堀川夜討(全文版)

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1 梶原景時の謀略
 さる間、判官(源義経)明ければ参内申されたり、帝叡覧ましまして、関東滞在(兄頼朝の勘気を受けて対面も許されず引き返し、途中で処刑した宗盛の首と共に帰洛する)が僅かで上洛したことは気がかりであるが、帝を守護し申さば、逢坂より西三十三ヶ国を賜わると勅命をお受けして六条堀川の宿所堀川殿に移らせ給ふ。
 かくて、近国隣国の大名小名、関東よりの御上洛と承り、功労を賞した官位や物品を賜わろうとして、門外に駒の鼻緒を緩める事がないほど常時待機していた。
 されども鎌倉幕府より御許可がないので義経は知行などをあて行うこともなさらない。
 四国西国は皆この君(義経)に心を寄せて期待し、今こそこのように御座有るとも、ついには日本半国の御大将にてましますと大切にお世話申し上げる。 
 此の事関東に隠れなし、梶原景時早く聞き付け源頼朝の御前に参り、如何に我が君聞し召され候へ、既に早、御曹司お許しされなけれども、逢坂より西三十三ヶ国を我がままなりとの給いて、四国西国よりも関東へ参る兵を都にて押し留め給う。
 この君(義経)都に御座有らば、ついには日本はこの君の御計らいと成るべきなり、いたわしくは存ずれどもこの君を討ち参らせ死後の供養を手厚くなさいませと申す
 源頼朝聞し召されて、その儀なれば急ぎ討手を上らせよ。
 梶原景時承って、誰をか討手に上らすべき、おう、ここに私にとって憎き相手あり、御内の土佐正尊は心も剛に知恵深し、ややともすれば我に敵をなす相手なり、彼なら死んでもよい、彼を討手に上すべし。
 彼を討手に京へ上するならば、思案深き者にて源義経も討たれ候べし、例え討たれ給わずとも、源義経が土佐正尊を討ち取られるだろう。
 土佐正尊が討たれて有るならば源義経も滅び給うべし、自分にとって手強い敵である源義経と土佐正尊を二人ともに滅亡させて、憂き世の中を楽々と住まばや等と思いければ。
 考え済まして梶原景時は、笏取り直し礼儀を正して申す様は、誰々と申すとも、御内の土佐正尊は心を剛に知恵深し、彼を討手として京へ御上らせあれと申す。
 源頼朝聞し召されて、そういえば、こんな事が有ったな、この者十九の年、未だ金王丸と有りし時、父源義朝が平治の乱で敗れた時に御伴を申し、尾張の内海にあった長田忠致の館にて浴室で討たれた御最後の戦いに、長田忠致の子供等その数人を滅ぼし、そこにても討たれずして、その名を得たる者なれば、彼を討手に京へ上らせよ。
 梶原景時承って御判の文書を賜われ、仰せ付けんと申し、源頼朝御判を出され給う、土佐正尊の宿へぞ届け付にける。

2 刺客土佐正尊の上洛
 土佐正尊は、御判を賜わり、ああ何と嘆かわしい事であろう、日本中の者が一緒になって攻めても源義経はまさか討たれるような事は有るまい
 源義経の討手を土佐正尊一人に仰せ付けられる事、御前に引き出され首を切られる程の事であり、辞退申したけれども、御意に洩れて土佐正尊の命生きていても甲斐あらじ、例え上ると、この事を深く隠せと言うままに、主だった兵士八十三騎揃えつつ鎌倉内を忍び出で、道中で旅の身支度をするのは、源頼朝の代行として熊野権現に参詣ですると発表して、上から下に至るまで熊野道者の装束である白の狩衣を着せ、僧の用いる一女笠に細長く切った布を垂らし、鎧入れたる長持に神符を付けた青竹立てて、しめ縄引きかせ、美しく飾り立てた引き馬共の尾髪にも、 ゆいや幣切って付けさせ、渡る瀬ごとに心身の垢を落とし清め、夜を日に次いで馬の尻に鞭を打ち鎌倉を出でて、二十日には都入りとぞ聞こえける。
 五条油の小路に宿を取る、土佐正尊は聞こえた策略家で、先ず女を使って源義経の屋敷の警護様子を見に行かせた。
 女は走り帰って、いつもより源義経様にはご用心もなさらず、攻めるには良き折柄と申す。
 さては折柄こそ目出度けれ、明後日の暮れ程には何がどうあっても攻め掛るべし、長旅で爪を痛めている馬の足を冷やしてやれ。
 その頃、義経の忠臣なる伊勢の三郎義盛は清水詣に出掛けていたが、その途上、河原面を見渡せば、餌を十分に与えられた立派な馬の清げなるを乗り連れて足を冷やしける。
 伊勢の三郎義盛これを見て、都にては源義経様の御内にもこれ程よい馬を持つものは居ない、東国方の大名の上洛にて有り気なや、問うてみなければと思い立ち寄り物を問いけるに隠して何も明かさない。
 どう見ても是は事情がありそうだと思い、馬の世話を任された下男である舎人多きその中に、話しぶりの上手い舎人有り、彼の側に立ち寄りて、着ていた笠をひん脱いで物をは追及することなく、先ず乗りたる馬をぞ誉めにける。
 何と素晴らしい御馬候や、馬の爪や髪の切り様は鎌倉風であるな、尻の方から見ても前から見ても横幅が張って、尾の付け根、脇腹、爪の根骨は鉄を延べたる如し、肉付き骨組み、膝内こぶ作って取り付けたる如くなり、素晴らしい御馬候や
 これほど多くの御馬の中に売ってもらえる馬は有りますか、興味のある代物と交換してあげましょうとぞ申しける。
 舎人この由聞くよりも、貴方は如何なる人なれば訳の分らぬ事を言う怪しいとぞ咎めける。
 伊勢の三郎義盛聞いて、そもそも我々の習わしであって、口を聞かなければ成り立たない商売です、京と田舎を家として馬の商いで身を過ぐる、元は丹波の国の者井原の後藤左近とて、馬に薬を飲ませたり針遣いする者、馬の足に針を打って悪い血を出し治療する御馬なんぞや居りませんか、馬の持ち主に御取次ぎくださいとぞ申しける。
 舎人この由聞くよりも、これは苦しゅうない人やこの御馬こそは明後日の暮れるころに大仕事に遭わん御馬で候へ、裾の血も出すべし宿を尋ねておいであれ。
 おう、お宿はどちらで候ぞと問うと、五条油の小路にて土佐正尊殿の御宿と尋ねて御入り候へと答える。
 土佐正尊殿と申すは法師の御名候か俗の御名にてましますかと問うと、舎人が聞いて打ち笑い。
 今日この頃、関東に鎌倉殿の御内なる伊法法師、きほう法師、土佐坊とて三人の法師武者有りとは国に隠れもなし、知らぬは異国人かなとてからからとぞ笑いける。
 伊勢の三郎義盛聞いて、それほどの大名が上洛まします候に、国に披露の無き事は作り話ではとぞ言いたりける。
 御披露されないのも道理、大事の敵を討たんが為、忍びての上洛であれば、さてこそ披露は世に無けれと答える。
 大事の敵と宣は、天下の御敵候か、それとも個人的な長年の恨みにて候かと問えば。
 土佐正尊殿にとってどういう個人的遺恨の敵が有りましょうか、鎌倉殿(源頼朝)の御身に当てて討つべき御敵候よ、討たれ給いてその後、名字隠れ世も有らじ南無阿弥陀仏と申しければ。
 伊勢の三郎義盛共に念仏し、さては源義経殿の御事かと聞きすましつつ堀川の源義経の御所へぞ参りける。

3 伊勢の三郎義盛だまされる
 君源義経の御前に参り、如何に我が君、聞し召され候へ、東国の土佐坊が君の討手にまかり上りたる由を申す。
源義経聞し召されて、義経の討手に土佐なんどを上らせらるる事、かまきりが前足を振り上げて大きな車にたち向かう様なもの、時刻移して叶うまじ、急いで連れて参れとの仰せで、土佐の館へ訪ね行き、案内申そう我は大将の御内なる伊勢の三郎義盛なり。
 土佐正尊聞いて、秘密事が漏れ、さればこそ人の耳は壁に付き、眼は天を駆けるとは今こそ思い知られたれ、夕べ着いたる土佐正尊を誰かが御所に参り申しつらん、客と対面せねば叶うまじ、こなたへ連れて参れと申して伊勢の三郎義盛を客間に案内させる。
 やや有りて土佐正尊は白小袖の肌着に下袴だけで白檀の香匂わせ綿帽子で額を包み、童二人に手を引かれ、伊勢の三郎義盛の正面にどっかと座り。
 如何に義盛久しくお目に掛らず候、某の只今の上洛別の子細にて候わず、関東の君(源頼朝)の御病気、もっての外にましまして、伊豆山神社、箱根神社、三島神社、鶴岡八幡宮の若宮の、みてぐらを神前に捧げる事はなかなか申すばかりもなし、殊に取り分け候て、人数ならぬ土佐正尊は、熊野三所権現の御代官を給わり熊野に参り候が、川の瀬ごとに心身の垢落としして浴びる水が身体にこたえ、思うように歩けませんが、係る御祈祷の折節、病気と申せば、関東への聞こえも恐れと存じ夕べ上洛仕る。
 関東よりの御状なんどの候を持って参らんと随分存じて候えども、病気も未だ、過まざれば、不参申す所に思いの外に伊勢の三郎義盛の御目に懸る事こそ何よりも嬉しい事です、何さま御酒を申さんと三々九度強いたりける。
酒も半ばと見えし時、土佐正尊申す、面々の御中へ田舎の土産があったのを持ってきたと申します、何かある御目にかけよと申せば、鞍具足が引き出される。
 土佐正尊これを見て、あら見苦しの鞍具足や馬に添えてはなど引かん、予て申せし伊勢の三郎義盛への送る品の御馬はこしらえたるか。
 黒鴾色(黒と紫に近い桃色)の毛の名馬、四尺五寸をゆうに超える大きな馬を宿の小庭に引き出し先の鞍具足を目の前にて取り置かせ。
 この間の長旅に爪を欠かせて損ずれども、是に乗って御帰りあれ、御所様の御機嫌をば万事は頼み奉ると実らしかに謀りければ、酒には猛き鬼神もとろける習い成る間、さしもに猛き伊勢の三郎義盛も易々と謀られ。
 お任せください御心安く思し召せ、御在京の間は再び訪ねは申さんと暇乞いて伊勢の三郎義盛は堀川の源義経殿の御所へぞ参りける。
 源義経君の御前に参り、東国の土佐坊は鎌倉殿の御代官に熊野へ参ると申し、熊野参詣の修行者なれば其のままにしておいて下さい我が君と申す。
 判官(源義経)聞し召されて、いやいや日本一の義経を討ちに上りたる曲者にて万事に趣向を変え、どう考えても伊勢の三郎義盛は土佐正尊に騙されたと存ずる、不快である下がれ今後は一切目通りは許さんと御座を立たせ給えば。
 伊勢の三郎義盛は、面目を失い、引き出物こそ敵よとて馬をば尾髪を切り河原面へ追い放し、鞍具足をば焼き捨てて、只一人切って入り土佐正尊と刺し違えて死なんと激怒した。

4 弁慶、土佐正尊を連行
 その後、武蔵坊弁慶を召され、如何に武蔵、東国の土佐坊が、義経の討手に上り五条油の小路に居ると言う急ぎ連れて参れ、参れと言うに参らずば首を切って参れ。
 弁慶承りて、あっぱれ是は一大事の御使いかなとは存ずれども、さりながら思案の内と思い、一室につつと入り、胴丸鎧取ってうちかけ上帯結ってちょうど締め一尺八寸の打ち刀を十文字に差すままに、黒い馬に白鞍置かせて引き寄せ、ゆらりと打ち乗り童一人引き連れ土佐正尊の宿へつつと行き、駒をかしこに乗り放ち縁側からづんと上がり事の様を聞きければ。
 土佐正尊は、伊勢の三郎義盛をうまく謀りとげて安心し、女や遊女をずらりと並べて、酒宴の最中と聞こうる。
 弁慶、間の障子をそっと開け、ほとんど土佐正尊の陰口を言わない弁慶めにて、丁度良い時に推参申したり、何故に御意の通りを間近く参ったか申さんと言って、大勢の兵を乗り越え乗り越え通って土佐正尊の対座にどうと座り右手の腕を取り、申せとの御諚の候、病気と聞し召されて世話する役に武蔵坊弁慶を参らせる、早々御参らせ候へと小腕取って引き立て騒々しく音を立ててぞ出でにける。
 大勢の兵共傍なる打ち物ひっ倒して、刀を抜こうと鍔元を広げ既に立たんとしたりれり。
 土佐正尊この由見るよりも、力ずくで身体の自由を奪われ、叶うべきようあらざれば、やあ何を騒ぐぞ皆々殿、今に始めぬ武蔵殿にてその場の冗談が格別でいらっしゃる、しばらくそれにて酒盛りせよ、直ぐに帰ろうぞ人々よと宿の小庭に出でにけり。
 土佐正尊の郎等ども続いて出、そこまでお供申さんと、我々もと進みけり、弁慶是を見て、あいつ等に押さえつけられてはかなわないと存ずれば。
 やあ招待もなしに推参して武蔵を恨むな方々と、大の眼に睨まれて、少しひるんだその隙に土佐正尊の腰の細くなった所をむずと抱き鞍の中央にどうと置き、我が身もやがて馬の尻に飛び乗って左手で土佐正尊の袴の際をむずと取り、右手に刀を抜きすかし。
さもあれ御辺は病気にて行歩心に任せずと承って候が、思いの外に引変えて女色好み並べ据え酒盛りし給う怪しさよ、何事にて京へ上りたるぞ、目的を残らず早よ語れ如何に如何にと言いければ。
 土佐正尊は聞ふる名人にて、おう、ここにて貴方と某が問答対決したればとて、どちらが正しいかを決めるべき間柄ではない、どうせ御所に参上するのだから、あちらで上洛目的を話ししましょう、しばらく待てや武蔵とて駒を早めて鞭打つほどに堀川の御所へぞ参りける。

5 土佐正尊、源義経と対面
 門の外に駒打ち据えてはや参りたる由を申し上げる、判官(源義経)聞し召されて、何と言っても土佐正尊は鎌倉殿(源頼朝)の御代官に熊野に参ると申す、熊野参りの道者であれば、間近く召せとの御諚にて、中門まで召しだされ、讃岐産の円座を投げい出す、怖れず直り挨拶し頭を地に着け赤面する。
 判官御覧じて、珍しや土佐坊、本当であろうか汝は義経の討手として京に上りたるとな、兵の勢いは如何程持ちたるぞ、何処へ隠して置きたるぞ、有のままに申せ、偽る気色の有るならば、絶対にお前をそこから動かさないぞ、やあ如何にとの御諚なり。
 土佐正尊承って、某の只今の上洛、別の子細にて候わず、先程伊勢の三郎義盛へも申し上げる如く、関東の君の御病気もっての外にましまして伊豆山神社、箱根神社、三島神社、鶴岡八幡宮の若宮のみてぐらを神前に捧げる事はなかなか申すばかりもなし、殊に取り分け候て、人数ならぬ土佐正尊は、熊野三所権現の御代官を給わり熊野に参り候が、はや老体にまかりなり川の瀬ごとに心身の垢落としして浴びる水が身体にこたえ、思うように歩けませんが、係る御祈祷の折節、病気と申せば、関東への聞こえも恐れと存じ夕べ上洛仕る。
 御言伝えての御状なんどの候を持って参らんと随分存て候へども、病気も未だすまざれば不参申す処に思いの外に伊勢の三郎義盛を御使いに賜わる、君の御威光に恐れ申し病気も少し取り直し、髪を剃り身を清めて参上しようと身支度をしていますところに、今に始めぬ五条の女色好み酒持たせ門出で祝い候ところへ、あの武蔵坊弁慶が御出で有りて、押さえつけて御参りある。
 関東よりの御状なんどの候を持って参らんと存じて候えども、臆病至極の若い従者どもにて武蔵の御威勢に恐れを申し、彼方此方へ逃げ去って動転の間、取り紛れ持って参らず候、
 諸事の次第をば伊勢の三郎義盛と武蔵殿の御覧ぜられ候上、よこしまな考えは決してありませんと、まことしやかに謀りければ、日本一の源義経も二相を悟る弁慶も、勝る土佐正尊には、謀られ、実に実にそれはさぞ有らん、はっきりした証拠もないのに切り捨てるのは無残なり。

6 土佐正尊起請文を書く
 本当にお前が過失を犯しているのでなければ、精進ついでに起請文を書け、そうすれば許そうとの御諚なり。
土佐正尊承って、如何にも仰せと有れば直ぐに書きましょうと申す、判官聞し召されて、それそれ武蔵と仰せければ、弁慶承りて、熊野神社の厄除け護符牛王宝印一枚に硯を添えてぞい出しける。
 土佐正尊は聞こえたる文豪家にて自筆を持って、契約の内容に反した時は天罰を受けてもいいという誓いの起請文の事書きたりけれ。
 敬って申す、天罰起請文の事、上は梵天帝釈、下は四大天王、閻魔法王、五導の冥官、下界の地には伊勢天照大神を始め奉り、熊野、白山、金峯山、王城の鎮守稲荷、祇園、加茂、春日、八幡は正八幡大菩薩、松の尾、平野、梅の宮、惣じて閻浮提の内の右勢無勢、曠劫誕(こうこうたん)の魍魎(もうりょう)鬼神、聞入れ納受垂れ給え、今度土佐正尊が君の討手に罷り上りたる事候はず、又私の宿意更に候わず、若し偽り申して候わば只今申し下す神罰冥罰を土佐正尊が四十四の継ぎ目(関節)八十三のわうわうごとに罷り豪て(関節と神経が病冒され弓刀が使えなくなる)候て、今生にては土佐正尊が弓矢の冥加長く廃り、来世にては無間の底に堕罪し、永劫浮かぶ世更に候まじい、よって状如件(くだんのごとし)、文治元年卯月二十日、藤原の正尊、判
と書いたるは、さて身の毛もよだつばかりなり。
 判官御覧じて、起請の表、細やかなり神慮に任せて帰すぞ、はや帰れとの御諚なり。
 土佐正尊我が宿に帰り、家の子、郎党を近づけ、されば弓取りはとにもかくにも物をば書くべきものなり。
 土佐正尊文盲なりせば、方々の御目に二度懸るべきか、あっぱれ法師良き法師とむやみやたらと自分の事を褒めにける。
 さりながら、堀川殿の内情をすっかり見終えたことこそ嬉しけれ、今夜の真夜中にどうしても討ち入るべきだ、名残惜しみの酒盛りせよと申して、酒樽をかき据えて舞い歌い酒盛りする。

7 夜討ちを受けた堀川殿
 夜は何時ぞ、八つ(午前二時)の頃、時分は良いぞ人々早打ち立てや、もっともとて、手に手に松明ともし連れ、堀川殿へ押し寄せ、南の門を打ち破って中門の中、寝殿前の広い庭さして乱れ入る。
 さてもその夜、御所様(源義経)には御用心もましまさず、十二人の思い人を召されて、夜とともの管弦なりに、懸る御遊びの折から無粋な侍たちは必要ないとて、皆々宿へぞ帰らせける。
 武蔵坊弁慶も北白川に宿ありて、帰ってしまいそこには居ざリけり、たまたま有り合う者とては、女房たちに奥向き雑用の中居の方、さては諸種の職人の者ばかり、情けなく頼りない折であった、皆々酒宴にくたびれ前後も知らず臥させ給う。
 その中に静御前ばかりこそ、宵の間に知らぬ女房の警固を見つると頼りなく不審に思い、夢も結ばず、気を張って、待ちかくる所に案の如く、夜討ち雲霞の如く大勢が群がって乱入する。
 さればこそと思い、源義経の御姿を見奉れば前後も知らず臥させ給う、のうのうと起こし申せども御返事もましまさず。
 静御前心に思うよう、実に猛き弓取りは物具の音に驚き給うと聞きつるものを思い、御着背長の鎧を取出し枕上にざっくと音を立てて置く、源義経かっぱと驚き、あら事騒々しや、静御前何事やらんと仰せければ。
 静御前承って、夜討ちの人で候に、起き上がり給えと申す、源義経聞し召されて、たかが夜討ちだと言うのに騒ぎ立てすぎる、土佐正尊にてぞあらん、何程の事の有るべきぞ、宵の管弦に余りくたびれ、もうしばらく休まんとの給いて、又こそ休み給いけれ。
 静御前見参らせ、のう既に間近く参るなり起き合い給えと申す、源義経かっぱと驚き、さらば着背長の鎧参らせよ、承ると申して差し出す。
 左手の籠手を差し給えば、右手を静御前が参らする、左の脛当し給えば、右を静御前が参らせけり、鎧胴のつなぎ目に当てる脇楯取って押し当てれば、物の具の綿噛掴んで引き立て、大鎧をゆったりと着用し、上帯締めるその隙に刀を取って参らせる。
 太刀鞘を上帯に結びつける間に太刀を取って参らする、帯取り締めるその隙に兜を取って参らする、兜の緒を締める間に、矢入れ箙を取って参らする、担ぎ緒を止めるその隙に、弓をば静御前が弦を張り、弦をはじいて音を見て、源義経に是を参らせけり。
 源義経この由御覧じて、あっぱれ静御前は弓取りの思い者やとの給いて、既に進んで出でられたり、静御前も続いて出でにけり。
 源義経御覧じて、邪道なリ静御前忍べ、忍べと仰せけれども、耳にも更に聞き入れず、真っ先にこそ進みけれ、進む姿を御覧ずれば、萌黄匂いの腹巻鎧を衣の下にぞ着たりける、源義経の秘蔵の白柄の長刀、左手の脇に掻き込みて、長い髪をぱっと乱れば、黒い背中袋やらんと見えたりけり。
 源義経御覧じて、あら面白の合戦や四国西国の戦いにもかほど面白き戦は無し、どうせ同じ事なら庭に出でての遊びこそ、花と蝶との乱れ足、見てこそ心は澄み候え、やあ、こちらへ来よや静御前とて西の小庭に出で給う。
 頃はいつぞの頃ぞとよ、文治元年卯月二十日(土佐正尊襲撃の今日)の夜の事なり、藤の花は松に懸りて、色々の草花は敵の火に色を増す、色が入り乱れた有様は丁度綿の織物をさらす如くなり、池の端に臨む時、静御前の姿は花に似て、未だ秋にて有らねども女郎花かと疑わる。
 源義経、実戦用の矢をつがい、射当てる敵に選り好み無し、受けてみよと宣いて、差し取り引き詰め散々にこそ遊ばしけれ、面と向かい進む兵を十七八騎はらりと射られ、少し矢の射程距離から後方に退く。
 源義経、弓を投げ捨て御佩刀ひん抜いて切って出でさせ給えば、静御前も続いて切って出、二人の人々のここが運命の決する瀬戸際と切り給えば、屈強の兵を三十三騎切って落とし給う。
 残る兵は風に木の葉の散るように、むらむらばっと引きたりけり、源義経、静御前が手を引いて落縁に上がり事の様子を御覧ずれば、手負い死人の臥したるは、算木を散らしたように一面に散乱している。

8 伊勢の三郎義盛の奮戦
 このようであった所に、大将(源義経)の御内なる伊勢の三郎義盛は、主君の御咎めを受けて七条朱雀に居ったが、夜討ちの由を承って胴丸鎧取って打ち駆け上帯結んでちょうど締め、一尺八寸の打刀を十文字に差すままに、三尺八寸のがっしりと厳めしい作りの太刀をするりと抜いて打ち担ぎ。
 激しく走り堀川殿に着きしかば、南の門につつ立って大声あげて呼ばはるよう、今夜の夜討ちの大将は土佐坊にてましますか、こう申す兵を如何なる者と思うらん大将の御内なる伊勢の三郎義盛なり、御身ゆえに某、主君の御咎めを受けている上、手並みの程を見せんとて、脇目もふらず真直ぐに切り込んでいく。
 土佐正尊の郎等どもは、主人土佐正尊が敵に討たれないようにと真ん中に取り込んで守る、伊勢の三郎義盛この由見るよりも、大勢の中に割って入り西東、北南、蜘蛛手、結果(刀で切り結ぶかくなは)、十文字、八つ花形というものに、割り立て追い廻して、散々に切ったりけり、首二つ取って大勢に手負わせ東西へぱっと追い散らし、君は何処に居わしますか。
 源義経これに控えたり、これへこれへと有りしかば、伊勢の三郎義盛は落縁に上がって二つの首を差し上げ源義経にこれを見せ申す、この伊勢の三郎義盛の振舞いは、中国の功臣がこのようであったように勇壮であった。
 源義経、敵に一息入れさせてはならないとの給いて、又切って出でさせ給えば、左側に静御前、右側に伊勢の三郎義盛が縋り付き申す。
 今は武蔵も片岡八郎経春も熊井太郎忠元も源八弘綱も定めて参り候はんと申すもあへず、門外に人の呼ばはる声はかすかなリ。

9 武蔵坊弁慶の胸騒ぎ
 武蔵の一つの不思議に、生まれつきの瑞相あり、事ある時は胸騒ぎしきりとし左の手を掻けば、はや事有と悟りをなすが、今はこの瑞相のしきりなるにより候て、堀川殿に何事か御座有るらん見て参らんと言うままに。
 胴丸鎧取って打ち駆け上帯結んでちょうど締め、例の大太刀さげ佩いて、夜は杖こそよけれとて棒を持ってぞ出でたりける、瞬時の間に堀川殿に走り着き。
 門外を見渡せば案の如く夜討ち雲霞の如く乱れ入り、只者ではあらじ土佐正尊にてぞあらん、されども彼は聞こうる兵なれば、もし君(源義経)や討たれ給うらんと心もとなく存じ呼ばはる声にてぞ給いける。
 源義経聞し召されて、武蔵か、やあここに居るぞとの御諚なり、弁慶承って、さてなる上はご安心下さい、こう云う事であろうと予期して居たら長刀持って来るものを、持つも慣れない棒を突いて如何せん。
 されども武蔵生まれてより此の方棒にてまだ人を討たず、人の持つほどに羨ましさにこしらえたり。
 かの武蔵の棒と申すは、嵐激しき高山の岩間より生え出でたる白黄楊(つげ)を八尺五寸に切って中を厚く端を平たく東海を渡る船の櫓の形に作り、播磨産の鉄を延べ付け、刃棟を焼いて鍛えた刃を付け八尺五寸のその内に、八十三のいぼを付け釘の頭を磨き立て狭間を黒く塗ったれば、いぼは輝く地は黒し刃は白し、物によくよく例えれば、ひとえに剣、菱鉾、鉄棒なんどの如くなり。
 このような素晴らしい棒を突いて、南の門につつ立て大声あげて呼ばわる、只今ここもとに進み出でたる兵を如何なる者と思うらん、珍しからぬ武蔵坊弁慶なり、夜討ちの大将に見参せんとぞ呼ばわりける。

10 姉歯の平次光景の最期
 かかりける処に、洗い革で縅した鎧着て、緋縅の袖付け長覆輪の太刀佩いて三日月の如くに一反り反ったる刀をひらりくるりと廻して、脇目も振らずにまっしぐらに切って掛かってくる。
 弁慶是を見て、武蔵と名乗るに恐れる様子もなく討って掛かるのは並の者ではあるまい、名字を名乗らせ、聞かばやと思い、只今ここもとに進み出でたる兵は、同族武士団の党の者かそれとも大武士団の高家の者か名字を名乗れ、聞かんと言う。
 姉歯の平次光景聞いて、そもそも相手の不意を突く夜討ちの習いでは名乗る決まりはないが、是は鎌倉殿の命によるもので、私闘ではないから死後名誉ある名を残すため、陸奥の国の住人姉歯の平次光景年積もって二十六、八十五人が力なり、武蔵殿の手並の程を受けてみんと申す。
 弁慶聞きて、さては汝は土佐正尊の郎等よな、汝の主君土佐正尊をだにも敵とするのには不足であるのに、そこを引けとぞ言うたりける。
 姉歯の平次光景聞いて、腹を立て、さしも隠れなき武蔵殿の御諚とも覚えぬものかな、世に時めいている人を主人として頼むは皆弓取りの習い、戦場にて家柄身分を言い立て更に聞かれぬ事候よ、心の剛なる者をこそ武者とは申し候え、賤しき者の討つ太刀は、世に有る人の御身に立つや立たずや、受けてみたまえ武蔵殿と言うままに長刀の石突き押し取り延べ、弁慶の膝の辺りに小風を吹かせさらりさらりと薙いだりけり。
 弁慶是を見て、大した事はないと思い、棒を庭にさし下ろし石付きを躍らせ木の葉返しと言う手を出し裾を払って脛当ての後部覆いの金板に棒の石突きからりと当て、ややともすれば姉歯の平次光景は、ああ討たれたようにぞ見えにける。
 さる間、姉歯の平次光景も長刀一手習いたり、棒に立ち向かって勝負するのは大変な事で、足が素早く動かなければならず、いかにも敵を責めさいなんで気力が抜けたところを一太刀と心の内に存ずれば、敵がかかれば飛び退き、長刀の使い手には、込む手、薙ぐ手、開く手、後ろを切るは、中切り、小波切りに、水車、切り込み、脇込み、叩く闇討ち、捨て刀、随分大事の秘所の手を残さずこそは遣いけれ。
 弁慶、姉歯の平次光景の長刀使いが余りにも立派なので、しばらく適当に払って、面白い手を遣うと目を見張って見つめていた。
 されども今は武蔵に増し、秘事と思う手もなくなり、いつまで置いて罪作りに暇取らするさらばとて棒の石突き押っ取り延べ頭上から拝み打ちにちょうど討つ、兜のからくりはらりと砕け落花の如く散りければ首の骨が討ち込まれ胴へぐっとめり込んでしまった、五十四郡に隠れもなき姉歯の平次光景も、武蔵坊の手に掛り微塵に散りてぞ失せたりける。

11 武蔵坊弁慶の奮戦
 残る兵これを見て、武蔵坊にて有ればとて鬼神にては世も有らじ漏らさず討てやとて真ん中へ取り囲む。
 弁慶是を見て、棒の石突き押っ取り延べ、八方をさし絡んで、一方へ押ん向け、棒術の菱鉾通し、やす突き、さて串刺しと云うものに刺し貫いてえいと投げた。
 南東の柳、北東の桜、北西の松、南西の楓と四隅に四木を植えた蹴鞠の庭の内、くるりくるりと追い廻り池の端の戦いに山鳥水鳥蹴立てつつ見参所、対の屋、中門、主殿に通じる長廊下、警護武士の詰所、込み入りつ、込み出でつ、武蔵の棒にあたる者生きて帰るはなかりけり。
 鎌倉にて土佐正尊は、一騎は十騎、十騎は百騎に向かう程の兵を八十三騎揃えしが、只十七騎に討ちなされ行方知らず落ちにけり。

12 土佐正尊の最期
 無残やな、土佐正尊もからがら命助かって、河原を指して落ちけるを伊勢の三郎義盛と弁慶が跡を求めて追い詰めて搦めて連れて参りけり。
 源義経この由御覧じて、熊野参りの土佐正尊に縄を掛けるはもったいなし如何に如何にとありしかば、土佐正尊ちっとも騒がず座っている身を伸び上げて大声上げて申しよう、かけがえのない命も義の為には少しも惜しくはない、命は恩の為に使われ奉る、源頼朝の御為に捨てる命は惜しからず、君も憎しと思すなよ、早く殺して下さい。
 源義経、不憫に思し召しなんと剛なるや土佐正尊、助けたくは思えども、お前は二人の君主には使えないだろう、さらば暇取らせよと言うと、承ると申して六条河原で切りにけり、かの土佐正尊を見し人、貴賤上下押しなべ感ぜぬ人はなかりけり。

《参考》
◎ 幸若舞「堀川夜討」に、土佐正尊(昌俊)は心を剛に知恵深し、彼を義経の討手として京へ御上らせあれとの注進に、頼朝聞し召されて、そういえば、こんな事が有ったな、この者十九の年、未だ金王丸と有りし時、父源義朝が平治の乱で敗れた時に御伴を申し、尾張の内海にあった長田忠致の館にて浴室で討たれた御最後の戦いに、長田忠致の子供等その数人を滅ぼし、そこにても討たれずし(幸若舞「鎌田」)。
 その後、渋屋金王丸は京紫野にいる常盤御前(義経を抱かえていた)の元に注進に訪れ、平清盛の許しを得て長田忠致の首を取る。
 土佐正尊(昌俊)は、頼朝の命で京堀川の義経館を襲撃するが失敗し義経に捕まり六条河原で首を切られた。
 渋屋金王丸は長刀の使い手である、この長刀は現在も渋谷区の金王八幡宮の宝物に「毒蛇長刀」として収蔵されている。

◎ 1614年「駿府記」本には、徳川家康は、4月朔日「幸若の舞曲有り」。同年6月朔日「早朝幸若太夫による舞曲を観賞」。同年9月15日「幸若小八郎太夫が江戸参府に従う。於いて御前で烏帽子折を舞う。」とあります。
 また、同年10月10日「徳川家康、幸若舞御覧ぜられ。その徒に銀時服下されて。帰国のいとま給う」(徳川実紀)。
  1614年10月11日徳川家康は軍勢を率いて駿府を出発。11月徳川家と豊臣家との戦である「大坂冬の陣」の始まりです。
 これは徳川家康(73歳)が1614年大坂城攻めした時の出来事です。将兵の疲れを心配した徳川家康は、大坂までの行軍の途中「全員に具足を付けさせるな」と命じ、将兵らの行軍が大坂に近づいたところで全員に具足の着用を命じました。
 この時、陣中に供していた金地院崇伝ら二人の僧と、丸坊主頭の儒学者林羅山までもが人並みに鎧を着て徳川家康の前に現れました。
 どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、徳川家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた「我が陣にも三人の法師武者があるわい」 
 これは幸若舞「堀川夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊正尊を派遣した事件)の一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったもので、この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたということが「徳川実記」の中に記録されています。

◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。
 10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。
 女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367