笛の巻(全文版)

【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 牛若、母の贈り物の笛を習う
 さる間、牛若殿、鞍馬の寺(の僧房の一つ)東光坊にて学問究め給ふ。筆をとっての筆法(筆の運び方習得)に、魚鱗・虎爪(こそう)、水露の点、孔子、老子の筆の跡、文書(書状を書く際の文体について説いた書物)の数を残さず習ひぞ究め給ひける。
 (「筆法之得伝」と号される手本に漢朝王羲の懸針、 垂露、 返鵲、 廻鸞、 魚鱗、 虎爪の6様図がある)
 常葉(ときわ御前、母)心に思し召す、それ、稚児(牛若)のもてあそび(手慰み)に何々と申すとも(あれこれ言われるが)、管弦に過ぎたる事は無し(楽器以上良いものはない)、その中にとっても笛は一(番)の名物(すぐれた物)なれば、良からん(良い品の)笛を(買い)求め鞍馬へ上せ牛若に取らせばやと思し召し。
 都間近き淀の津(京の外港として栄えた伏見)の弥陀次郎が許(もと)よりも笛を一管買い取って、鞍馬へ上せ給う。
 牛若斜め(感激)に思し召し、如月(二月)半ばのころよりも吹き始めさせ給いつつ、その年の神無月(十月)末葉の頃になりければ百二十調子の楽を吹きこそ究め給いゖれ。

2 笛の由来譚、弘法大師の入唐渡天
 牛若心に思し召す、それ、人の持つ(持主である以上)宝の威徳(この宝、笛に備わる、おごそかで犯しがたい徳)を聞かねば何ならず(知っていなければ何の意味もない)。
 この笛の威徳を聞かばやと思し召し、(元持主の)淀の津の弥陀次郎をぞ(鞍馬寺に)召されける。
 弥陀次郎承って、鞍馬寺東光坊に参り牛若殿のまします庭上に畏(かしこ)まる、牛若殿は御覧じて、「淀の津の弥陀次郎とは汝が事か」、「さん候」と申す、この笛は漢竹(中国渡来の竹)か本竹(梵竹、天竺渡来の竹)か聞かま欲しやと仰せけり。
 弥陀次郎承って、さん候、この笛(の由来)と申すは讃岐の国屏風の浦(香川多度津)にて(海岸に流れ着いた竹で)、宝亀五(775)年に生まれ給う弘法大師が(遣唐使に同道)入唐し、青竜寺にまします恵果和尚を師と頼み真言の秘密(大日経、金剛頂経を中心とした密教の継承)を究め給い。
 我入唐のついでに、(釈迦が法華経を説いた地として有名な)天竺(インド)霊鷲山(りょうじゅせん)におはします(釈迦の脇侍で獅子に乗る)大聖文殊を拝まばやと思し召し、しんしん(静々、静まりかえる)とある遠島(遠く離れた所)を分け越え(長い道のりを)給いける程に、衡州(中国湖南省こうしゅう)という国に(着き)、十の道(東懸、竜陽、香山、高陽、西洲、北海、南海、中山、江南、江北道に)分れて(お)り、その中に取っても江南といえる道こそ赤県の南なれ、この道に差し掛かり、大沢(広い湿地)の野辺行き過ぎて(南岳衡山の十六台の一つで南岳慧思大師の創建)般若台をぞ拝まれける。
 かの般若台と申すは、南岳大師(中国天台宗第二祖慧思)久しく行い給う御寺なり、今、日本に生まれ(変わり)ては厩戸(まやどの)皇子、聖徳太子とも申すなり。
 衆生済度(罪業深い人々を救って悟りの彼岸に渡す事)の慈悲深し南岳大師と伏し拝み、又五千里を行き過ぎて(智顗が天台教学確立後住んだ五泉山麓の寺)玉泉寺とて(言う)御寺有り、彼の寺と申すは南岳(慧思大師)一の弟子(で、中国天台第三祖で、法華玄義、摩訶止観を著し天台教学の体系を確立した)智顗(ちぎ)上人の御寺なり、かの天台に通い御法を説かせ給うなり。
 あなた(あちら)へも五千里こなた(こちら)へも五千里、一万里の道なるを夜日七日に行き通い御法を説き給う也。
 かるがゆえに、御釈(釈迦の経、論に対する注釈)にも、「荊(けい、荊州玉泉寺)揚(揚州天台山)往復途将万里(弟子章安が師智顗上人の東奔西走の修業と布教活動を評して書いた法華玄義の序の言葉)」と説き給う。
 かかる遠島を分け越し給いける程に唐天竺の境なる流沙河(砂漠地帯に流れる川)に着き給う。
 かの河の広き事は三百二十余町なリ、波半天にさかのぼり(波が中空まで舞い上がて)砂子(いさご)を洗い流せリ、流沙の河と書いては砂子流るる河と読む。
 (弘法大師が渡天を志して、やっと辿り着いたそうれいざん)葱領山の麓に一の橋渡る(渡してある)、(中国天台山にあるしゃっきょう)石橋とこれを言う、石橋と書いては石の橋と読む。
 謂(いわ)れに(その理由には)玻璃(はり)を連ねて柱とし、瑠璃(るり)を並べて高欄とす。
 橋桁、柱には瑪瑙(めのう)を造り付け、橋の上(その面)狭くして尺(30㎝)にも足らず(わずかで)、遠くして(はるかに)、(橋の気色を見渡せば)反れる事(姿)は虹をなせるが如くなり。
 見るに肝消え(ひやし)膝震い足すさまじく身の毛立ち、渡るべき様(渡る人も)更に無し、さりともこれを渡らずば白雲万里を隔てたりて、何としてかは参るべき、渡るにこそと思し召し命を捨てて渡らるる。
 法力(仏法の威力)なれば相違なく(確実に)はや(直ぐに)向かへにぞ着き給う(対岸に御着きになる)、
 水上さしてよじ登り、葱嶺(そうれい)の峰に上がりつつ、遥かの空を見給えば夕日程もなかりけり、手に取るばかり近くして霞は谷の底に有り、雷電雲を響かし風小雲を払って銀漠(銀河)はことにちちんだり(静かに輝いている)。

3 弘法と童子との法論
 ここに(文殊の化身である)はつせん童子、(現れ)行き会い給い、何処より何処方へ通る者ぞと問い給う。
 弘法(大師)聞し召されて、是は(私は)日域(じちいき、日本国)の弘法なるが天竺(インド)霊鷲山におわします大聖文殊を拝まんため、これまで参りて候(と答える)。
 (はつせん)童子聞し召し、これより霊山浄土(釈迦が法華経を説いた霊鷲山)へは白雲万里を隔たりて(いるのに)、何としてかは(どのようにして)参るべき(つもりか)、戻れ、との御諚なり。
 弘法(大師)聞し召されて、万里の道も一足の下より続く事なれば、心ながく(気長に)歩まばなど(歩けば何時)か参らで候べき。
 (はつせん)童子聞し召されて、愚かなリ、汝は芥子(けし)に例えたる粟散国(粟を散らした様な小国)の小僧が、唐土を越ゆるだに(だけで)も有難き事なるに、まして天竺歩み過ぎ、霊山浄土へ参らん事なかなか思いもよらぬ事なり、ただ(黙って)戻れとの御諚なり。
 弘法(大師)聞し召されて、国は小国なれども日域(日本)と名付けて日をかたどれる国なり。
 天竺その名高けれど月氏国(西域にあった国)と名付けて月をかたどる国なり、唐土広しと申せども、晨旦国(古代中国)と名付けて星をかたどる国なり、国は大小にはよるべからず、ただ智恵こそ(が優劣を決める基)本にてあるべけれ(べきだ)。
 (はつせん)童子聞し召し、面白し、弘法、知恵比べには参らん(比べしてみよう)、さて弘法は日本よりこれまで尋ね来れるは、愚痴の(愚かで道理をわきまえぬ)僧に非ずや、文殊も心の中にあり、霊鷲山(りょうじゅせん)も心にあり、胸の辺り(自分の心の中)に持ちながら(持っていながら)、遠島を尋ぬるは愚痴の(愚かで道理をわきまえない)僧に非ずや。
 弘法(大師)聞し召し、面白しあの童子、(仏)法には事理(相対差別の現象事と絶対平等の真理と)の二つあり、心の内の文殊は惣(一般的存在)の文殊これなり、霊鷲山の文殊は別(特殊存在)の文殊これなり。
 別と嫌えば惣もなし、惣と嫌えば別も(現象事と真理、惣と別は何れも対立するものでは)なし、事理惣別の不二なる(一つのものであるという真理にたつ者)を智者とは申し候ぞ。
  (はつせん)童子聞し召し、言葉の所顕無益なリ(言葉で明らかにするところは意味がない)。
 名誉を現じて(すごい働きを発揮して)奇徳を(不思議な現象を起こして見せよ)見せよ、用いん。
 (弘法大師が)奇徳は何を現わさん。
 (はつせん童子が)紙もなく筆もなく墨もなくして只今文字を一つ書いてたべ(下さい)。
 弘法(大師)聞し召し、書かんず事は(書く事は)易けれど、童子の奇徳(法力)を先ず見せよ。
 (はつせん童子が)いでいでさらば書かんとて、走る雲に向かって、(仏教で大日如来に唱える呪文の)阿毘羅吽欠(あびらうんけん)と(唱え)指を振る、嵐に雲は速けれども(書いた)梵字はちっとも乱れず鮮々(はっきりくっきり)とこそ見えにけれ。
 弘法(大師)御覧じて、殊勝(見事)なりあの童子、さらば書くと宣給い、流るる水の面に(指先で)龍といえる文字を書く、さしもに水は速けれど文字はちっとも乱れず帯を結べる如くに鮮々とこそ見えにけれ。
 (はつせん)童子御覧じて、あの字に点を打ってこそ龍とは読まれ候へ(龍の字の点が一つ足らないと指摘するので)
 弘法(大師)聞し召し、(点を)打たんずことは易けれども、龍と成らんがいぶせさに(成ってしまっては鬱陶しいので)、さてこそ点は略したれ(付けませんでしたと答える)。
 (はつせん童子が)何程の事の有るべきぞ、ただ打ち給え弘法(と言うので)。
 (弘法大師が)さらば打つと宣給いて(最後の)一つの点を打ち給い、未だその手も引かぬ間に雷鳴って雨降り大水出で来たり、水端(みずはな、流水の先端)を見給えば百尋(ひろ)の(もある)大龍が、頭を高く差上げ水に尾を叩いて、大木枯れ木の枝砕き、岩を流して下す音、地震の揺れるが如し。
 すはや(ああっ)見よ童子、逃げたまえとありしかば(言えば)、童子ちっとも騒がず虚空に上がり雲を踏んで、さらぬ体に(さりげない様子で)御立ちある。
 いたわしや弘法逃げ給え、とありしかば。
 弘法ちっとも騒がず(手で)盤石(大きい岩)の印を結んで河の面に投げ給う、二十余丈にそびえたる大盤石と成りしかば、その上に飛び上がり(煩悩を破る菩提心を現わす仏具の)独鈷を握り弘法(大師)しばらく念誦し給えり。

4 霊山の文殊の説法
 (はつせん)童子御覧じて、殊勝(見事)成りとよ弘法、我を誰とか思うらん、霊鷲山の文殊なり、いで本体を現わさん、(文殊の乗った獅子の綱を引く)優塡王(うてんおう)はなきか(居ないか)獅子出で来よ(獅子を連れて参れ)とありしかば、おつと答えて程もなく、金の宝冠を戴き赤衣に剣を佩き、獅子には螺鈿(らつでん、漆塗りに夜光貝等を埋め込む紋様の)の鞍を置き御前に引っ立つる、童子すなわち文殊なり。
 五色の光を放ちつつ獅子に召されたりければ所はやがて浄土となる、霊山浄土是成り。
 そもそも文殊と申すは、(薬師如来が住む)浄瑠璃浄土のその中に、八大(文殊師利、観世音、得大勢、無尽意、宝壇華、薬王、薬上、弥勒)菩薩の惣一なり(中でも第一のものである)。
 行者を迎え取りては極楽に送らるる、ある時は霊山浄土にて法華の瑞相(法華経序品で仏の現じた光明神変の相を文殊が大衆に説明する条)を説き、
 またある時は(釈迦が正覚を成就して華厳経を説いた)寂滅道場にして(おいて)三世諸法の実義を立て(過去現在未来の三世のあらゆる現象の真実相を示して)、獅子の上にしては又釈尊の左の脇に立ち給う。
 かかる有難き大聖文殊を、目の当たりに拝み給う弘法大師の御心さこそ嬉しく思すらん。
 文殊重ねて仰せけるは、末世の衆生の迷いには、有相無相(形ある存在と形を持たない存在の本性)これ多し。
 有相と言える心は万(よろづ)の物を有と見る、これは有相の迷いにて地獄へ落ちる初めなり、又無相と言える心は万の(全ての)物を無しと見る、これは無相の迷いにて地獄へ落ちる初めなり。
 一念(一刹那)不生(一度に種々の妄心が生じない境地)なるをこそ、文殊の知恵と申して即今の仏(即身の成仏)になるものぞ。
 (一念の迷いによって迷いの世界に生まれる衆生がこの妄念の起こらないようにすればそのまま仏に成ることが出来る)
 この道を守り、はや下向せよとの御諚なり。
 弘法(大師)よくよく聴聞ありて、あら殊勝(見事)や候、さらば御暇申すとて、それよりも戻り給う。
 (弘法大師は感激し帰途に付くが、途中、)葱領の山の麓に一つの滝落ちる、かの滝の双岸に三本の竹有、弘法剣を抜き持って末の節を三節込めて切り給い、契りの(縁が)あらば、日本にて巡り合へや(合おう)との給いて川にぞ流し給いける、それより元の橋渡り、はや大唐に着き給う。

5 弘法大師の帰国 
 唐土の寺の始め(中国最初の寺)は揚州(揚子江の北、蘇省)の白馬寺(後漢の明帝の永平十一年、迦葉摩騰、竺法蘭が仏像や経典を白馬に乗せて招来したという寺)ことさら尊(たつと)かりけり、帰朝の東風が吹きければ(運よく遣唐使高階遠成の帰国船に便乗が許可され)、明州(中国浙江省)に出給う、(帰国の)御船に召す(乗る)時に、持つところの(持っていた)仏具に五鈷、独鈷、三鈷の仏具を虚空(何もない大空)に投げさせ給いけり。
 紫雲下ってこれを捲(ま)き、遥かの海を分け越して、(三鈷は)紀之國の高野の峰(の松の枝)に留まり、三鈷の松と申す事この時よりの謂れなり。
 独鈷は花の都なる (真言密教の根本道場として嵯峨天皇から勅賜された)東寺の塔に留まれり。
 五鈷は越後の国の国上の寺(新潟の真言宗の寺)に留まれり。
 それよりも、(弘法)大師はのろ島ときさみの島遥かの西に御覧じて、堀川といえる港こそ、唐土の王の都より流れ出たる大河なれ、それより三日走り過ぎ、かしらなしという津こそ唐船の泊りなれ、きみしうと言える沖洲を過ぎ、高麗、唐土の境なる、もめい島を走り過ぎきょうの岬、はくたいしゆもころいのみせんもく島、きとの島、もろみの島。
 船こし過ぎて、槌よりも明くれば(陰陽道で四季の土用の中、庚午より七日間を大槌、戊寅より七日間を小槌といいこの槌日が明くれば)対馬の内院に着く。
 壱岐のもとおり走り過ぎ、壱岐の坂本目にかけて、あはや筑前の箱崎よ、(船は)博多の津こそ見ゆれとて各々勇む折節に(見えるところまで帰ってきた時)、悪風がにわかに吹き落ちて高麗の沖洲なる(にある)きとの島まで(船を)引き戻す(戻そうとするので)。
 (弘法)大師、(手で密教の)秘印を結び、我また帰朝する事、秘法のためにあらず、衆生済度のためなり、順風賜べや(下さい)龍王と、祈請を申させ給いければ。
 波の上に童子一人たたずみ、この波風と申すは高麗、唐土の神仏(が)大師に名残を惜しみ今一度唐土へ迎えんための風なれば、(海の神の)竜神の所為(しわざ)ならずとて掻き消すように失せにけり。
 弘法(大師)聞し召されて、その儀にて御座有らば(そうであるならば)、まず日本へ着けて賜べ(下さい)、我日本に着くならば唐土の寺を学び、(紀之國高野の峰に)金剛峰寺と額を打って、高麗唐土の神仏を勧請申し(移し迎え祭り申してみせます)あれにて御目に懸らんと祈誓を申させ給いければ。
 舵取りどもがこれを見て、あそこなる(にいる)法師は何を言うてささやくぞ、死なふず事が目に見えて独り言をするやとて(自分の死にめに独り言をするかやとて)笑う者もありにけり、誰も命は惜しいとて嘆く者もありにけり、(弘法)大師の祈誓誠にて追風(進む方に向け)ぞ吹きにけるとかや。
 過ぎにし桓武天皇の御時、(弘法大師)三十七にて入唐ましまして、さて又四十七にて、嵯峨の帝の御時に御帰朝とこそ聞こえけれ、されども人は、などやらん知らざりけるぞ不思議なる(どういうわけか大師の帰国を知らなかったのは不思議である)。

6 弘法の笛の徳
 (帰国した船は)筑紫の博多に上がり(着き)、(弘法大師は薄板に枠をつけた)縁笈を取りて肩に掛け(担いで)都へ上り給いしが、旧里(故郷)をしのぎ(山や川を乗り越え)有るにより讃岐の国屏風の浦に立ち寄り父母の御墓を伏し拝み、ある磯辺を通らるる(海岸に流れ着いた)寄竹一つ有り、怪しく思し召されて取り上げ御覧あれば天竺流沙河にて切り流したる竹で有る。
 希代不思議に思し召し、三節の竹を三つに刻み(分け)給いて、(背負)笈の足に結び付け都へ上り給いしが(持ち帰ると)、三節の竹が夜に入れば(夜な夜な基本音階)五音の声を出す、五音の声と申すは宮・商・角・微(ち)・羽(う)これなり、(よって)三管の笛に彫(え)り給う(三節の竹から三本の笛をお作くりになる)。
 (これを横笛の名物で)「大水竜(笛)」、「小水竜(笛)」、「青葉の笛」と申す。
 ((続教訓抄には、大水竜は、日本渡海の時竜神に取られたが黄金と引き換え取り返した物、又小水竜は、この笛も粗大水竜に似たりその音もっとも絶妙なリとある))
 青葉の笛と申すは、竹は潮に枯れたれど(枯れるけど)、青葉は節に一つあり枯れざる徳に名付けたり(枯れない徳によって青葉と名付けられた)。
 小水竜と申すは、朱雀院の鬼が取り(鬼に取られ、鬼が)夜な夜なこれを吹きしかば(吹けば)、天人(が)これを取らん(ろう)とて羽衣をもって撫でては天に上がり、撫でては天に上がる、かるがゆえに名付けて一重隠(ひとえかくし)と(も)これを言う。
 この(これら)三管の笛をば天下の重宝なりとて(名笛ともてはやされ)、内裏に籠め(置き)給いしを。
 狭衣(さごろも)の中将(狭衣物語の主人公が)吉野山にて花見の興(催し)の有りし時、この笛を申し受け、吹きて遊ばせ給いしに、(雅楽の曲名で仏世界の曲といわれる)万秋楽の曲を吹きしかば、天人これを聴聞し、五衰の苦(天人が死ぬ前に現れるとされる五種の衰相)を逃れて、菩薩と成って舞い遊ぶ(遊んだという)。
 ((平安中期の「狭衣物語」では、宮中の管絃の宴で、狭衣の中将が何かに取り憑かれたかの様に横笛を吹くと、その不思議で尋常でない音にひかれ紫の雲がたなびき、童子の姿をした天稚御子が、羽衣をまとい降臨しカゲロウ羽の透き通る羽衣を掛け中将を天に連れて行こうとするが、天皇様と東宮様が中将の手を離さない、神霊は笛の妙なる音色に堪えかねて天上界より迎えに来たが、帝が泣く泣くお止めになるので、今宵は連れて行く事が出来なく成ったと言った))
 その後にこの中将(は)淀の津に居住する。
 中将年を老いて後、弥陀次郎が祖父の弥陀太郎がこれを持つ。
 我々までは三代なり。
 吹く事は無けれども、この笛を持ぬれば災難さらに来たらず(に合うことはなく)、神仏の加護に預かる(り)重宝して候を、如何なる人か申しけん。
 上様(かみさま、貴人の妻、御母常葉御前)までも聞し召し、召し置かせ給へば(買い上げになったので)力に及び候わず若君、とこそ申しけれ。
 牛若聞し召し、面白し弥陀次郎、祝いに三度語れ(吉運招来を確実にするため縁起の良い三という吉数で語らせる)とて押し返し語らせ、なおも飽かずや思しけん。
 (この笛の威徳の物語を)草子に(書き)留め給いて「笛の巻」と申して鞍馬寺にありとかや。
 その後に弥陀次郎、(ご褒美に銀貨の)南鐐五つ給わり家路へとてぞ帰りける。

<参考>
 これとは別の天下の名笛としては、次の笛などがある。
◎ 幸若舞「敦盛」の中で、敦盛の首実検の時、義経御覧じあら不思議この笛見知る処候、一年前以仁王が源頼政と平家討滅の謀反企て発覚し、宮は三井寺から南都へ逃走途中討たれた時に天下の名笛「小枝」・「蝉折」二菅あり、蝉折は三井寺菩薩に捧げられ、小枝は京水無瀬光明山寺で討たれた時に平家の手に渡り敦盛に下されたと聞く、今朝、一ノ谷の内裏役所で笛の遠音の聞こえしは、敦盛が吹きしかと義経涙を流させ給へば皆涙をぞ流しけるというのもある。
 また、「捨芥抄・楽器部」には小枝・蝉折とあり、高倉宮が所有していた笛で、「平家九・敦盛最期」にはこの「小枝」は鳥羽院から平忠盛が拝領し経盛が相伝し敦盛に渡ったとされる。

◎ また、鎌倉中期の説話集十訓抄には、博雅の三位が月夜の朱雀門前を散歩し笛を吹く男と出会う、この世のものとは思えない笛の音に月夜のたびに互に笛を交換し一緒に吹いたが返さずそのまま博雅の三位が亡くなった、後に帝はこの笛を手に入れ笛の達者な浄蔵を呼び月夜の晩に朱雀門で吹かすと楼上から大声で、その笛は優れ物だと褒める声が聞こえたので帝に報告すると、これは鬼の笛だとお知りになられた、この笛は「葉二」と名付けられ天下第一の笛となったとある。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367