烏帽子折(全文版)

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1 牛若烏帽子折を尋ねる
 そもそも安元元年三月中旬に、源の牛若殿、鞍馬の寺を御出であり。
 今日喜びに近江(喜びに、あう身を掛ける)なる野路の宿にて、(三条に住む)奥州の金商人吉次信高に行き合せ給う、その日の泊りは鏡の宿(滋賀県竜王町の宿駅)、吉次の宿は菊屋と聞こうる。
 鏡の宿の遊君、歓迎の酒肴を用意し吉次殿をもてなす、さる間、吉次羽振りをきかせた態度で、宴会で上座から下座へと、大盃を回し飲みければ、その後は酒盛りになる。
 あらいたわしや、一方で、牛若殿は人目を避けて、門扉の脇のくぐり戸に、すごすごとただ一人たたず
み給う。
 かかりれる所に、平家の侍大将、監物太郎頼方、悪七兵衛景清、飛騨の三郎左衛門(藤原景経)たちが早馬に乗って番場(米原)の宿よりも触れ回って通りけるは、この路地を十六七の子供の通らせ給う事の有らば、都へ連れて上洛した者には、身分の上下を問わず褒美を出そうと触れて、その日に都へ通りける。
 牛若殿聞し召し、その儀にて有るならば何しに鞍馬を出でけるぞ、それ仏道の八正道(理想の境地に到達するための八つの道)広しと言えども、元服もしていないこの牛若の身を置く場所がないのが何とも情けない、さりながら、今平家の侍たちは稚児を探せと言っていたではないか、それならば成人男子となって逃れ下ろうと思し召し。
 下女を近付け、この辺に烏帽子を作る職人は候かと問えば、下女承りて、今日都より下せら給う人が、これにて烏帽子をお尋ね候か、さりながら烏帽子の御所望にて候はば、あの向かいに見えたる竹を組んで柵とした家こそ五郎太夫と申して烏帽子の上手にて候へ。
 牛若とても嬉しくお思し召し、柵の内に尋ね入り案内申そうと言えば、内より誰ぞと答えるので、いや怪しいものではございません、吉次信高の友をして下る冠者(若者)にて候が、烏帽子の所望にて是まで参りて候。
 その時烏帽子折の太夫、牛若殿を招き入れて、冠者(若者)殿のお好みはどういった烏帽子か、烏帽子に付ける皺は多いやつか少ないやつか、最新型の工夫のものか、普通のものか如何様なるをご希望か、すぐに折って参らせよう。
 牛若殿聞し召し、はたと困ってしまい、烏帽子などはただ黒いだけのものと思っていたので、色々な種類があると聞いてもどれを頼んでいいのかわからない、そういえば思い出したが、我らが先祖代々の烏帽子は左折りだと聞いていた、先祖に遠く及ばない牛若も左折りを付けることにしようと思し召し、のう、大夫殿、この冠者の所望は、でこぼこした皺の突出が大きく荒いものを一折り曲げて、額の部分にゆとりを残し、正面まねきの下の櫛形は大層厳めしく一ためためて形を付け、左折りの烏帽子にて下され。
 その時、烏帽子折の太夫は急に不機嫌になり、さればあの様なる下郎に好みを聞けば、何という身の程知らずの冠者よ、畏れ多くも左折りの烏帽子を付けることのできるのは、先年尾張の国野間の内海にて亡くなられた佐馬の頭(長官)源義朝のご子息たち。
 嫡子悪源太義平、二男朝長、三男頼朝、四郎は阿野の御曹司(幼名今若)、五郎は遠江の蒲(かば)の御曹司範頼、六は醍醐寺の卿の君(幼名乙若)、七は園城寺の悪禅師(全成)の君、八男にあたらせ給う(当時)鞍馬寺に御座有る牛若殿こそ召すことが限られているというのに、お前殿のような吉次の友する冠者(若者)が左折を着る事思いもよらぬ所望かな。
 牛若は内心おかしく思うのですが、仰せの通りではございますが、奥州下向の関所で左折りを付けていると人に見とがめられたら、都の宿に古き烏帽子ありつるを所望して着て候が、左折りも右折りもこの冠者は知らぬなり、このような厄介な烏帽子をこの関所に預けて申すと言うてうち捨てて通るならば、大夫殿が非難されることも有るまじき、私の咎も逃るべし。
 大夫は聞いて、あら面白の言葉遣いや、さだめし何か訳があるのじゃろうと思い、仰せの通りにしましょうと言うて、やがて折りすまして参らする。
 牛若は出来上がった烏帽子を見て、良い烏帽子でござるが、ただ一つ問題がございまする、太夫聞いて、烏帽子の地紙に難がございますか、皺の癖、雛形、櫛形、緒の小結い所どこに問題があると仰せじゃ。
 牛若殿聞し召し、何処にも難は候わず、烏帽子は我が所望の通り折らせ参らせて、問題はありませんが、この烏帽子の代金を持ち合わせていないことが問題でござる。
 太夫聞いて、あら大げさなことをおっしゃる冠者(若者)かな、あの吉次殿は一年に一度、二年に二度上洛されるので、そのお供の冠者殿なれば、お気になさいますな、奥州旅立ちの餞別として差し上げましょう。
 牛若は聞し召し、内心、何とえらそうな言い方よ、この牛若が出世したら源氏の家の恥にもなりかねない言葉なので、代金として太刀を置いていこうと考えたが、それは千五百里の道の用心も欠けるが、刀を取らせて行かばやと思し召し。
 古くからの源氏伝来の宝である腰刀、取りい出し給いて、のう、太夫殿、今はこの刀を置いていくが、これを烏帽子の代金とは思し召すな、来年の夏の頃、奥州から良い馬を連れて参りましょう暇申して太夫とて、牛若宿へ帰らせ給う。

2 烏帽子折の女房のはなむけ
 その後、烏帽子折の太夫は女房を呼び出し、長年烏帽子を折って生きながらえてきたが、神仏が哀れみたもうたのであろう、このような刀を賜った、見よ、全て金で出来ているぞ。都で売れば一生楽ができる事の嬉しさぞ。
 ところが女房聞いて、黙って太夫が持ちたる刀を一目見て、やがて、さめざめと泣き出しました、烏帽子折の太夫は、夫が宝を手に入れたというのに、女房が泣くとは何事じゃと腹を立てた。
 女房聞いて、今となっては隠し立てはいたしますまい、先ほどあなたが烏帽子を誂えて差し上げた冠者殿は、私の祖父以来三代に渡って恩を受けてきている主君にて御座候いける、それを如何にと申すに、その刀は、源氏代々の宝の刀、実は私は先年尾張の国野間の内海で亡くなられ給いし源義朝の身内、主君源義朝と共に長田忠致に殺害された鎌田兵衛正清の妹なのでございます。
 源義朝殿が亡くなって身の置き所がなくなり、あなた様と夫婦となり、今年ですでに九年が過ぎています、この九年の情けに私にその刀を下さいまし。
 我が君(牛若殿)の奥州へ遥々御下りましますに、餞別として若君に差し上げとうございます、烏帽子折の太夫これを聞いて、言うまでもない事、共に長く連れ添っての中なれば、どうして格別惜しむことがあるだろうかと共に涙を流し、女房に刀を与えました。
 女房はたいそう喜んで、祝い酒の瓶子一具に蝶花型の紙を瓶口に飾り付けて、烏帽子の紐と餞別にお渡しする刀を持って、吉次の宿を訪ね、案内申そうと声かける、内より誰ぞと答える。
 先ほど烏帽子を誂えられた冠者殿にお話がありますと言って中へ入ると、牛若と対面します。
 のう若君(牛若)殿、私をば如何なる人と思し召すぞ、私は先年故君源義朝殿のお供をして野間の内海で亡くなった鎌田兵衛正清の妹にございます。
 男子の身であったなら御最後の御伴切腹申すべきが、たとえ女のみであろうとも、どのような淵瀬にも身を沈めるのが殉死というものでございますが、面目なくも生きながらえて、烏帽子折の妻になって今年は九年になり候う。
 その九年の情けに夫からこの刀を賜り、奥州へと遥々御下りましますを、一目拝み申さんと是まで参りて候ぞや、その烏帽子をお貸し下さい、紐をつけて差し上げましょうと女房は橋杭に横渡した板のように横に長く空中に張り出して結びあげ。
 なんと立派なこと、この烏帽子を召されて奥州へ下らせ給い、藤原秀衡と佐藤継信、佐藤忠信兄弟の父である佐藤元治に御頼み有りて、数万の軍勢を率いて平家の人々を御心のままに滅ぼし、再び源氏の御代をお築きあそばせ給え、暇申して若君と言うと、女房は宿へ帰って行きました。

3 牛若の元服
 牛若殿は聞し召し、源氏の門出にあたって家来に巡り会うとは目出度い事だ、それにしても烏帽子を付けて元服するには、二人の烏帽子親が必要と聞くが、さて牛若は誰を烏帽子親にしようか。
 そうじゃ、我らが先祖の源義家は、七歳にて石清水八幡宮へ御参り有て元服召され、八幡太郎義家と名乗らせ給う。
二男にあたり給う源義綱は賀茂別雷神社にて元服召され、賀茂次郎と名乗り給う、三男にあたり給う源義光は大津の新羅明神を親とされ、新羅三郎殿と名乗らせ給うと承る。
 牛若もそれに倣って、氏神である八幡と、長年住み慣れた鞍馬寺の本尊大悲多聞(毘沙門天)を烏帽子親としようと、太刀を多聞天の剱、刀を八幡に見立て宿の柱に立てかけ。
 元服時の元結の結び方である髪を後ろで束ね三か所三巻にした九つの元結自ら召され、髪の毛を切り、烏帽子を付け、瓶子の酒を自ら移し、太刀の前にも三三九度、刀の前にも三三九度手向け、その後我が身も御召し上がり、さもあれ今夜の客人が名をば何と申す、仮名は源九郎、実名は義経と申すなりと独り言を給いて作法通りに元服の祝を遂げさせ給う
 あらいたわしや、世が世なら、天下の侍たちが駆けつけてくるはずの元服を、たった一人でなさるとは、めでたいとはいえ、何とおいたわしいことでしょう。
 夜が明けて、牛若殿は烏帽子を付けて吉次の前にかしこまりました、吉次はこれを見て驚き、冠者殿は烏帽子を付けておられるが、元服の烏帽子親二人には誰を頼んだのじゃ。
 牛若殿聞し召し、人々が烏帽子を付けているのがあまりうらやましいので付けたまでです、おっしゃる通りまだ名前をいただいておりません、今は吉次殿を天とも地とも、父とも母とも頼りにしております、いかようにも名前をつけて召し使って下さい。
 吉次聞いて、おう、この上は力及ばず、今日からは京藤太と呼ぼう、ただし、お前のように品の良い若者を歩かせて街道を連れて歩くのは問題がある、今日からは吉次の太刀を担いで奥州へ下向されよ、それが嫌ならこれより都に帰られよ。
 牛若殿は聞し召し、世は末世に及ぶと言えど月日は未だ地に落ちず、貴い生まれの者は落ちぶれても卑俗な事に関わる事は出来ない、どうして源氏の嫡流の者が、賤しい渡世の商人吉次の盗賊防止の太刀を持つことが出来ようか。
 だが、何と浅はかな心であるよ、吉次の太刀を持つのではなく、亡き父源義朝の御佩刀を担ぐと思って持つのだと思し召し、源氏に伝わる名刀髭切の御佩刀を緒に結んで右肩から左脇下に懸けて斜めに背負うつもりで、吉次の太刀を担いで奥州へ下らせ給いけり。
 涙の雨は玉蔓(たまかずら)昔はかけて見じものを(嘆きの涙は源氏隆盛の昔には決して見るはずのないものであったのに)。

4 青葉の宿で牛若笛を吹く
 吉次、ようよう下る程に美濃の国に聞こえたる東海道の宿駅、青墓の長者の宿所に着く、かの長者の接客用座敷には武門の名家の人々でさえなかなか泊まらないのに、吉次が泊まる謂れは、源義朝の御為に一間四面に阿弥陀堂を建てらりし時、金五十両、馬十匹献上した情けの深き者なればとて、都への下り上りにはお泊りになり候。
 青墓の遊君が吉次をもてなす、吉次は得意げに新参者の京藤太(牛若殿)は居ないか、こちらに来て遊君たちにお酌をするようにと命じる、あらいたわしや牛若殿、お酌などしたことがない牛若は、お酒をこぼしてしう。
 吉次きっと見て、大きな目を怒らせて、愚か者が人の御前のお酌をそのようにこぼしてどうするか、けしからん出て行けと叱る、
 あらいたわしや、牛若殿、恥じ入って赤面し、申し訳ありません、我れ西国方にて諸山寺の僧侶の出仕の御伴を申し、仏前の供え物の樒(しきみ)、つつじ、閼伽(あか)の水それらの奉公こそ申し習っていたものの、武士の御前のお酌はこれが初めにて候、どのようにすればよいのか教えて候へ。
 吉次聞いて、そのような事は内々で申すものだ、ここは招待された席だぞ出て行けと叱る、あらいたわしや牛若殿しほしほとして座敷を立たせ給う。
 ここに浜千鳥の局という一人の遊君が、遊君の長の所へ参りて申されけるは、主人も吹けぬ笛を新参者の京藤太と申す者が、いかにも笛を吹けるように腰にさして候ぞや。
 遊君の長聞し召し、おまえは東海道の不名誉を申す者かな、一芸に秀でる事は身分や貧富とは無関係である、泥の中の蓮、人の真価や才能を知るのは難しい事だ、いかに吉治が連れている京藤太と申すとも、笛が吹けばこそ腰に差しているのだ、管弦の最初の曲を所望せよ。
 遊君浜千鳥の局承って牛若殿の御側近くへ参り、遊君の長よりのご所望です、お腰の笛を一曲お聞かせ下さいましとお願いした。
 牛若殿は聞し召し、何この冠者(若者)に笛を吹けと候や、大和竹に穴を開けただけの(木こり草刈り牧童の手慰み)草刈笛にて候を東の旅の退屈さに持ち歩いてはいるものの吹く事は中々思い寄らず候。
 吉次聞いて、やあ何と申すぞ遊君の長の御所望は汝の為には生涯の思い出になるぞ、たとえ木こり笛にてもあれ又草刈笛にてもよいから一吹き申さんぞ。
 牛若可笑しく思し召し、是は一先ずお礼まで、さらば一手吹いて思い出に聞かせばやと思し召し、母常葉が淀の津の弥陀次郎の元より買い取らせ給いたる、弘法大師の蝉折れなれば、その美しさといったら喩えようもありません。
 この笛を取出し横笛の七つの指穴の指遣い干五上夕中六下口とて、吹き口の穴を含めて八つの歌口(穴)に一吹き湿らせ、時にあった調子で雲の彼方に響くように、さっと吹き鳴らし万事を静めて遊ばしたり。
 遊君の長この由を聞し召し、面白の笛の音や、唐橋の中将殿は日本一の笛吹き、富士一見のそのために奥州へ御下りましませしが、この宿に御着き有り、夜どおし笛を遊ばせし、音の強弱と息の継ぎ方、拍子の緩急の程あい、笛の音の切れ目が澄み切っている所は、唐橋殿の笛には際だって優れていると覚えたり、これ程の笛にて定めて雅楽の楽曲も吹くらん、楽曲一手遊ばせ。
 源(牛若殿)聞し召し、ともかく調子を吹いた以上は雅楽も吹いてみようと、十二律の第一音壱越を主音とする調べに音を変え、しゆつこん楽を遊ばし、やがて繰り返し雅楽舞の一つ廻盃楽を遊ばす。
 遊君の長この由を聞し召し、面白の笛の音や、あら面白の雅楽の名や廻盃楽という楽、盃を廻らす楽しみ酒の飲めない人も飲める人も酒を飲めとの笛の音や、出来る事なら明日だけでも吉次殿が留まれかし、京藤太に笛を吹かせ管弦して遊ばん。
 遊君の長は聞し召し、あら面白の笛候や自ら一つ給わって、只今の笛の殿(牛若殿)に相手してもらい酒を継ごう。
 吉次聞いて、いかに兄弟内の者近う参りてものを聞け、それがしが都にて申せし事はこれぞとよ、笛は吹かずと腰に差せ、舞は舞わずとも常に扇を持てと申せし事はこれなり、京藤太が笛を吹かずば、上様の御盃をば何として給わろうぞ、それ一つ給わってこの世の名声、後の世では閻魔王への申し立てにせよ、あら羨ましの京藤太と、盃を羨ましは理(ことわり)ぞと聞こえけれ。
 その後牛若殿三度聞し召す、牛若殿の盃を此方彼方へ廻し夜も更けければ、遊君浜千鳥の局は盃を治めて皆遊女部屋に帰られる。

5 草刈笛の由来譚
 ここに浜千鳥の局が女性たちを近付けて、如何に御前たち聞き給え、先に笛吹きたる京藤太とやらは立派で容貌に気品が有り笛も上手、ただしと申すに、おかしき事を申しつるものかな。
 世に有名な笛の名に、漢竹、胡竹、よう竹、青葉、葉二、天人の一重隠し、弘法大師の蝉折れ、我が朝の笛は宇治大和島竹、海岸に流れ寄った寄竹などとこそ申せ。
 未だ聞いたこともない草刈笛とは、おう、昔の人は思慮分別が不十分で笛で草を刈りたればこそ草刈笛と申したのにはおかしな名前よ等と申してそれぞれにこそ笑いける。
 その時、遊君の長は物越しにて聞し召し、あきれたこと、お前達はその草刈笛のいわれを知っていて笑うのか、知らないのに笑うのか、博識でも知らない事があるはずだと言う譬えもあるぞ、よしよし草刈笛の由来を語って聞かん。

6 用明天皇の后求め
 昔、我が朝に、用明天皇と申すは、十六になるまでお后の宮もましまさず、ある時、公卿や殿上人たちが、六十六本の扇に美しい女人の絵をかかせ、それを国々に遣わして、どのような身分であってもよいから、この絵の女人に似ている者がいれば、急ぎ内裏へ参らせよ、帝の皇后として祝うべしと御触れられける、日本広と言えどもこの扇に似たる女房は一人も無く扇は皆都へと返された。
 かかりける所に筑紫豊後の国、内山と申す所に、長者一人有、四方に四万の蔵を建てて住めば、しまん長者と申せしを人の申しやすきままに真野殿と申しけれ、初老四十歳の陰気に入るまで、子供に恵まれなかったのを悲しみ、内山の観世音菩薩に参り子宝を祈り給いけれ、あら有難や祈誓のしるし早あって、観音様より玉を給わる夢を見ると、北の方御覧ずれば御着帯の身と成り、七月の煩い、九月の苦しみ、十月半と申すに無事に出産した。
 取り上げ御覧有ければ、玉のように美しい姫君にておわします、夢のお告げになぞらえて玉よの姫と名付けて大切に育て奉る。
 その姫が十四歳の春の頃、都より例の絵扇の下りけるを引き合わせ見給えば、扇の絵が妬むほど姫君の美しさに、すぐにその旨を内裏に報告されたり、帝叡覧ましまして、急ぎ内裏へ参らせよ、一の后に祝うべしと直ぐに勅使が立った。

7 姫の入内を断る長者に難題
 長者承って、例え朝廷の命令であっても、只一人の姫なれば思いもよらぬ事なりと宣旨に背き申されたり。
 帝叡覧ましまして、その儀ならば、真野殿、芥子(けし)の種を一万石、今日中に内裏に献上せよ、それができないなら姫を差し出せと、重ねて宣旨を下しました。
 長者承って、たとえ如何なる者であっても日数を掛ければ集められようが、何として芥子の種を一日の内に一万石求べきぞ、ただ姫を内裏に参らせよ。
 長者の女房これを聞き、のう真野殿ご心配なさいますな、御身十八、自ら十四の秋よりも長者号蒙むって四方に四万の蔵を建て我が一族全てに不足する事などないが、こんなこともあろうかと、東南の蔵に芥子の種を集め置きたるが、一万石どころか十万石はありましょう。
 長者は大層喜んで、さらば車を飾れとて車の数を飾ってその日のうちに一万石内裏へ供え奉る。
 帝叡覧ましまして、結局ただ真野殿は三国一の長者であった、その儀なれば真野殿、中国蜀江の錦をもって両界曼陀羅を幅二十尋(ひろ)本数七流れ織り付けて参らせよ、それが叶わぬものなれば姫を内裏へ参らすべしと重ね重ねの勅使立つ。
 長者承りて、是は如何に中国蜀江の錦をもって両界曼陀羅とやらんは、仏達の浄土にて蓮の糸を持って織らせ給うと承る、その上我等は凡夫の身として何としてかは求べきぞや、女房殿ただ姫を内裏へ参らすべし。
 長者の女房これを聞き、只一人の娘なるを内裏へ供え参らせて、天皇の御殿の内に住居をせば、我が子とは思うとも見るのも難しかるべし、今夜は姫との名残を惜しんで管弦とて、暁は少しまどろみ給う。
 かかりける所に、内山の聖観音が曉の夢に長者夫婦の枕上に立ち寄らせ給いて、いかに長者聞くか、汝の娘は私が与えた申し子である、手放させるのも不憫なれば、諸々の仏たちを請じ申して、汝の邸で曼陀羅を織るぞよ、耳を澄ませて聞くがよい。
 長者夫婦はお告げを聞いて、七夕の織姫星、彦星の牽牛星の仏たちが曼陀羅を織る音を聞いていると、ていほろろ、これはまるで御法のようなり、そうこうするうち両界曼陀羅が二十尋七流れ織りつけて出来上がり長者殿の中の客間に置き給う、長者大層喜んで急ぎ内裏へ参らせけり。

8 帝、長者の舎人になる
 帝叡覧ましまして、結局ただ真野殿は仏にてましますや、仏の娘を請いかねて天子の位を滑るとも何かは苦しかるべき(仏教では前世で十悪を犯さなかった者だけが帝王になる)。
 帝の位も惜しくはない御滑りましまして、十六の春の頃、迷い探り行くままに十八日と申すには、豊後の国に聞こえたる早、内山に着き給う。
 さる間、帝はとある小さな家に立ち寄って、一夜の宿を借り給う、宿の主人は帝を見参らせ、あらなんと美しい若者よ、御身はどこからおいでじゃ。
 慣れない旅、浮(憂きを掛ける)雲の泊り定めぬ行方も定めぬの修行者にて候と答えると、いやいや、つつみかくしなさいますなと言うので、実は都の者にて候。
 花の都の人が何ゆえこのような遠い国まで来られたのじゃと言うので、どこかに奉公の望みにて候と答える。
 その時太夫は思い当たって手を叩き、つまらない冠者殿の奉公好みや、この太夫こそ長者殿の執事である。
 この年まで子を持たず今日からは太夫の子になり給え、田地を耕作するも廻船で物資の売買をすることもそれは貴方次第です。
 帝叡覧ましまして、御覧ぜられ候の如く、楊柳の風に吹かれる如く頼りなく田畑を耕作せん事も、又廻船とやらんも中々思いもよらず候、普通の奉公ならば望みにて候。
 太夫聞いて、この上は力及ばず、それでは長者殿に申し上げ申さんと、宿の主は長者殿に参り早速長者にこの由を申し上げる。
 長者聞し召されて急いで連れて参れとて、帝を連れて参る、長者御覧あって、なんと美しい若者よ、御身はどこの人ぞと問う、都からにございますと答えれば、名は何というぞと問うので、山路(さんろ)と申し候と答えると、初めて聞く名で面白い名だ、のう山路殿、わしは千頭の牛を持っているが、九百九十九匹には舎人が添うて飼い候が、あれなるあめ色の牛をば、舎人達がもてあましておるなり、今日からは山路殿に預けるゆえ、草や水を与えてやって候へ。
 なんと御いたわしいこと、帝は姫への恋する心ゆえに了承し給いて、朝には牛を引いて野へでかけ、千人の舎人とうち連れ後ろの野辺へ出でさせ給う。
 千人の舎人どもは刈りなれたる事なれば、手に手に鎌を引っ下げ、掻き寄せ掻き寄せ草を刈る。
 いたわしや帝は、草など刈ったことがなく牛に寄りかかって笛を吹いてまします、馬は馬頭観音、牛は大日如来の化身と承るが畜生とはいえ、人間は知り申さねど、心あるものなのでしょうか、草をも食わず角を傾け舌を垂れ、帝の笛を一心に聴聞する。

9 舎人山路の草刈笛
 千人の舎人達この由聞くよりも、山路殿が吹く物は何というものか、横笛と申し候。
面白いぞや山路殿、草を刈らなくてもよい、草刈りは我らにお任せあって笛を吹け、汝の牛には草を刈って与えようぞ、吹けよ吹けよという程に、帝は一度も草を刈り給わず。
 山路の草刈りは夜に舎人達に笛を聞かせることだ、夜の笛、若布刈るは田子の浦、若草刈るは武蔵野よ、若布若草は和歌の浦、用明天皇の恋ゆえ遊ばす笛こそ草刈笛と申すなり、これは筑紫の物語。

10 帝探しの占
 さても、都では帝が行方不明奉り公卿殿上人が集まって、陰陽道博士を呼んで占わせると、来る八月十五日に宇佐八幡の御前にて御放生会を行わせ給へ。
 それはさて誰に執り行わせるべきかと問えば、陰陽博士からは、筑紫豊後の国の内山と申す所に長者一人有り、彼の者に御神事を勤めさするものならば、帝は都に御帰り有りて天下は目出度かるべき由、占方の証拠文を引いて申す。
 急ぎ筑紫に使者が遣わされ、長者の家の前に祭礼を行う当番であることを示す榊が立てられる、ちょうど長者出会い給いて、是は何と申す子細ぞやと問うと、来る八月十五日に宇佐八幡の御前にて御放生会と申す事を執り行わせ給えと答える。
 それはどのようなものでしょうと問うと、さん候、神楽を勤める職掌、流鏑馬の検断役の国掌、神官、宮人、八人の神楽を舞う巫女八乙女、笛太鼓、大鼓小鼓等神楽を奏する五人の神楽男参り、ていとうと鼓を打たせ、さつさつと鈴を振り上げ、騎者腕比べの競馬、白装束で渡御する童子の上馬、複数巫女の騎馬行列の神子のむら、獅子舞、田植え神事の田楽の後、流鏑馬を行うのじゃ。
 長者聞し召されて、これは一大事とばかりに、近隣をたずねまわり、神事の用意を揃えましたが、流鏑馬というものだけは揃いません。
 その時千人の舎人たちを集めて、お前達の中に、流鏑馬というものを知っている者はおらぬかと尋ねます。
 ご主人様がご存じないものを、どうして私達舎人ごときが知っておりましょうや、その上我等は牛にこそ乗り馴れたるが流鏑馬とやらは思いもよらず候。
 長者聞し召されて、それもそうじゃ、しかしあの山路は都の者と聞く、もし流鏑馬というものを知っているのではないか、御神事を勤めさすものならば、たとえどんな身分の者なりとも、この長者の婿に取らせるぞ。

11 山路、流鏑馬の射手となる
 その時、帝にっこりと笑って答えます、流鏑馬とやらんは何よりも容易い事にて候、宮中には十町に馬場を設営して、馬場元一町、馬場末一長と名付けて八所に的を立て遊ばすをば、八所立射的と名付けて、是は公卿殿十人の業、神前では三町の馬場を設けて、三つ的を立てて遊ばすをば流鏑馬と申して、それは武士の仕業にて何より容易い事にて候。
 長者聞し召されて、さては汝はよく心得つる者かな、この流鏑馬を知って御神事を立派に勤めれば、宇佐八幡も御知見あれ、ぜひ長者の婿に取って、四方に四万の蔵を建て数多の宝を添えて得させそうずと長者は固く約束し給いけり。
 さる間、八月十五日にもなりしかば、宇佐八幡の御前にて、近国隣郷の大名小名桟敷を打ち、馬場に添って柵を設け各々見物し給う。
 長者夫婦も同じく桟敷を構えて見物す、さる間、神楽を勤める職掌、流鏑馬の検断役の国掌、神官、宮人、八人の神楽を舞う巫女八乙女、笛太鼓大鼓小鼓等神楽を奏する五人の神楽男参り、ていとうと鼓を打たせ、さつさつと鈴を振り上げ、騎者腕比べの競馬、白装束で渡御する童子の上馬、複数巫女の騎馬行列の神子のむら、獅子舞、田植え神事の田楽の後、流鏑馬になる。

12 八幡神の化現
 さる間、帝は美しい装束をつけて、鹿毛の馬に貝鞍置いて引っ立て御門に奉る、帝緊張し引き寄らせゆらりと飛び乗りて、馬場を一度走り、そして再び馬場の入り口に戻ると、今度は走りながら的をねらい、一の的的中、二の的はたと当たって打ち抜き、最後の三の的に向かって体を開いて矢を射とうとした時に。
 神殿がにわかに震動し、白い水干に立烏帽子をつけ、金の杓を持った、かたじけなくも八幡神が揺るぎ出でさせ給いて、白州に畏まり、帝に申し上げます、これはいったい如何なる御事候ぞ。
 天下の帝がおん自ら神事をおつとめになるとは、これでは我々の苦しみが増すばかり。
 王は十善の果報で王と成り九善の果報で神となる神事を、十膳の御身として勤めさせ給えば、いよいよ天人の死相に現れる五種の異相なり候、今はもう都へ帝御帰りあれ、お帰り有らぬものならば末世に生きる人々を罰するであろうぞ。
 人多きその中に長者夫婦は桟敷より、転げ落ちさせ給いて、何とした御事ぞ、十善の御身帝を三年も召し使い申した事ども残念で悔やまれると申して、涙を流し焦がれたりければ。
 帝叡覧ましまして、よしよし苦しゅうない、汝の娘を恋するがゆえに、三年の間奉公したのじゃ、今は姫を参らせよと申してかたじけなくも宇佐八幡の仲人にて結ばれて、玉よの姫は十六、用明天皇は十八と申すに二人連れだって皇居に帰られる。
 内裏の台の内に住まいし、おしどりや比翼の鳥のように夫婦仲睦まじくこそ聞こえけれ、その後御子を儲けさせ給いて、聖徳太子と申して、我が朝に仏法を広めさせ給う也、玉よの姫は聖観音、用明天皇は阿弥陀如来、聖徳太子は求世観音の化身なり。
 この用明天皇が恋のために吹いた笛こそ草刈笛と申すなれ、お前たち、よく知らないことを笑うのではないぞとよ。

13 牛若素姓を明かす
 その後、遊君の長者は浜千鳥を召され、先ほど笛を吹いた京藤太とやらは、思えば見所のある若者じゃ、こちらへ連れて参れと申して。
 浜千鳥は牛若を御連し申す、さる間牛若殿座敷に直らせ給う、遊君の長者はこの由御覧じて、あら不思議の冠者殿や座敷に直る風情は源義朝に似ている。
 御目の内は、ひとえに嫡子源悪源太義平にて御座候、物を言う声色は二男源朝長に違わず、もしも源氏の縁者であるならば早早お名乗り候えや。
 牛若殿聞し召し、これは身分地位の高い人の子に非ず、都は三条よね町に住む卑しい身分の下郎の子にございます。
 長この由聞し召し、のう御身は隠し立てなさいますな、私は源義朝殿の妻なり、万寿の姫と申して源義朝殿の忘れ形見の御座候を、今はいらたか寺の麓に出家として暮し置き申すなり。
 あちらに阿弥陀堂を建てて本尊阿弥陀如来と両脇の観音菩薩、勢至菩薩の三尊を安置申し、源義朝、悪源太、朝長の父子三人の生前の面影を三尊像に写し申すなり。
 もしも源氏ゆかりの方ならば、お焼香なさいませ、のう心深の冠者殿よ。
 源(牛若殿)これを聞し召し、
軒の玉水(雨のしずく)瓜(ちりちり)草は数多くて覆い隠しようがないように、包めども包まれず、さてさて自分の素姓も包隠しが出来ず、隠せども隠されず、父よと言える雨だれの下たる音を聞き山吹顔にうち匂い(ちりちり草を掛けた歌)。
 もはや何を隠さん、源義朝の八男、常葉腹には三男、鞍馬の寺に居住せし牛若と申す者也。
 長この由聞し召し、さては鞍馬におわせし牛若殿に御座有りける若君に見申せば、まるで源義朝殿にお会いしたような心地の有りて懐かしさよとのたまえば。
 源(牛若殿)も、二歳の時に別れた父御のことを少しも覚えておりませぬ、しかし、ただいまのお話をうかがって、冥土の父上を拝むような気がいたしました、おなつかしやとの給いて、牛若殿は長者の袂にすがり付いて涙を流し、二人抱き合って涙にむせび袂も濡れぬべし。
 遊君の長者は浜千鳥の局を召され、あれあれ御連れ申し御影拝ませ申せと申して、牛若を御堂へお連れする。
 しばらく牛若殿立ち入り御覧有ければ実にも源義朝、嫡子源悪源太義平、二男源朝長父子三人の御影を現わし申し牛若殿感激し仏前に香をたいて礼拝参らせ、馴れぬ旅の疲れから須弥壇前の台座引き寄せ枕にして少しうとうととされ給いけり。

14 父義朝、夢枕に立つ
 かかりける所に、源義朝、嫡子源の悪源太義平、二男源朝長父子三人真黒な鎧付け、牛若殿の枕上に立ち寄らせ給いて。
嬉しくも幼心に思い立ちて奥州へ下るるものかな、吉次、吉内、吉六とて兄弟三人が言う事を我々父子三人が言う事と思い西を東、北を南とも背くべからず、吉次の太刀を担いで奥州へ下り候へ暇申してさらばとて、立ち帰らんとし給いしが。
 そうだ本当に忘れていた、日本国の盗人が吉次の皮籠に目を掛け狙い、青野が原(大垣)に集結し夕さり夜討ちに寄せようぞ用心よきに仕れ、我々父子三人の者草の陰にて鉄の楯となるべきぞ、このままお前の横に居たいけど修羅道の苦しみが始まる時刻なので暇申す牛若殿とて、立ち帰らんと給いし時。
 源(牛若殿)夢心に、あらお情けの御事や今暫くと仰せあって鎧の袖にすがるかと思し召し、両眼覚めて御覧ずれば御影の袖に取り付き申す。
さては夢にて有けるや、あっけない今の対面やとて涙を流し給いけり、確かに牛若殿、夢想にあった盗人のことを思いだし、元の座敷へ御帰り有る。
 萌黄匂いの腹巻を草摺り長にざっくと召し、こんねんとうの腰の物を一文字に御差し有、厳重に武装し、刀に付いてる笄(こうがい)抜き出で枕と定め、髭切の御佩刀を腹の上にどうと置き、左足を伸ばし右足を立て、左目の寝眠っているときには、右目が天井をはったと睨んで警戒しながら、油断無く横になり見張っていた。

15 盗賊熊坂長範の話
 さて所は変わって青野が原では盗人が集まり、先ず、越後と信濃の境に住む熊坂長範の親子六人座す、善光寺南大門の頭の中で盗みの計画を立てる右馬尉(じょう)、小尉の与次、在口の七郎、八田の刑部(かもん)、鷲のようにつかみ盗み出す掻掴みの鷲次郎、盲目の振りして様子を探る窓覗きの空盲、宵に塗ったる生畔を暁走る螻蛄(けら)次郎、田楽が窪には友を迷わす狐三郎、同じく鼬(いたち)次郎、富士に坂東次、坂東内、伊豆の御山の柳下の小六、この人々を先として大将七十四人、その他都合小盗人三百人には過ぎざりけり。
 青野が原に打ち寄って大幕三重に打たせ、酒を入れる大きい竹筒と大きな瓶を担ぎ来て置き、我等が酒を飲むのではない、吉次の荷物を飲むのだ、飲めや歌えや、盗人達は舞つ歌いつ酒盛りする。
すると熊坂長範は盗人達を叱責し、お前達は一体どんな覚悟があって酒盛りをしているのだ、さあさあこの熊坂長範が盗みを始めた由来を語って聞かせ申さん。
 まず、わしの親は越後と信濃の境、熊坂というところに住んでいた、まるで仏のような正直者で、ところがわしは七歳の時に岡野郷というところで、伯父の馬を盗み取って、飯田の市にて売りたるに、造作もないことであった、それ以来、盗みは元手のいらないよい商売と思い定め、日本六十六ヶ国を走り回って盗みをするに一度も失敗したことがない。
 かくて熊坂長範は子を五人持って候が、太郎は昼強盗が上手、次郎は忍びが上手、三郎は夜討ちが上手、四郎は馬をよく盗み候、五郎は人をかどわかし取って佐渡島にて売り、しくじった事など一度もないわ、奴らは一生過ごせるだけの技量を持っている。
 しかし熊坂長範、今宵はなにやら胸騒ぎがする、あっぱれ三百七十余人の中に、誰か才能あり機転の効く者あらんに、吉次の宿へ行って様子を見て参り直ぐ帰ってこい。

16 警固見の報告
 人多きその中に、伊豆の御山の柳下の小六が某が見て参らんと名乗りを上げ、柿色の山伏法衣に濃紺の飾磨の里で作られた頭巾を眉近くまで深く被り、青墓の君の長者の門の外に立ち寄って大声で呼ばはる、熊野山の山伏で仏法修行のその為に奥州の松島へ通るなり山伏は十人余にて候、今夜一夜の食べ物を恵んでくだされと呼ばわって、内の様子を静かに見て通る。
 ややあって、内より米の俵が投げ出される、柳下の小六きっと見て、盗みの門出に縄がかかった米俵とは不吉なことと思いながら、腰の刀で縄を切ると、米を少し取って青野が原に走り帰りて、中の座敷に座り二の息をほっとつく。
 熊坂長範これを見て、さて如何に柳下殿、柳下の小六承って、獲物はいくらも候、八十四の皮籠を切戸の脇に積んだるは只宝の山の如し、四十二疋の荷物馬、三疋の乗馬いずれも皆好き馬にて候。
 四十余人の警護の兵士、弓、やなぐい、大太刀押つ取り添え、用心する様には見えないけれど、例の胴突き棒を当て門を打ち破るなら貴奴らは皆縁の下に隠れ、馬も皮籠も易々と盗れようが、ここに大事の事が候、
 熊坂長範聞いて、あいかわらずの柳下の小六殿の大事とは何事ぞ、柳下の小六承りて先ず話させてそれをお聞きください、古は連れても下らぬ様な一六七の若者が候が、この童(牛若殿)が衣装の体、そっと見たる所は色白く尋常(普通)なるが、肌(着)には緞金(中国産の錦どんきん)をひっ違えて着て候。
 着たる直垂は、唐絹を持って地をば山鳩色(高貴な青みがかった黄色)に、空色一刷毛さっとはいて、十と八五の四十で計五十色の糸をもって物の上手(名人の見事な刺繍)が縫物をありありと縫うて候。
 まず弓(左)手の紐付には齊垣(神社の垣根)、鳥居、社殿(神殿)を縫い、馬(右)手の紐付には、たけくらべに(神明)杉を三本縫うて、源氏の氏神白鳩が十二の飼子を飼い育て、羽節と羽節をくい違(交差させ)い、ぱっと立てばさっと下り舞い遊びたる祝いの所をありありと縫うて候。
 (直垂の)後の菊綴じには北山殿の山荘、住吉の水浜、御室の御所(仁和寺の殿舎)の景気(たたづまい)をありありと縫うて候。
 さてまた袴を上から下へ四弘誓願(すべての仏や菩薩が共通して持っている四個の誓願。 衆生無辺誓願度・煩悩無量誓願断・法門無尽誓願学・仏道無上誓願成の総称)を学んで、唐土の山王の象徴である猿も千疋、日本の猿も千疋、唐土の大国なれば背を大きう、面を白く縫うて候、日本は小国なれば背を小さく面を赤く縫うて候、唐土日本の潮境ちくらが沖という所にて、唐土の猿は日本に越さんとす、日本の猿は唐土に越さんとす、越そう越さじの降魔の相(不動明王が悪魔を降伏させる時の憤怒の形相がまのそう)の所をば、ありあり(さもあり)と縫うて候。
 さてまた袴の蹴回(すそまわし)しに、岩に松、鶴に亀、井堰にかかる川柳、沖の波がどっと打ってさっと引て行く潮境を縫うて候。
 着たる(鎧)腹巻は、毛は萌黄縅なり、世の常の腹巻は草摺を八枚下ぐるが、この草摺は十二枚、十二枚の草摺に白金黄金をもって薬師の十二神(薬師如来の眷属の十二の守護神、天衣甲冑の武将の姿)をいかめしく現す。
 差いたる刀は皆黄金作りなり、取付け鞘口に倶利伽羅不動明王(岩の上で火焔に包まれた竜が剣にまきついて剣を呑もうとする姿)の、滝壺へ飛んで下り、剣を呑んだる所をありありと彫って候。面(表)の目貫飾金具は不動明王、裏の目貫は鞍馬の多聞天(毘沙門天)の御神体をあらわす、下緒には法華経の七の巻、薬王品の経文が三行組み合わされて候ぞ。
 持ちたる太刀は二尺六寸か七寸かと覚えたり、刀の切羽、股寄(ももよ)せ、雲同(奥州月山山麓の名鍛冶師)が甲金、真の目貫、空目貫、責、芝引、石突等それぞれの金具、革先に至るまで、上質の黄金をもって、ひかめきたってピカピカ輝いて見えて候。
 着たる烏帽子は六波羅平家一門の公達好みの最新流行の、粒のちっとあららかなるを、一くせみくせませ、雛形にあひをあらせ櫛形をいかめしくと一ためためて、左へ折ったる烏帽子なり。
 鬢の髪は縮んだり、眉の毛は剃り落し黛で上は濃く下はぼかして描いた眉で、昨日か今日、寺から出たばかりの稚児風情で、この童が有様を物によくよく例えればも、木ならば紫檀、鳥ならば鳳凰、金ならば沙金、昔を取るならば源氏の大将、当世様を取るならば、平清盛、宗盛の御公達でましますが、義理の父との間で憎まれうとんぜられ、東(あずま)と聞いて、吉次を頼んで奥州へ下ると覚えたり。
 この童の目つき一目見て候が、油断すればわれわれ三百七十余人の盗人の命は助かり難く覚えたり。
 これを聞いた長範は不安を拭いきれずにいたが、さりながら、その小僧がどれほど勇み立つのなら勇み立ってみろ、例の長棒を持ってただ一打ちの勝負候よ、夜は何時ぞと問えば、八つ(夜中二時)頃と答える。
 時分は良きぞ人々早う立てやとて、手に松明をともして連れ青墓の君の長の門外に、声高騒ぎ立て押し寄せる。

17 牛若の盗賊退治
 まず熊坂の太郎が胴突き大木で門を破る、その音を聞いた牛若は夜盗が来たと思し召し、あらかじめ正面の蔀戸を二三枚取り外して、縁の下へ投げ下ろし、こちらから攻める準備をし、寄せる盗人今や遅しと待ち給う。
 熊坂の太郎は黒皮縅の鎧着て髪をばっと乱し、長刀を引きづり松明を振り立て、人は居ないぞ只参れ参れや参れと下知を発する。
 牛若殿御覧じて、き奴は曲者かな斬らばやと思し召し走りかかって、雷切りと名付け電光が閃くように一瞬のうちに切って御覧ずれば、無残やな熊坂の太郎はあっけなく首を斬り落とされて首は内へ転びければ、胴は外へぞ倒れたる。
 熊坂四郎が急ぎ走り来て、如何にのう父親の熊坂長範、太郎殿こそ手負うてましませ。
 熊坂長範聞いて、やあ痛手か薄手かと聞き、熊坂四郎承って痛手やらん薄手やらん首が失せて候ばこそ。
 熊坂長範聞くよりも、無念の次第かな、その童に手並見せんというままに、八尺五寸の長大な棒をば手元短く押っ取り延べ、牛若殿に渡り合う。
 牛若殿御覧じて、熊坂長範の棒をば一尺置いてずんと切り、二尺置いてちょうと切って手元ばかり残されたり。
 三百七十余人の盗人たちは、牛若殿を真ん中に取り囲んで、火事洪水になるかのように激しくもみ合いたりけり。
 牛若殿御覧じて、玉に慣れたる蓬莱の鳥の風情もこのようであろうと、全く驚く気色もましまさず、堂々として大勢の中に割って入り、東西南北自由自在に駆け回り、蜘蛛手、結果(かくなは)、十文字、八つ花形というものに、割り立て追ん廻して、散々に切って廻る。
竜巻が起こり血が流れる激しい戦は、地は朱に染め替え、龍が水を得、雲を分け虚空に上がるが如くなり、短時間の内に屈強の盗人どもを八十三騎斬り伏せたり。
 首領熊坂長範この由見るよりも、是非それがし手並み見せんと言うままに、六尺三寸のさても長刀、水車に廻して牛若殿に渡り合う。
牛若殿御覧じ、大勢の敵を相手にした後なのでさすがに疲れ果てていた、実にや熊坂長範は荒手の武者なり、大長刀に叩き立てられ、受け太刀にてじりじりと後退なされる。
 熊坂長範これを見て、おう良きぞと心得、しめたとばかりに激しく討って掛かりけり。
 さる間、牛若殿は、僧正が崖で習った天狗の兵法を思い出し、霧の法を結んで、辺りに霧を漂わせ相手の目をくらまし、小鷹に姿を変えて飛行するという小鷹の法を結んで、我が身にさっと打ち駆け飛びかかり、ちょうど切って御覧ずれば、無残や熊坂長範は額の真ん中を真二つに打ち割られて朝の露と消えにけり(はかなく死んでしまった)。
 それよりも源(牛若殿)、奥(奥州藤原秀衡を頼って)へ下らせ給ひて、天下を治め給ひけり。

《参考》

◎ 1529年頃、周防国(山口県)の戦国大名大内義隆の重臣、陶(すえ)尾張守道麒入道(興房) (1475-1539)には、嫡子次郎(興昌)(-1529)という器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍がいた。
 しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、主君大内義隆卿を見かけると武士が仰ぐべき大将ではない。眉をひそめて嘲笑っていた。
 父の入道は、嫡子の次郎は武も文も全備しているし、そのほかの芸能の道だって、弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。まったくどうしたものかと思い悩んでいた。
 そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので、大名大内義隆卿は非常に喜んでもてなし、「烏帽子折」を所望した。
 幸若太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。
 陶の入道は自分の宿に帰ると、嫡子の次郎を呼び寄せ、おまえはいつも舞を好んで舞っている幸若の音曲を学んでみるかと問いかけた。
 次郎は、私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょうと扇を手に取り、手拍子を打って舞った。次郎の舞は、幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。父の入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、これでさらに、主君のことをないがしろに言うようになるだろうと想像がついた。
 主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らないと考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。次郎は15歳の春の頃哀れにも亡くなってしまった。その後、陶入道は妹の子五郎隆房(晴賢)養子とします。(陰徳記上巻22-4から)
 応仁の乱では、何人かの公家たちは戦いで荒れた京都を離れ、地方へ移るなかで、大内氏が公家や文化人を保護したので、山口の地に京の文化が伝えられ花開きました。他方朝鮮半島や明国との貿易振興にもとり組み、フランシスコ=ザビエルのキリスト教布教も許可している。

◎ また、陶入道は公家の飛鳥井雅俊(1462-1523)とも交流があり和歌にも優れていた。この陶入道が亡くなり、天文20年(1551年)周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害される。この時の話がある。
 八月廿六日大樹義輝公ヨリ上使有。又大友義鎮ョリモ使者. 有ケレパ…日夜酒宴アリ。
幸若流ノ舞ノ上手小太夫ニ志田. 烏帽子折ナド舞セラレケレバ、上下聴聞ニ貧著シテ合戦ナドノ噂モナシ(陰徳太平記巻十九より)。
 越前ヨリ幸若太夫下向セシカバ義隆卿甚ダ賞翫シ給ヒ軈烏帽子折ヲ所望有ケリ、太夫廂ノ間ニ於イテ手拍子丁丁ト拍テ之ヲ舞ケルニ、聴聞ノ貴賤感慨二堪兼テ袖ヲ濡サヌハ無リケリ(陰徳太平記巻二十より)。
 8月23.4日から、陶(すえ)隆房の討入りの噂は周防国中に広がって大騒ぎになった。大内氏の始祖琳聖太子以来、千年の治政も終わりかと、人々は家財道具を運び、妻子を連れ、老いたる父母を伴って山里に隠れようと逃げ出し国中がひっくり返るような混乱の中で、8月26日大内義隆(1507-1551)は築山館で将軍足利義輝の使者を迎え、大友義鎮(豊後国キリシタン大名宗麟)も使者を寄越したので、夜に日をついでの酒宴を催した。幸若流の小太夫に、「志田・烏帽子折」などの曲を舞わせて、国中の騒動など知らぬげに、これを楽しんだ。
 舞は滅亡への序曲であったのか、8月28日陶隆房が若山城を出発。その後大内義隆は大寧寺に逃れたものの、抗戦を断念して自害する。(9月1日)
 この謀反では多くの公家が巻き込まれました。武田信玄の正室・三条の方の父親三条公頼や、二条良豊などで、二条良豊は死ぬ前に内藤興盛に伝言を頼もうとしたが、伝言を聞く前に良豊の首をはねてしまいました。陶の兵には、都落ちした公家に対する積年の恨みがあったと思われる。
 のちに陶晴賢(すえはるかた)が晴英(義長/大友宗麟の弟)を新たな当主に据えたが、毛利元就の攻撃により義長が自刃し、毛利元就は天文24年(1555年)に厳島で陶晴賢の大軍と戦い、これを討ち破り勝利します。これが「厳島の戦」いである。

◎ 織田信長は越前一乗谷の朝倉義景を攻め滅ぼし、すぐに反転し近江の浅井長政を滅ぼした。しかし越前では一向宗が勢力を拡大し朝倉旧臣を追い払い一国を治めるまでに至ります。
そこで1575年(天正3年)織田信長は大軍を率いて八月十二日北陸一向一揆退治の為岐阜を発信 (信長公記より) 。
 織田軍は、一揆の門徒衆1万2000人以上を殺害し越前を完全に支配下に置きます。
 8月28日堅城として名高い越前丸岡にある豊原寺を焼き払い、信長は、一向一揆を平定した豊原寺に陣営を移します。
 8月29日奈良興福寺の大乗院尋憲が、信長の陣中見舞いと称して越前に入国。その際の自筆旅日記(「越前国相越記」)に、「一揆平定の越前の豊原寺の信長陣中では、信長の面前にて幸若太夫による幸若舞「烏帽子折」が舞われました。舞が終わった後に信長より以て松井友閑が出て礼を申しでた。」とあります。
 信長は「越前目付」の前田利家らに「織田大明神(越前の劔神社の神域については、先祖に特別の仔細があるゆえ、一切手を付けてはならぬ」と命じている(松雲公採集遣編類募104より)。
 9月2日柴田勝家に越前8郡、前田利家ら府中3人衆に2郡、金森長近と原政茂に大野郡、武藤舜秀に敦賀郡を与える(信長公記より)。
 9月26日織田信長は岐阜城に帰ります。越前半国を任された柴田勝家(諸役免許状)は11月5日「劔神社は殿様の御氏神」(剣神社文書より)とのふれを出す。

◎ 1614年「駿府記」には、徳川家康は、4月朔日「幸若の舞曲有り」。同年6月朔日「早朝幸若太夫による舞曲を観賞」。同年9月15日「幸若小八郎太夫が江戸参府に従う。於いて御前で烏帽子折を舞う。」とあります。
 また、同年10月10日「徳川家康、幸若舞御覧ぜられ。その徒に銀時服下されて。帰国のいとま給う」(徳川実紀)。
 翌10月11日徳川家康は軍勢を率いて駿府を出発。11月徳川家と豊臣家との戦である「大坂冬の陣」の始まりです。
 これは徳川家康(73歳)が1614年大坂城攻めした時の出来事です。将兵の疲れを心配した徳川家康は、大坂までの行軍の途中「全員に具足を付けさせるな」と命じ、将兵らの行軍が大坂に近づいたところで全員に具足の着用を命じました。
 この時、陣中に供していた金地院崇伝ら二人の僧と、丸坊主頭の儒学者林羅山までもが人並みに鎧を着て徳川家康の前に現れました。
 どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、徳川家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた「我が陣にも三人の法師武者があるわい」 
 これは幸若舞「堀川夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊正尊を派遣した事件)の一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったもので、この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたということが「徳川実記」の中に記録されています。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367