんだ事なれば、種々の肴を取りい出し、悪七兵衛景清に酒をぞ強いたりける、悪七兵衛景清は見るよりもいとおしき子供は並み居たり、酌に立ったるは女房なり、何処に遠慮のあるものか、さし受けさし受け飲むほどに、さしもに剛なる悪七兵衛景清も敵の事をば張ったと忘れ、嬉しゅう候、阿古王御前、清水寺には明日参ろう、暇申してさらばとて間の障子をざらりと開け、廉中に移りて籐の枕に並び寄りて、前後も知らず伏したるは運の尽きとぞ聞こえける。
阿古王大いに喜んで清水寺には自らが参ろうずるにて候とて、薄絹取って髪に掛け門より外へ出とみえしが清水へは参らずして、六波羅殿へ参りこの由かくと申し上げる。
源頼朝聞し召されて、さらば打ち立て兵(つわもの)とて、その勢は三百余騎、軍旗を一流れ掲げて阿古王先に追っ立てて、ああ、清水坂にぞ寄せにける。
頃はいつなるらん、八月十七夜の小夜うち更けての事なるに、月は出でて隈もなし、下の小草に至るまで隠くるる所はなかりけり、さる間、阿古王御前、目鼻立ち形を見れば春の花、姿を見れば秋の月、眉目も形も並びなき洛中一番の美人とは申せども、九年契りを籠めたりし悪七兵衛景清を討たせんとて大勢率し寄せたるは、全く鬼神の如くなり。
7 景清、我が子を殺す
三百余騎の兵を門の辺り築地の脇に隠し置き、阿古王自身は内へつつと入り、只今こそ下向申して候へ景清、とぞ起こしける。
悪七兵衛景清かっぱと起き、打刀痣丸を膝の上にとうど置き、阿古王をつくづくと見て、いやいや御身は清水寺には参らぬ人とみなしたり、それを如何にと申すに、
日本六十六ヶ国に平家の知行とて国の一カ所もなし、平家一味の者とては我一人、何がしか事を敵の方に訴訟して討ち取らせ、後の栄華に誇るらんと思う共、因果たちまち報いて全く世には出ずまじいぞ。
阿古王余りの不思議さに、いいえそんな事はありませんよと申して顔が紅葉のように赤くなった。
悪七兵衛景清これを見て、本当であれば弁解するな、嘘をつくな、紅葉のように赤面しているぞ、されば外典(げてん)の、りうしゆほん経にも、多くの子を儲け長年連れ添った妻にも油断して、秘密を打ち明けてはならないと申し伝えて有る程に、ちょっと疑って言っただけだよ、阿古王御前と言うこそ遅かりけれ。
広縁に踊り出で築地の覆いに手を掛け伸び上って見て有れば、かしこに二十騎、三十騎甲の鉢を並べつつ、あちらこちらに一塊に群がって待機している、内へ走りかえってにっこと笑って言う様は、いかにや阿古王御前、そうではないと唱えても、牛頭人身、馬頭人身で邏刹の如き暴悪な地獄の獄卒、呵責(かしゃく)を早めて遅し遅しと攻めるも、いかでこれには勝るべき、最後の別れ如何せん、やあ女房とこそ呼ばわりけり。
阿古王余りの悲しさに二人の若の手を引いて、間の障子をはたと立て簾中深く入りにけり。
悪七兵衛景清この由見るよりも、あらおかしの阿古王の振る舞いや、例えば(坂上田村麻呂に退治されたと言う)鬼の大将八面大王が、岩をたたんで四十余丈に築地を築き、鉄の門を立てたりとも、景清ほどの兵がどうして一方打ち破られずにあるべきぞ、いわんや紙障子の一重破らん事はやすけれども、日頃の情け当座の愛想、九年も連れ添った夫婦の契りにお前が心変わりしても我の気持ちは変わらない。
やがて言葉を変えられる、如何に二人の若共よ母こそ辛くとも、これが最後の別れなれば父の姿を出でて見よ若ども、とありしかば、無残や二人の若どもは母の所を立ち離れ、父の膝に並み寄りて、顔を撫で髭を撫で父よ父よとばかりなり。
悪七兵衛景清は御覧じて、二人の若を左手右手の膝に置きおくれの髪を掻きなでて、お前たちの母親の心ほど浅はかで愚かしい物はない、それを如何にと申すに、敵に訴訟して景清を討ち取らせ、二人の若を世に立てて後の栄華に誇らんと思う共、因果たちまち報いて全う世には出ずまじ。
このような下劣な心を持って世の中を生きて行く事は出来まい、また別の夫に添うならば一つに思えば継子の中、又は敵の子孫とて、良くない事が起こる度ごと邪見の杖にて打つ時に、父よ父よと呼ぶならば草の陰にて景清が見る事も無残なリ、如何に若共よ、情けない母と一緒にいるよりも地獄の閻魔の所で父の来るのを待ちなさい、と語りつつ。
兄弥石を引き寄せて、左手肘の関節を二度斬りつけて押し伏する、弟がこれを見て、あ恐ろしの父御前や我をば許させ給えとて、居たる所をづんと立ち逃げもせず殺すべき父に縋り付く。
悪七兵衛景清御覧じて、何と申すぞ弥若よ殺す父を恨むなよ、殺す父は殺さずし、助くる母が殺すぞ、同じくは兄と打ち連れて死出三途を嘆き越し、閻魔の庁にて父を待てよと語りつつ胸元を一刀、あっとばかりを最後にて兄弟の若共を三刀に害しつつ、同じ枕に押し伏せて刀をかしこへからりと捨て、つがいのおし鳥が恋い焦がれて泣くように、我が身を抱いて立たれたり。
8 景清、捕縛の敵と戦う
悪七兵衛景清心に思うよう、いやいや弓取りの心は豪く持てば剛になる、少し油断すると失敗する只今ここもとへ寄せられたる人々の、家名を確かに承って討死をとげたいと思い、只今ここもとへ寄せられたる人々は党の者かそれとも名門の武家か、名字を承って討死を仕らんと大声あげて申す、寄せ手の人々これを聞き、江間の北条小四郎義時、御所の梶原景季これにありと声々に呼ばわれる。
悪七兵衛景清聞いて、おう江間殿と申すは源頼朝の小舅(頼朝妻政子の弟)、御所の梶原源太景季何れも敵に嫌いはなし(我が敵としてふさわしい)、まさに平家の侍の豪勇か臆病かの見せ所、命の惜しい時には敵の攻撃から身を守る鎧兜も欲しい所だが、死を覚悟の事だから何もいらない、例の打刀痣丸のみで候、では参り候と言うままにさっさっと走り寄り、門のかんぬきを取り、かしこへ投げ捨て、片戸を開いて肩戸を前に当て、外なる敵を内へと、ひらりひらりと招けども、左右の敵は寄らざりけり、余り待てば久しきに、参り候と言うままに、三百余騎の真中に、ひらりひらりと懸りしを物に例えれば、丸い球が皿の上をゴロゴロと動き回る如く、また竜がすさまじい勢いで水を得て雲を分け昇天するが如くである。
大勢の中に分け入って、八方に斬りまくる太刀使いは、西から東、北から南、蜘蛛手(四方八方)、結果(かくなは、太刀を縦横に振り回し)、十文字、八つ花形(八方向への太刀遣い)というものに、わり立て追い回して散々に切ったりけり、屈強の兵を七八十騎切り伏せ大勢に手を負わせ、東西へぱっと追い散らし走って門を丁度鎖(さ)し、殺し置きたる我が若共に縋り付き、はらはらと泣いて立ったりける、かの悪七兵衛景清の心中をば、貴賓上下押し並べて感ぜぬ人は無かりけり。
9 景清、大宮司を頼み熱田へ
さる間、悪七兵衛景清は、阿古王が居たりける簾中に向かって申しよう、如何に阿古王、今夜それがし死なんと狂えども、敵の心が臆病にて、もともと景清は討たれぬ也、暇申してさらばとて天井に上がり破風関板をけ破って家の棟につつと上がり清水坂の事なれば軒続きの在家十四五間走って、そこから林の中につつと入り、世間の様子を暫く聞けども、近ずく敵は無かりけり。
そこから観音様の御前に参り、心静かに祈念して京の中まで出でけるが、かかる折節、悪七兵衛景清が京住まいは無益、所詮四国西国へも落ち行かばやと思いしが、いやいや係る時こそ人をも頼み頼まれる、また舅の大宮司を頼み尾州へ下ろうやと思い、都を夜半ばかりに立ち出でて鴨川白川打ち渡り、祇園林の村烏うかれ心か夜の闇の中を行く、別れ路止めよ逢坂の関の明神(滋賀県大津)伏拝み、大津打出の浜千鳥、友呼ぶ声に夢覚めて憂き身の旅を志賀の浦、波寄せかかる海士小舟、唐埼の一つ松、類なき身を思うにぞ憂き身の上と思われて、いとど涙も塞きあへず。
瀬田の唐橋打ち破り、雲雀上がれる野路の宿、露もたまらぬ守山、面影見ゆる鏡山、馬淵畷、惟高(これたか)の皇子の憂き世の中の厭(いと)いて、立て置かせ給いたる武佐寺を伏拝み入り久しき五条宿、年を積もるか老蘇(奥石神社)の森、河風寒き旅人は小夜の眠りに夢覚めて愛知川渡れば千鳥鳴く、小野の細道、磨針山、番場、醒ヶ井、柏原、今須、山中うち過ぎて、荒れてなかなかやさしきは不破の関屋の板庇、月洩れとてやまばらなる、垂井の宿を討ち過ぎて、実もならば花も咲きなん杭瀬川、大熊河原の松風は、琴の音をや調ぶらん。
墨俣、阿志賀、及川の橋、光あり玉乃井の黒田の宿をうち過ぎて、下津、萱津を過ごしかば、尾張の国に聞こえたる熱田の宮に参り、三十三度の礼拝を参らせつつ立ち上がって、悪七兵衛景清は東をきっと見てあればまだ夜が明け果てては、いなかった。
なくて大宮司の館にも着きしかば、門ほどほどに叩く、内より誰ぞと答える、いや苦しうも候はず景清なりと申す、
内より門の錠を引きければ悪七兵衛景清内へぞ入りける。これにも二人の幼い者こそ候いけれ、あら無残や悪七兵衛景清、二人の若を左右の膝にとうと起き、今夜それがし都にて、なんじらが兄弟の若共の有りつるを女の心が憎きにより、害してここまで下りたる、不憫なるぞよ若共とて涙ぐみてぞ居たりける。
10 訴人阿古王の懲罰
あら無残や、阿古王それだけで止めておけば、うまく事は収まったはずなのに、又、六波羅殿に参り、彼の悪七兵衛景清と申す者は、好色な男で私一人に限らず、尾張の大宮司の三の姫に契りを籠め、これも十年になると承る、落ちるとも私の方には行かず、舅と妻子を頼み尾張の方に落ちてぞ候らん、急ぎ討手を御下しあれと申す。
源頼朝聞し召し、あら恐ろしの阿古王や、九年まで契りし者が、重々訴訟する心の内の憎さよ、他の女が見聞きする場合の見せしめの為でもある、それ計らへとの御諚なり。
阿古王を取って伏せ、荷車に打ち乗せ、都の内を引き回し、その後、彼の女を鴨川と桂川の合流点に稲瀬が淵の深き所を尋ねて、簀(す)巻きにして投げ入れたり、上下万民押し並べて憎まぬ者はなかりけり。
11 投獄された大宮司の書状
その後、源頼朝、梶原景時を召されて、尾張への討手には誰をか下すべきとの御諚なり、梶原景時承って、彼の景清と申す者は合戦に於いては絶対に討たれる事はありません、先ず舅の大宮司を召し上らせ牢屋に入れ、後日にしかるべき御処置をなさるのが良いでしようと申す。
源頼朝、実にもと思し召し、やがて御状を遊ばされ大宮司の舘に付け給う、大宮司この御書を開いて拝見仕り、いつも以上に立派な服装に整えて御上洛と聞こえたり。
六波羅の御所にも着き給えば咎は何とも知らね共、ここの辻かしこの門の脇よりも、屈強なる兵が集まってくるいたわしさや、大宮司を手取り足取り縄をかけ牢に入れた。
梶原景時立ち寄って申しけるは、何故大宮司は我が君に背き悪七兵衛景清を庇護なさるのか、悪七兵衛景清を差し出されよ、出さなければ大宮司の御命を給わるべしと申す。
大宮司聞し召されて、さては、それがしが過ごしたる咎は無けれども、君朝敵の景清を扶持したる謂れによって牢入りさせられ候や、その儀にて有るならば、景清を召し上らせ敵の手に渡さばやと思し召すが、待て、しばし我が心大宮司も心変わりをし、景清を敵の手に渡したなどと言われるのも恥ずかしや、無残や妻である我が姫の恨みの程を如何せん。
姫からは、情けない父親や、まさしく自らが来世までも深い契りを約束した景清を、敵の手に渡し切らせ給える、ひどいと淵にも背にも身を沈めば後の嘆きを如何せん、氷は水から出来るども水より氷は冷ややかなリ、孫は我が子の子なれども子よりも孫は不憫なリ。
我が身を物に例えれば、露、白雪、遅桜共に幾ばくもなくはかなく消える運命にある、我が子と孫の不憫なれば大宮司このまま切られるとも、景清を助けんと思いめぐらし決心した。
かの大宮司の心の内、たとえん方もましまさず。
梶原景時申しける様は、あらいたわしや大宮司はこの二三日間に切られさせ給うべし、形見の物を尾張へ御下しあれと申す、大宮司聞し召し、此の際に臨んで形見は無益と思えども、思う子細の候えば硯と紙を下され。
墨磨り流し筆に染め、今度大宮司が上洛の儀、別の子細ならず、そのゆえは君朝敵の景清を扶持したる謂れによって牢獄されて大宮司は都にて切らるるなリ、某切られるものならば直ぐに討手が下るだろう、討手下らぬ先に急ぎ信濃に下って、海野、望月、村上党を頼むべし、そこから奥州に下って平武者を頼むべし、かの平武者と申すは大宮司の為には甥ながら烏帽子子なり、彼らを頼む物ならば十万余騎は候べし、その大勢を引率し急ぎ都へ攻め上り、宇治、勢多、東寺をさし塞ぎ阿弥陀が峰に城をして絶えて久しき平家の赤旗、洛中にぱっと打ち立ておごる敵を追討して、草の陰なる大宮司にただ一目見せてたべ、悪七兵衛景清へ、と遊ばして尾張へ下し給いけり。
12 景清、大宮司助命のため出頭
三日と申すにこの状尾張に着く、悪七兵衛景清開いて拝見仕り女房に語りけるは、あら目出度や大宮司は、この間に御下向在るべしとの御状の候ぞ、御心安く思し召せと偽り、またそれがしは大宮司の仰せに従って奥州へ下り候、三か年にては上るべし、それ過ぎれば五か年、五か年過ぎるものなれば、陸奥にて景清空しく成りたりと思し召し御世弔いてたび給え、暇申してさらばとて熱田をば出で立ちようよう急ぎ下る程に。
遠江国浜名の橋に着きにけり、ここにて悪七兵衛景清思うよう、いやいや、それがし奥州まで下りたりとも、はや大宮司は都にて切られさせ給うべし、故も無きそれがしか遥々と下り、頼まれよと言わんずるに、頼まるる者一人も無くして、結局は逃亡者が居るかと言って探し出され、切られるだろう事は必定である。
どうせ死ぬなら、とにかくここから都に上って大宮司の御命に替わらばやと思い、そこから引き返しまた都へ上りける。
歩幅に弓杖二杖三杖ほどづつ躍り上がり跳ね越え、ひらりひらりと上る程に、熱田を八時ごろに打ち立って粟田口にも着きしかば、さもあれ何時やらんと思いて振り仰いでみれば、法性寺の十四時を知らせる太鼓をとうとうと打たれけり、先ず清水寺へ参らばやと思い観音の御前に参り心静かに祈念して、そこから六波羅の御所に参り、南面の築地をゆらりと跳ね越え、御前の前の蹴鞠中に現れ仁王立ちにぞ立ったりける。
折節、源頼朝は念仏を唱え本堂の縁を巡り歩いてましましけるが、かの悪七兵衛景清を御覧じて、あの蹴鞠の掛に立っているものは如何なる者ぞと問い給う、秩父殿(畠山重忠)さし寄って申さるる、あれこそ君朝敵の悪七兵衛景清にて候へ。
源頼朝聞し召され、悪七兵衛景清ならば捕えよとの御諚なり、御前の人々には座間、本間、土肥、土屋、足助、中将、横地、勝間田の人々が、直垂の両袖を肩越しに結んで、太刀長刀の鞘はずし、悪七兵衛景清を真ん中に早、取り込んだように見えにける。
悪七兵衛景清これを見て、あら大げさな皆さんの振舞いや、それがしがその気になれば方々を切り殺さんも、天に上がらんとも、大地に潜らんとも自由自在になるが、さりながらこの度は大宮司の身代わりになるつもりで参ったならば、太刀も刀も必要なしとからりと捨て、自分から進んで縄目を受けたのだった。
13 獄定の景清の有様
源頼朝の御諚には、他の囚人と共に入れずに新規に牢を作らせよと申して、いちい樫、白樫、栂、楠木で作った、やっと身体が入る程度の狭い牢に入れ、捕縛はからむしの縄で身動きできないように縛り上げ七尺ほどもある悪七兵衛景清を二つに折り、髪を七把に束ね天上の格子に七方向にくくり付け、手足を上に吊り上げて、拷問用の責め道具、首には根掘りのサボテンを三本担がせ、無残や悪七兵衛景清、牢の内にて通う物は息ばかり、働くものは両眼なり、舌先以外動く所なし。
源頼朝の御諚には、悪七兵衛景清を召し捕るために捕まえた大宮司季範の娘は、我が頼朝の母であり、外戚の祖父大宮司と対面あるべし。
梶原景時の嫡男源太景季が牢から大宮司を連れ出し源頼朝と御対面あって、君からは、この間の囚人の御辛苦はいかばかりであったかとお気の毒に存じます、懸賞に重ねて所領を差し上げましょう、急ぎ国に下り給えとの御諚なり。
大宮司聞し召されて、あら所知も所領も欲しからず、どうせなら景清を伴い下れればどんなに嬉しい事かと、先立つものは涙なり、こうしてここに居るわけにもいかないので大宮司は、お暇申して国へ帰られる。
14 観音の霊力で籠破り
かくて悪七兵衛景清は、頑強な牢に閉じ込められ七十五日が過ぎたころ、六波羅の南面牢の側を無頼の若者三人が通り、話す声が聞こえる。
いたわしい事よ、あの新造の牢の中の者は誰か、あれこそ平家の侍大将の悪七兵衛景清が入っている牢である、平家の御代の御時は神通力を持って、仏神の化身とまで言われていたと聞くが、かの悪七兵衛景清と申す者は、主家を失った今は神通力も役に立たなくなったのか、源氏の勝る兵にやすやすと生け捕られ牢に籠められているという。
武士という者は、その豪勇ぶりが噂で聞くのと目で実際見るのとでは随分と違うものであるよとどっと笑って通る。
牢の内で聞いていた悪七兵衛景清は、言われることは道理なり、景清ほどの兵が僅かの牢に籠って悪い評判を流すとは残念だ、されば牢を破ってとも思うが、咎なき大宮司に再び憂き目を見せ申さんもいたわしいし、何心なく並び居たる牢の番人達を打ち殺さんも無残なり。
どうしたらよいものかとも思ったが、それも余りにも穏やか過ぎる、いやいや牢を破って末代の物語にならねばと思い、億の力を出したが牢はびくともしない。
もとより観音を信じたりければと名号を唱えた、南無や、千手千眼観世音、生々世々希有者、一文名号滅重罪、無上仏果得成就と三辺唱え左足をエイと引いた、誠に無限の時を経て永遠にわからない観音の救いの不思議のてだてにて、一尺三寸の大釘が切れて、縄は切れ、七方向に吊られた髪をえいやっと引けば外れ、担いだ根掘りのサボテンは微塵の如く押し砕いて、身を細めて牢の格子から抜け出し、にこりと笑った姿は人間業ではなかった。
悪七兵衛景清心に思うよう、出でたるついでに又清水寺に参らばやと観音の御前に参り、南無や、大慈大悲の観世音、ヨモギ草(有難い衆生救済の誓い)、さしもかしこき誓いの末、深く心に祈念し、なお頼み有どうか景清を地獄に落とさないでください、と懇ろに祈誓申し、奥の院の千手堂の千手千眼観音に参り後生の事を祈り、そこから西門に立ち出でて都の方を眺めれば、その古ぞ偲ばるる、いたわしや平家の御一門、花の都に御座の時は、黄金の飾り花を連ね水晶を家に飾りつつ、光り輝く立派な車に乗って桜見物をしに立派な殿舎に出かけ人の栄華も一時、花の盛りも一瞬、淵は瀬となる世の中とて名のみ残りて今はなし、牢から出たからには、これより四国、西国へと落ち行こうとも思ったが、この事で舅大宮司に危害を感じた悪七兵衛景清は再び牢に戻り、自分から進んで死を選んだのであった、かの悪七兵衛景清の心の内、何に例えん方もなし。
15 観音、景清の身替りとなる
その後、梶原景時、源頼朝の御前に参り、何故、悪七兵衛景清は長く牢獄させられ候ぞ、御意を請け処刑すべきと申すと、梶原景時に任せるとの源頼朝の命で、嫡男梶原源太景季が屈強の兵共三十余人こしらえ、悪七兵衛景清を牢より取って引き出し六条河原に西向けに引き据えたり。
悪七兵衛景清、何と思ったのか居たる所をずんと立ち、観世音菩薩の浄土の有る南方補陀落世界の方に向き直りける、梶原源太景季これを見て、実にや悪七兵衛景清は二相を悟って仏神の化身なんぞと承りしが、最後にも成りしかば心動転し給いて、西方をさし知らずして南方に向かい給うか。
悪七兵衛景清これを聞き、愚かなリ梶原源太景季殿、それ法華の名文に、十方の仏土では悟りに到達するのに、ただ一つの方法だけあって第二第三の法は無い、仏が方便として説く種々の教えを除いては西方に限らず、早、切り給え。
梶原源太景季この由聞くよりも、貴殿と私が宗教問答で対決したならば口では負けるのが、剣の道では負けないので私の太刀を受けてみなさいと、三尺八寸の頑丈に作られた太刀をするりと抜き横手切にて切る、惜しむべき年の程三十七と申すには首は前にぞ落ちにける。
さる間、梶原源太景季は悪七兵衛景清の首を取って、急ぎ源頼朝の御目に懸ける、源頼朝をはじめ八か国の諸大名、各々首を実験し給いけり。
その最中に秩父殿(畠山重忠)は、清水寺参りをし給いて首実検には立ち会っていなかったが、六波羅の南面を下向し給う処にここに一つの不思議有、かの悪七兵衛景清が牢に、又人の有りて申しけるは、あれを通らせ給うは秩父殿(畠山重忠)と見申したり、最後の時は万事頼み奉る。
秩父殿(畠山重忠)聞し召されて、それ弓取りと申すは今日は人の上、明日は我が身の上にて候えば御心安く思し召せ、最後の御時は必ず人を参らせんとて馬より下り挨拶し、そこからすぐに六波羅に参り、何故悪七兵衛景清をば長く牢獄させられ候ぞ。
源頼朝聞し召し、さては悪七兵衛景清という者何人も居るのか、一人を梶原源太景季が手に懸け六条河原にて切り殺し首は未だここに有り、それ見給えとの御諚なり
秩父殿(畠山重忠)謹んで承り、しばらく物を申さず、やや有って申しけるは、これは悪七兵衛景清の首にても候はず、又別人の首とも見えず候。
源頼朝聞し召し、不思議の事をの給うものかな、只今までは悪七兵衛景清の首とこそ思いしに、畠山重忠の言葉を聞いて少し不審にこそ候へ、よくよく見給えとの御諚なり。
秩父殿(畠山重忠)承って、いかでそれがしも詳しくは分りません、それ人間は水と見れば魚は家と見る、天人は瑠璃と御覧ずれば餓鬼は焔と見る、同じ対象が見る立場の違いによって異なって見えるなり、よくよく見奉ればそれは千手観音の首であり五種の智慧の働きを表す宝冠から金色の光を放っており。
源頼朝聞し召し、羨ましやな悪七兵衛景清は、如何なる善の根を仕り、かかる利益に預からんとの御諚なり、秩父殿(畠山重忠)承って、あら愚かなことをおっしゃる、たとえ善根を修する者でも現世の名誉と利益を第一に考える者は、知慧がなく経験を蓄える事をできない者にも劣るでありましょう。
たとえ無智無形の輩とは申すとも諸神諸仏を頼み申さん者は何の疑いの候べき、それ菩薩の三化の行と申すは三つに下ると見えたり、あるいは殺生、偸盗、邪見、放逸の輩にあい交わり給う時もあり。
あるいは乞食非人に相交りて施行を受け給う時もあり、あるいはかかる死縁に臨んでその苦に替わり給う也、地火水風空の五輪は物事を生ぜしめる可能力、大日如来の功徳が一切万有に行き渡る事、これ皆大日如来であると説かれ、仏道ならぬ事なし。
かの悪七兵衛景清と申すは、その身は、仏菩薩が衆生済度の為に景清の姿を取ってこの世に現れると申せども、激しい怒りを静め煩悩の迷いをなくし、清らかである事を強く願い求めて修行していたので、かたじけなくも観音は外界の様々な原因に影響され、異なった姿を現し影を機縁の水に浮かべ給えリ。
仏菩薩が衆生を哀れみいつくしむ心これ成り、八寒八熱地獄の底までも漏らし給わぬは、大悲利益とこそ聞け、これこれ御覧候へと、かたじけなくも御首をさし迎え申せば、鎌倉殿(源頼朝)を始め、その場に有りし人々感嘆肝に銘じつつ、悲涙袖を潤し皆礼拝を奉る。
16 頼朝、生仏景清と対面
源頼朝不思議に思ぼし召し、悪七兵衛景清の牢に使いを立て、さて景清は如何なる神仏を頼み申して候らん、悪七兵衛景清承って、それがし若年よりも遠き敵を射て落とし、近き敵を切って落とす、かかる武芸をこそたしなみて候へ、如何なる神仏をも頼み申さず候、さりながら常に清水を信仰申して候と御返事を申されければ、源頼朝聞し召されて東山清水寺へ御使い立つ。
誠に清水の有り様申すも中々おろかなり、蔀格子もみな開けて御帳をさっと押し上げて、御頭も無き御衣木(みそぎ)、蓮華の上に備わりて御身体より溢れ出る血はひとえに涙の如くなり、内陣にあふれ拝礼台長床まで浮かぶばかりに見え給う。
御使いこの由見奉り六波羅殿に参りつつ、有のままに申しければ、さては疑う所なしと諸寺の僧を千人請じ、一万回の供養護摩を焚き、御首を御衣木(みそぎ)に合せ申し、二度目の清水寺と、はやり給うぞ有難き(繁昌なさったのは尊い事である)。
源頼朝仰せけるは、かほど千手の不憫と思し召さる悪七兵衛景清に対面あるべしとの御諚にて、急ぎ御前に召され、ひとえに貴方を清水の観世音と拝み申すなり、貴方を討ち殺すならば千手の御首を二度討ち申したるに同じ、この上は助けるとの御諚なり。
悪七兵衛景清承り、あら有難の御助けや候、是と申すも景清が十六の春よりも三十七の今まで参りたる利生と思えば有難さは限りなし。
源頼朝の御諚には、平家の時の知行は如何程であったか、悪七兵衛景清承って二万町給わりて候。
頼朝の代にも二万町、合せて四万町割り当て与える、今より後は悪心をひるがえし頼朝に仕え候へとの御諚に、悪七兵衛景清承って、あらありがたや候、命を助けられた上に所領を添えて下さる主君がこの世に有るとは考えられない、さりながら立ち居につけ君を見るたびに、あれこそ主君の仇よあっぱれ一刀恨み申さでと、思う所存は露塵ほども失せ候まじ、それ恩を見て恩を知らざるは植木の鳥が我が住む枝を枯らすに異ならずと秩父殿(畠山重忠)の小刀を請い取って、我が両眼を刳りい出し薄板角盆に並べ源頼朝の御目に見せつける。
源頼朝お涙を流させ給い、されば唐土に鷹の様な鳥を三年飼って古人一つの虎を取る、我朝の武士の名誉を重んずる侍に、恩をよく与えれば主君の命に替わるとは、かようの事をや申すらん、如何に景清このまま都に有りたきか。
悪七兵衛景清承って、都に居たとて自分には何の意味もない、全く考えもしないと申すと、それなら尾張に妻子が有れば下りたきかとの御諚なり。
悪七兵衛景清承って、行くも夢止まるも夢、妻と来世までもと契ったとて一切が夢の如く、儚いものであるから下りて益も候わず、同じくは西国へ下してくださいと申せば、易き間の事なりとて日向宮崎の庄を賜わると御判を据えて下される。
17 観音の利生を受け宮崎下向
かくて悪七兵衛景清はこれを肌の守りに納めて御前を罷り立ち、日向宮崎に向かう途上、清水寺に立ち寄り三百三十三巻の観音経を読誦して、三千三百三十三回の礼拝を奉り、有難や観音菩薩が衆生を救うために三十三身に身を変じ、十九種の化身による説法を述べ、衆生の願いを満たして給うとは今こそ思い知られたり。
すると内陣より金色の光輝いて、悪七兵衛景清の頭を半時ばかり照し給えば、取って無かりし両眼がたちまち出来て元の如くに見えにけり、ここをもって案ずるに若我誓願大悲中、一人不成二世願、我堕虚妄罪過中、不還本覚捨大悲、仏は過去現在未来の三世にましませど、無数の仏達はおいでになるが中でも千手観音の誓いは最も尊い、されば、消滅するこの世の一切の現象は、夢の内に権果、さてまた修行によらない自然のままの三身(法身、応身、報身)は、覚の前の実仏、駅路の鈴の音が夜をこめて行く苦しい旅を思わせる、反魂香を焚くと死者の亡魂が戻り煙の中に面影を見る事が出来る。
そこからも、悪七兵衛景、清水を下向し筑紫に下りける、都を立って東寺四塚うち過ぎ、月はなけれど桂川、船に乗らねど久我(陸を掛ける)畷、山崎、関戸うち過ぎ兵庫にも着きしかば、御一門の住み給いし福原の京とはここなりけりと伏拝み、須磨、板戸、播磨に入りぬれば、その名ばかりは高砂神社の尾の上の松とうち過ぎ、君に頼みの掛河(掛けを掛け)の西方浄土は近きやらん、ここは阿弥陀が宿であり、備前に吉備津宮(一の宮)、備後に鞆、尾道。
それよりも悪七兵衛景清、日向宮崎の庄について里人を呼び出し、御判拝ませ三年と申すに一間四面に金を塗った堂を建て置き、新清水と額を打ち朝夕他念心なく念仏申し経を読み、千手の名号を唱えて八十三歳と申すに大往生を遂げにけり、かの景清が心中、貴賤上下おしなべ、感ぜぬ人はなかりけり。
《参考》
◎ 源平の争乱により、東大寺は、治承四年(1180)12月28日の平重衡による南都焼き討ちで大仏殿はもとより、寺内堂塔伽藍の大半が焼失した。
復興には後白河法皇や後鳥羽上皇、源頼朝をはじめ、多くの人々が力を合わせて取り組んだ。
俊乗坊重源が勧進帳を作り大仏の修理と大仏殿の再興を計ることに活躍。
元暦元年(1184)源頼朝は、大仏鋳造にあたって鍍金(メッキ料として)砂金千両を寄進。
元暦二年(1185)3月7日源頼朝は、重源に米一万石、絹千疋、を送り再建を助ける。
文治元年(1185)8月28日に大仏(銅造盧舎那仏坐像)開眼供養、大仏鋳造にあたったのは宋人陳和卿でした。
文治二年(1186)重源は、大仏殿造営のため周防国を東大寺造営料国として授けられるが、当時の周防の国(山口県)は、源平合戦の影響で疲弊し、労働力も不足していました。
頼朝は、材木を切りだす人夫、造営料米について、地頭に命令書などを出すなど重源に出来る限りの援助をした。
建久元年(1190)には大仏殿が完成。
正治元年(1199)6月東大寺南大門上棟、重源は南大門の復興の工事を始める。
建久6年(1195) 3月12日に落慶法要が盛大に営まれた、後鳥羽天皇は公卿等を連れて行幸する、源頼朝もこれに従う。
建仁3年(1203)には再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝の列席の元、東大寺総供養が行われ、鎌倉時代の東大寺大仏殿として見事に復興を果たします
◎ 天文23年(1554年)4月11日久世舞幸若太夫、照護寺下也、六十近者也、来。舞度之由内々望之間、頼資被、露之間、即於亭令舞之。頼若太郎、たかだち、景清上ロ、新曲、こしごえ以上五番也。座敷七人也。音曲面白相聞也。(略)…太夫二三百疋、同子悉皆脇ヲスル、百疋、座者六人中三百疋遣之(証如上人日記)。
本願寺第十世証如は、焼かれた山科本願寺の寺基を大坂石山本願寺に移し、一向一揆の宿敵越前朝倉孝景とも和談している