八島(全文版)

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1 丸山の麓の家の風情
 さるほどに、判官(源義経)山伏姿にまねて、平泉を目指して奥州に下らせ給いけるほどに、七十五日と申すには遥か奥州に聞こえたる佐藤(氏が荘園管理をする)信夫の庄司(福島市の里)に辿り着き給う。
 判官(源義経)が武蔵坊弁慶を召され、東(暘谷、中国の方)から出て(扶桑、日本)照らしていた太陽が西の山の端にかかった、どこでも行って家の構えが良い家を見つけ宿取りを頼み給え。
 武蔵坊弁慶承って、我が背中に担ぐ笈には若君(源義経嫡男亀鶴、亀割山の峠にて御産有らせ給いし時武蔵坊弁慶が産湯を引かせ申した若君)を入れ申したれば、如何がは思いけん。
 仲間の亀井の笈と取り代えて、肩掛縄をつかんで肩に掛け、ここに上れば左手にあたって丸山(かっての奥州信夫郡の佐藤基治庄司の丸山城のあった小山)一つそびえて見える。
 彼の丸山の麓に、身分格式の高い二本の門柱の上に切妻破風屋根付きの門の家あり、此の家に宿を頼まばやと思い、堀の上に船を並べ板を渡した橋を渡り、笈を梅花に寄せ掛け、内の様子を見たりければ、古は由緒ある人の住まいと思われるが、住荒らしたると思ぼしくて、門は有れども扉無し、塀はあれども仕上壁が剥げ落ちて、瓦も軒も朽ち果てて、門は古苔がはびこり人の出入りの跡がない、つる草は壁を争い、屋根の軒は檜皮がこぼれ落ちて腐ってボロボロ、水が垂れ落ち手ですくって止める人は無し。
 さて、庭から見える客間座敷を見て見れば、一張の琴に一面の琵琶が立て並べて置かれているが弾く人の有らされば、常に松風吹き落ちて、さらりんと弾ひかんよりほかは、琵琶も琴も調べる人は無し。
 昔に変わらぬ物とては、南殿庭の桜、星の光、月の光と日の光、水の底にて年を経る蛙ばかりぞ音をば鳴く
 邸の中の荒廃した様子のいたわしさに宿を頼む事をはっと忘れ、しばらく佇んでいたが、西を眺めれば持仏堂と思しくて、天辺に宝珠瓦を乗せた屋根作りの御堂あり、立ち寄り拝み申すに、阿弥陀如来、脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩の三尊と柿本人麿の画像を掲げ、堂の周囲には理想郷をまねて四節の四季の風情を出している、荒れ果ててはいるものの四季を愛でる風情心ばかりは違えず。
 先ず、東は春に似て、中国の梅の名所大廋嶺(だいゆうれい)の梅の花、昔ながらの山桜、伏見小枝の花までも、木々の梢に咲き乱れ、鶸(ひわ)、小雀(こがら)、鶯(うぐいす)が軒先の梅の枝に羽を休め、音を出しかねている所には、けいけいほろろの雉子(きじ)の声、けいならば、けいとは鳴くして、何ぞや後のほろろの声、いつも春かと見えにけり。
 南は夏に似て、州浜を型どって池を掘らせたり、池の中に蓬莱、方丈、えい洲とて三つの島を築かせたる。
 島から陸地へは反橋を掛けさせ、橋の下には浦島太郎の釣舟と、理想郷を往来する舟に見立てた男女子供の乗る丸木舟を五色の糸にて繋がせ、常楽我浄(煩悩の苦も無く安楽)の風吹かば水際へ寄れと繋いだるは、いつも夏かと見えにけり。
 西は秋に似て、四方の梢の色づき、白菊絶えぬ風情。
 北は冬かとうち見え、山岳は峨々とそびえたり、炭焼の翁(老人)は己の衣は薄けれど冬を待つこそゆさしけれ、冬にもなれば炭を焼く炭窯の煙の青くて細く立ち上るは、いつも冬かと見えにけり。

2 尼公の山伏接待
 あら面白やとうち眺め、山伏の声あげて宿を頼む法のあらざれは、腰に付けたる法螺の貝の緒を解きのべて、武蔵坊弁慶が宿取りの法螺貝をしばらく吹けど人の音もせず、いやいやこれは誰も居ないようであると思い、立ち帰らんとせし所に、風も吹かぬに寝殿の妻戸(両開戸)がきりきりと鳴る。
 不思議やと思い音のする方を見てあれば、六十に余り七十に及びたる尼公が、朽ち葉(赤味を帯びた黄色)の小袖を髪に掛け、水晶の数珠を爪繰り、口に仏語(お経)を唱え、十三人の山伏達をつくづくと御覧じて、何もしゃべらず、我が子の事を思い出して先立つものは涙なり。
 承れば、御大将判官(源義経)がこの国へ御下向すると聞き申すが、我が子の佐藤継信、忠信が西国(平家)方にて討たれずしてお供申して下るならば、粗末な貧しい家に立ち寄り、宿取り立ったるらんも、これにはいかで勝るべきと、あれこれ思うと悲しみは今ひとしおで心の晴らしようがない。
 古(いにしえ)の山伏達はよく連れ給う時は、五人六人こそ御通り有りしに、この度は上下十三人御座ある中に稚児(変装した源義経の北の方)も一人ましますや、法は万法、行は万行とて万(よろず)の行のその中に山伏の修業ほど辛くて苦しいものはないと思う。
 あれほど美しき花の様なる稚児を馬にも乗せ申し下れかし、馬に乗せないのだったら若い山伏達の肩に乗せて下りなさい、肩に乗せないで意地悪く思いやりの心もなく歩かせ申す事のいたわしい事よ。
 稚児の父母の故郷にましまして、さこそ嘆かせ給うらん、私が毎日、自分の子供の事を思っているのと思いは全く変わらないだろうと涙にくれて立ち給う。
 尼公涙を止め、是は老体が住荒らしにて候、日の暮れさせ給わぬ先に、他所にて御宿を召され候へ、御宿は叶い候うまじ。
 武蔵坊弁慶聞いて、いやいやこの所にて宿を取り損じ、野宿になっては叶わじと思い、山伏の麻の法衣鈴懸けの着付けの乱れを直し。
 あら情けない尼公の仰せや、さっとひとしきり降るにわか雨を避けようとして、僅かの間、雨宿りをするのも深い因縁による事であると聞いています。
 漢の費長房という人は、鶴に乗って天に上ったとあり、丁令威は仙道を修得して鶴に化け郷里の城門の柱に止まったと言うが鶴の羽交に宿を借る。
 禅宗の始祖の達磨大師は蘆(あし)の一枝に乗り揚子江を渡り、張博望は古に浮き木に乗って天の河の水上を尋ねたと承り及びて候え。
 我等ばかりと思いなば、とても寝られぬ月の夜に、野に伏すとても力なし。
 御覧ぜられ候え法華経、陀羅尼品にいう、容姿美麗で始めは鬼女であったが、後には法華行者を護る神女となったという十種の羅刹女(せつにょ)の御跡を継がせ給うべき、稚児を只一人連れ申す、部屋内までが嫌ならば軒下だけでもお借りしたい。
 尼公聞し召して、実に実にもっとも御道理、この所にて自らのお宿を参らせずば、誰やの者が心有りて参らすべきや、こなたへ御出で候えとて、十三人の山伏達を中の客間に招き通された。
 各々移らせ給いて、山伏の勧行読経を読み唱えて罪の懺悔(ざんげ)すぎぬけば、酒徳利の一揃えには口に蝶形紙を飾り、女房たちに持たせ。
 尼公も出てきて、人の親の子を思う道程に哀れなる事よもあらじ、自分の子供の行方を知りたいために自ら立出で給い、何も知らない山伏達にむやみやたらに酒を無理強いなさった。

3 尼公の語り
 酒も半ばと見えし時、尼公、武蔵坊弁慶の袂にすがり、昼お宿を召されし時、都の人と仰せ候いしほどに、そなたの方より吹き来る風も懐かしく候う、もし御大将判官(源義経)の行方は知りませんか、知っているならば夢ばかり語ってお通り候へ。
 武蔵坊弁慶聞いて、さては我が君の御下向が遠国遠里に知れ渡り、老いぼれた尼をい出し問わするぞと思い、尼公をはっと睨んで。
 あらおかしの尼公の仰せや、それ山伏の名は世の常多しと申せども、御大将判官坊と言う名が有るなど初めて聞いて候へ、さりながら客僧は五人は五か国、十人は十国の者、知ってるわけも候わん、よその方へお尋ね候え、我等は知らぬ候とぶっきらぼうに答えた。
 尼公聞し召されて、実に実にもちっとも御道理、人の行方を問い申すとて、我が先祖を申さずして語りあれと申す程に、御語り無きは仕方がない。
 いでいで自らの先祖を語って聞かせ申さん、我は、陸奥出羽両国の藤原秀衡の妹(清衡の子息清綱の娘で秀衡とは従姉妹)で出羽の国信夫(しのぶ)の庄司佐藤基治の後家で、佐藤継信と忠信兄弟の母であるぞや。
 先年、御大将判官(源義経)がこの国に下りて佐藤基治と藤原秀衡を招集し十万余騎に着到つけ、御上洛(平家追討)の御時、君(源義経)はあの向かいに見える丸山の麓に御陣を敷かれた折、夫の信夫の庄司(佐藤基治)は酒や食事を準備して差し上げた。
 我が子佐藤継信と忠信兄弟は、君(源義経)のお供をすると申す、これを父佐藤基治がこれを聞し召し、やあ如何に、是より西国への御伴は国を隔て関を越えての遥々の道ぞ、我また老体にて、子供の姿を二度会い見ん事難し。
 兄お供申さば弟は国に留まれ、弟お供申さば兄は国に留まって、年取った両親を最後までみとって世話をせよ。
 兄佐藤継信が申しける様は、父佐藤基治の御諚もっともにて候に、弟忠信は国に留まり父母を慰め申せ、某御伴と申す。
 また弟佐藤忠信が申しけるは、大人しく年長者らしく兄継信が留まり、父母を慰め御申しあれ、某が御伴と申し、互いに聞き入れなかった。
 是が例えかや、諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、子不念父母、と説かれたり、諸々の仏は衆生を思い給えども、衆生仏を思い申さず、高きも卑しきも親は子を思えど、子は親を更に思わず、若き者共にて候ほどに、都を見れる嬉しさと申し、太刀よ刀よ馬、物の具と用意する。
 父佐藤基治殿御覧じて、力及ばせ給わず、佐藤継信と忠信の兄弟は源義経の郎党として西国へ赴く折、奥州三関の一つ白河の関まで君の御伴申し、駒を彼処に乗り放って、子供を人のいない静かな所へ近づけ。
 やあ、如何に兄弟よ、是より西国(平家討伐)の合戦は奥州の合戦とは違う、軽い見せ掛けだけの戦にてある間は、駆けるは安けれど引きが大事に有ると聞く、駆けうずる時も兄弟連れて駆け、又引こうずる時も兄弟連れて引け、思い思いに列を乱して兄弟離れて攻めかけるな。
 城を落とすならば高き所に廻れ、高き所に付いて落とすならば遥かの渚に下って小河に付いて落とせ、小川流れば大河に出でよ、大河に付いて落とすならばやあ必ず里に出るべし、鳥が群れて飛び立つならばその場所は負傷者や死者が居ると知って念仏申し通れ、沖に鷗訪れば敵の船と思え。
 西国(平家)方にて兄を討たせ、国元に候父が見とう候、母が見たいなんどとて、兄の形見を取り持って弟佐藤忠信国へ下って年取った私を見て恨むなよ、弟を討たせつつ兄佐藤継信、国へ下るなよ、かくは言いてあれど、花の様なる兄弟を死ぬとは更に思わぬぞ。
 ただし、弓取りは名こそ惜しく候へ、人は一代、名は末代、名に付いたらんその傷の末代までもよも失せじ、どうせ殿のお供をするなら命を大切にし手柄を出来るだけ上げ、庄司の家の名をも上げて下されと、はなむけの言葉を送って、君(源義経)に御暇申し宿所へ帰らせ給い。
 彼らが恋しき折々は、この者兄弟共が植え置きし花園山に立ち入り、常は慰み給いしが、明ければ継信恋しや、暮れれば忠信恋しや恋し恋しとの給いし、恋風や積もるらん、さて前世の定まった因縁の報いが来たのであろうか、一日二日と日が経つにつれ病が重くなり臨終となられた。
 自ら余りの悲しさに、未だ庄司存生にありし時、兄弟の者共に縅糸の擦り切れた鎧着せ、都へ上せたりつるが心に掛り思う也。
 鎧縅したてて(新調して)喜ばそうと思うとて、兄の佐藤継信は小桜を好めば小桜(あい地に白桜模様)縅の鎧を作った、さて弟の佐藤忠信は卯の花を好めば卯の花縅(白糸で縅した)の鎧を作った。
 今や遅しとかの者共持つしるしこそなかりけり、あらいたわしや庄司殿今を限りと見え給う、自ら悲しさに二領の物の具取り出し、二人の嫁に着せ申せ中門に立たせ。
 佐藤継信参りて候ぞ、佐藤忠信参りて候ぞ、のう父御前と申す時、今を限りの庄司殿、かっぱと起きさせ給いて、二人の嫁の鎧姿をつくづくと御覧じて、その古の面影の有るとのみ、ばかりにて今の心は慰みぬ。
 三月の名残には小桜ばかりや残るらん、四月の名残には卯の花ばかり残りけり、それ天竺(インド)の言い伝えに、恋しき人の面影を見んと思う時には、山に上がり池の角を叩いて駅路の鈴を振るとかや。
 中国の言い伝えでは反魂香という霊香を焼くと死者の魂が戻り煙の中に姿が現れるとされる、さて我朝(日本)の言い伝えには夢以外では絶対に見れない、是は現(うつつ)に面影を見つる嬉しさよ。
 恋しの佐藤継信や、あら恋しの佐藤忠信やと、これを最後の言葉にて明日の露と消えさせ給う。
 庄司に離れて三年に成り、子供と別れて七年、のう客僧と、の給いて袂を顔に押し当てて、はらはらと泣かせ給いけり。

4 武蔵坊弁慶の八島軍語り
 これを聞いていた判官(源義経)御座を立たせ給い武蔵坊弁慶を召され、今まで尼公がどういう素姓の人かと思っていたが、私の命の身代りとなって亡くなった佐藤継信と忠信兄弟の母親であったのかと分ったが。
 彼ら佐藤兄弟二人に一人召し連れて奥州に下ったる身にても非ず、何の面目があって昔の源義経だと名乗ることが出来ようか、武蔵坊弁慶心得て、彼ら佐藤兄弟二人の最期を余所ながら見たように語り、尼公の心を慰めてくれ。
 武蔵坊弁慶承って、御諚の如く不憫に候、語りい出して慰めようにて候とて、元の座敷に直り思いもつかないような変わった面白い物語を二つ三つ語り座敷の興を催し、今思い出した様子で両手を叩いて。
 その佐藤継信と忠信兄弟とやらんの最期所をこそ、この法師が見て候いしが、御望みにて候わば語って聞かせ申さんと言う。
 尼公聞し召されて、あら嬉しや候、彼らの行方を聞けるなら、十あれば十、百あれば百、有る物を全て出す処ですが、丁度これを持ち合わせて候とて、巻絹三十疋、武蔵坊弁慶の前に積ませられる。
 さて又彼らがためにとて縅たてたる物の具(鎧)を取出し、のうこれこれ御覧候えや、子供ら恋いしき折々は、この物の具(鎧)を取りい出し人にも着せ、掛けても置き、是を見てこそ慰みにし、客僧達に持ち参らせて、明日より後の恋しさを何に頼りて慰めん。
 さりとては力なし、子供らの行方を聞くためには明日の事をも思わず、いでいでさらば持ち参らせんと、二つの鎧の綿噛(肩)を掴んで引立て、武蔵坊弁慶殿の前に置く。
 佐藤継信と佐藤忠信の忘れ形見(残された妻子)、夫の行方を聞かんとて砂金百両を幸を呼ぶという三成橘の形に積ませつつ、四間の客間座敷へ抱き出て武蔵坊弁慶殿の前に置き、上から下に至るまで、物語聞かんとて目耳口の三戸を塞いで音もせず。
 比叡山西塔出身の武蔵坊弁慶、八島の磯の合戦を元々知りたる事なれば、始めより終わりまで、事細かにぞ語りける。
 年号は元暦元年(1185)、頃は三月下旬、四国讃岐の八島の磯を通りし時、源平の合戦(屋島の戦い)真っ最中と見ゆる。
 その時、山伏六人候いしが、二人は見ないという、三人は通らんと言う、中にもこの法師、人は何とも思わば思え、かようの事を見置きてこそ、熊野に罷り帰りて人にも語らばやと思い、肩から笈を下ろし小松の枝に掛け置き、遥かの渚に下って、源平の合戦を静かに見物していると。
 申の半ば(午後四時)の事なるに、沖の御座船より六尋(十メートル)ばかりの小舟一艘をざわざわと波しぶき上げて押してくるのを見れば、人三人乗ったりけり、一人は舵取り一人は童、今一人は大将。
 大将とおぼしき人の肌には何をか召されけん、大口袴の股立ちを紐に深く挟み上げて、卯の花(白糸)縅の鎧召し、兜の下に付ける柔らかい梨子打烏帽子をおっ被り、白綾たたんで鉢巻にむずと締め。
 びょうどう作りの五人張りの強い弓の真ん中握り横だえ、手に矢を持って、陣屋正面波打ち際へ、船をざわざわと波しぶき上げて押さす、陸が近く成りしかば、船梁(ふなばり)につつ立ち上がって大声上げてぞ名乗られたる。
 ただ今ここ許に進み出でたる兵(つわもの)はいかなる者と思うらん、一品式部卿(桓武天皇の第三皇子)葛原の親王に九代の後胤、門脇(平清盛の異母弟教盛)の二男、能登の守平教経、惣門の渚へ度々において通うといえど、未だ東国の大将(源義経)に御目にかかっていない、東国の大将に見参。
 とぞ名乗られける、源平ともに鳴りを静め、名字名乗りを静かに聞く。
 また、源氏の陣よりも大将と思しき人の進み出でさせ給う、肌には何をか召されけん、赤地の錦で作った鎧直垂、朱色の染革で縅した緋縅の鎧、同じ緋縅の五枚兜に鍬形打って竜頭据えたるを猪首に少し後ろへずらして召され、腰には先祖伝来の腰刀、二尺七寸の金作りの御佩刀、紐を長めに腰に吊り下げ、二十四本の切斑(鷹の尾羽の白地に黒縞模様の羽)の矢、矢筈が肩越しに見えるよう高く差し背負って、三人張りの弓の真中握り。
 丈が四尺七寸(142センチ)の真黒なる馬に、金で縁どりされた鞍置かせ、御身軽げに召されたつしが、味方の中をしずしずと歩ませ出で、敵との間合いが近くなったところで、鐙を踏ん張り鞍笠に突つ立ち上がって、大声上げてぞ名乗られける。
 ただ今ここ許に進み出でたる兵(つわもの)はいかなる者と思うらん事もおろかや、清和天皇に十代、源九郎義経、惣門の渚へ度々において向かうと言えど、未だ能登殿(平教経)とやらんに見参せず、能登殿ならば華美な珍しい初めての対面、見参、とぞ名乗られける。  
 能登の守平教経殿この由聞し召されて、大将の御目に懸りたるしるしなくて候べきか、弱兵にては候えども戦闘用往矢一筋奉らんに、何処へ、狙いどころを承って仕らんと有りし時、源氏の御大将(源義経)逃れ難くや思いけん、腰よりも紅に日出したる扇を抜き出し、はらりと開き、胸板をほとほとと音づれ、矢を射る距離は程相成り候ぞ、ここの所へ遊ばせとぞ仰せける。

5 佐藤継信、判官の身替りになる
 矢は源義経に狙いを定め既に御命危うく見え差す処に、また源氏の陣よりも白黄紺三色斜め段々に染めだした伏縄目染革で縅した鎧着て、白っぽい葦毛の馬に乗った武者一騎駆け出で、君の矢面(やおもて)に駆けふさがって大声上げて名乗りよう。
 ただ今、陣頭に進み出でたる兵(つわもの)をいかなる者と思うらん、奥州の住人に佐藤の庄司が二人の子、兄の継信也、能登殿(平教経)の長い大矢を真直中(まっただなか)に受け止めて、あの世に行って閻魔大王の審判での訴えの証拠しようと呼ばわったり。
 能登殿(平教経)この由聞し召し、なんと剛なる兵(つわもの)かな、一騎当千(一騎で千騎の敵に対する事が出来る程の武勇)とはかかる者を言うらん。
 主君の身代わりを勤める忠義の侍を平教経の手に掛け射落としてあればとて、負けるだろう戦いに勝てるということでもない、又助けてあればとて、勝てないだろう戦に負けるべきにもあらばこそ、心ざしの侍を助けてこそと言って、つがえていた矢を緩めおはずしになった。
 敵の見事なる処に、能登の守平教経の配下にいた童(下人)の菊王丸がこれに反対して意見をいうには、のう、御諚にては候へども佐藤継信と忠信兄弟は剛の者にて候ぞや。
 それを如何にと申すに、一ノ谷や八島での我軍が破れて退却する際、ここかしこで佐藤継信、佐藤忠信と名乗りをあげており、先帝、女院の御座船をも敬い慎む事もせず、古い錆びた矢を射かけし狼藉人(乱暴者)にて候ぞや。
 その上、軍陣にて敵一騎討たるれば味方千騎の強み、味方一騎討たるれば敵千騎の強みと承って候ぞや、その上、彼の者共は異国(中国漢)の樊噌(主君劉邦を敵将項羽の手から無事に逃したはんかい)や張良(劉邦の臣で兵法家として著名)をしのぐほどの武士でございます、武運を守る神への御供え物として早く一矢を放ってくださいと支えたり。
 能登殿(平教経)この由聞し召し、殊勝なる言い分である菊王丸かな、その儀にて有るならば、中差(戦闘用往矢)一筋取らせんと、十五束の長い三つがけの幅広、矢じりを剣のように磨いたる大矢を五人張りの強い弓に、からりと番(つが)い。
 弓を強く、きりきり引絞り、矢先を拳に掛け、えいやっと勝(引き)手を引き放った一矢は、門を打ち破る棒のように強く一陣に向き進んだる、さても、佐藤継信の胸板にはっしと当たり、血煙がぱっと立ち、鎧の背中までぐっと抜けにけり、無残や佐藤継信、最後はあっぱれであった。
 返しの矢を討たんと弓と矢をうち番いうち上げて引かん、おう放さんと二三度、四五度矢を放ちけれども、剛弓の射手の大矢に肝の真っ直中(まっただなか)を射抜かれた、どうして堪えることが出来ようか、弓と矢をば、からりと捨て左側の鐙を蹴り放って、駒の右側にかっぱと落馬した。
 今思えば、貴方様の御子息がいたわしさよと語りけり、二人の嫁、三人の孫、尼公もろ共に一度にわっと叫びければ、源義経を始め奉り十三人の人々も、八島の磯の合戦を只今見る心地して、涙で山伏衣装鈴懸の袂を絞られけり。

6 忠信に射られた菊王丸の死
 尼公涙を止め、佐藤継信は、その負傷で死んでしまいましたか、弟の佐藤忠信は、さて何となりて候ぞ。
 判官(源義経)聞し召されて、なおも末を語って聞かせよ、と思し召し武蔵坊弁慶の方を御覧すれば、武蔵坊弁慶やがて心得。
 あら無残や佐藤継信、その後、遠浅の事なるに兜の内側の緒が切れて髻(たぶさ)は波に揺られぬ、かかりける所に、能登殿(平教経)の童の菊王丸が、何さま佐藤継信の首を取って見参に参らんと、船より海に跳んで下りたのを。
 佐藤忠信この由見るよりも、兄の首を平家方へ渡しては弓矢(武士)の恥辱(不名誉)ぞと思い、四人張の強弓に十四足の長さの矢を取って、からりとうち番(つが)い引いてちょうど射た。
 あら無残や菊王丸が勇みに勇んで下り立ったる膝頭にしたたかにぐっさり突き立った、一命に関わるような重傷なので、対戦することも出来ず、尻もちついてどっと倒れる。
 佐藤忠信この由見るよりも、童の首取って兄の弔のために仇討ちをしようと駒をかしこに乗り放って、太刀を抜いて振りかざし、全力で菊王丸に近づいていった。
 能登殿(平教経)これ由御覧じて、少しの間でも自分の陣内にいた下僕の首を、源氏方に渡しては弓矢の恥辱(武士の名折れ)と思し召し、船から飛んで下り菊王丸の鎧の腰の上帯かい掴んで、船の内へえいやつと言うて投げ入れられけり。
 あら無残や菊王丸この手にて看病するならば、死なずに済んだものを、大力にての船の両舷に渡した板にしたたかに投げつけられて、頭微塵(みじん)に砕けて遂に死んでしまったりけり、発端はちょとした事の様であったが、源氏に侍討たるれば平家にも郎等死んだりけり。

7 源平の駆け合の合戦
 能登の守平教経この由御覧じて、鎧の隙間を探し当てて見事に射当てる佐藤忠信に、直中通され給いては叶わんと思し召し、沖へ船を押し出させらるる。
 門脇の平宰相(能登の守の父平教盛)は、能登の守平教経こそ陸の合戦に負けてしまったよ、能登の守平教経を討たせるなよ、よう続け兵と仰せけり。
 承(うけたまわ)ると申し、平家方の筑紫大名に大友諸卿、菊池(隆直ら)、原田(種直ら)、松浦党、惟任、戸次、山住、この人々を先として七百余騎には過ぎざりけり、船一面に押し並べ馬共をば海上に追い引いて船腹に離れないよう引き寄せ引き寄せ波音立てて泳がせらるる。
 陸近く成りしかば、駒を引き寄せ引き寄せひたひたと打ち乗りて、一枚板の楯を馬の頭に付きかざし七百余騎が牟礼(八島の南)から高松へ一度にさっと駆け上げたり、源氏二百余騎、面の広い折り畳みの楯、一面に突かせ矢を一斉に射る、差し取り引き詰め散々に射たりけり。
 平家の軍兵どもは、一支えも支えずし、渚へさっと引いたりけり、悪七兵衛景清これを見て、憎し、汚し、返せ、戻せと喚(おめ)き叫んで駆けにけり。
 源氏二百余騎矢種尽きれば打物の鞘をはづし、わっと言って駆け合わせ、平家の追わるる時もあり、源氏の追わるる時もあり、追いつ捲(まく)つつ、騎馬戦で正面からぶつかり合い駆けつ戻いつ、申の半ば(午後四時)より酉の下り(午後七時)までは駆け合の合戦に、源氏平家疲れつつ、敵味方同時に後方へさっと退きたりけり。
 比叡山の西塔出身の武蔵坊弁慶がこの由を見るよりも、是非、それがしも一合戦仕り、見参に参らんと好む所の長刀を水車に回して、西塔の武蔵坊弁慶が只今駆けるなり、平家方の軍兵ども、憎し、汚し、返せ、戻せと大声上げてぞ駆けにける、平家の軍兵共は、武蔵坊弁慶が駆くるを見て中を開けて通しけり。
 元より武蔵坊弁慶、敵に逢うて早き事、猿が梢を伝う様に目にも止まらぬ速さで、荒鷹が雉子(きじ)を見つけて小屋を潜り抜ける如く、中国のしうちくわいが、天下の要害、函谷の関所を破って敵に逢うが如くなり。
 元より武蔵坊弁慶、腕の力は覚えたり、長刀の鉄は良し、長刀を取り延べて、向かう者の真向、逃げる者の鎧の背中、兜の母衣付の鐶、腰の上部、胴中、腰に巻く鎧草摺の余りを当たるを幸いに、ばらばらと音を立てて切ったりける。
 手許に進む兵は三十六騎はらはらと切り伏せ、大勢に手負いさせ東西へばっと追い散らし、長刀肩に打ち担げ、おう味方の陣へ引きたりける、武蔵坊弁慶の有様は全く樊噌(中国の武将はんかい)もこうかと思わせる戦いぶりだった。
 平家の軍兵共船よりも上がりし時は、七百余騎と見えしかども、二百騎ばかりに討たれなされ、沖へまばらにさっと引く、源氏二百余騎も八十三騎にうちなされ、瓜生山(牟礼高松の中なる丘)に上がり各々陣取り静まりければ、戌亥の刻(午後九時ごろ)にぞなりにける。

8 佐藤忠信、瀕死の兄継信と再会
 判官(源義経)、夜に静まりければ武蔵坊弁慶を召され、奥州の佐藤忠信は、いずくにあるぞ連れて参れと指示された、武蔵坊弁慶承って御前を罷り立ち、この辺に奥州の佐藤忠信殿はましますか、佐藤継信はいずくにあるぞ、大将の御召しのあるにて早く御参りあれと声高らかに呼んだ。
 あら無残や佐藤忠信は昼、兄の佐藤継信が負傷したと分ってからは戦う気力も起こらず、とある山の端に、そちらの方ばかりを見送り心細げにて立ちたりしが、大将の御召しと承って武蔵坊弁慶と連れて君(源義経)の御前に畏(かしこ)まる。
 判官(源義経)御覧じて、如何に佐藤忠信、兄佐藤継信の行方は知らぬか、佐藤忠信承って、さにあり、兄にて候者、昼、手負いぬると見候いしかども、騎馬掛け合い合戦に暇なくして、その行方をも存ぜずと申す。
 おう、それはさぞ有あらん、未だ存命であるならば問うべき子細あり、又死してもあるならば、供養を手厚くしなければならない、早疾くとく(急げ)との御諚なり。
 佐藤忠信承って、あら有難の御諚や候、御命令されなくても探し出したく思いしに、まして御諚の上、承知、と答えて御前を立ち、自分の後見役である傳(めのと)に信夫(しのぶ)の十郎光遠を供として遥かの渚に下りけり。
 頃は三月二十日余りの事なれば、月は出ずして道見えず、涙ぞ道の導(しるべ)なる、太刀を杖につき遥かの渚に下りつつ、昼の軍(いくさ)場はこの辺ぞと思いて、牟礼、高松の西東、州崎寺の堂の北南、渚に添って尋ねけり。
 この辺に奥州の佐藤殿やおわします兄継信はましますか、と静かに呼んでぞ通りける、戦乱の時なれば手負い死人の伏したるは、あたかも算木を乱したように散らばっている。
 手負いどもの苦しみうめく声、耳に触れて哀れなり、乗り越え乗り越え尋ねるに、いとぞ哀れぞ勝りける、牟礼高松の事なれば、州崎寺に寄せる波の音、浜千鳥の友呼ぶ声、我を問うかと思しくて心細さは勝りけり。
 あら無残や、佐藤継信は大事の手負いてありけるが、弟の佐藤忠信に最後の名残や惜しかりけん、死にもやらずして、浜に引き上げられた揚げ船の辺りに、下人の男に看病せられていたりしが、弟佐藤忠信の声を聞き、磯打つ波と諸共に誰ぞよとこそ答えけれ。
 佐藤忠信、(兄を見つけ)余りの嬉しさに、するすると走り寄り、傷の具合は如何ですか御気分は如何でしょうか。
 兄佐藤継信聞いて、我が身の事をば何とも言わずし暫くありて息をつぎ、味方は如何程に討ちなされてあるぞ、大将(源義経)は御手も負い給わぬか、さて、おこと(お前)は手負わぬかと心配する。
 弟佐藤忠信承って、さにあり、味方は僅か八十三騎に討ちなされ候いぬ、大将(源義経)御手も負い給わず、私も手負わず御心安く思し召せ。
 兄佐藤継信聞いて、あら嬉しいものかな、その儀にて有るならば未だ今生に息の通う時、大将(源義経)の御目に懸りたいぞ、連れて参れ。
 弟佐藤忠信余りの嬉しさに、州崎寺の堂よりも戸板を急ぎ取り寄せ、兄佐藤継信を担ぎ乗せ参らせて、先を佐藤忠信が担ぎければ、後を信夫の十郎光遠ぞ担ぎける、涙ぞ道の導(しるべ)なる。
 武蔵坊弁慶殿、常陸坊海尊殿、亀井、片岡、駿河殿、弓取りと申すは、今日は人の上、明日は我が身の上ぞかし、いざや佐藤継信を見守ろうと遥かの渚におり下り、佐藤継信を介抱して牟礼高松に上がりければ、東の山の端に月ほのぼのと出でにけり。

9 佐藤継信の最期
 早担いで参りたる由を申す、判官(源義経)聞し召されて近くへ連れ参れ、承ると申して御座間近くに担ぎ寄せれば、かたじけなくも判官(源義経)御座を寄せさせ給い、佐藤継信の頭をお膝の上にかき乗せ給い。
 手は大事なるか、心は何と有るぞ、思い置く事あらば只今申せ、明日になれば奥州に使いを出そう如何に如何にと仰せけれども、御返事をば申さず、うちうなづいたるばかりにて、体の中から苦しみうめく声あり。
 和田義盛、秩父の畠山重忠、左右にして、あら無残や佐藤継信、いくら勇猛な武士であるといっても最期近づきぬれば力なし、不憫なる次第かなとて、各々涙を流されけり。
 後にて介抱する弟の佐藤忠信、手負いに力を付けようと思い荒だった声を上げ、何とも不甲斐ない佐藤継信の様子や候、例え事にて候はねども。
 鎌倉権五郎景政(故源八幡太郎義家様の臣)は、(奥州後三年の役にて安倍貞任の城)厨川の城にて鳥の海の弥三郎(安倍宗任)に、左の眼を射られ、その矢を抜かないで矢柄を折って三日三夜持って廻り、返しの矢を射ってこそ(その剛毅さを神威として)今鎌倉の御霊神社に祀られ給うと承れ。
 それほどこそおわせずとも、このような細矢一筋に左様に病み病みと弱り給うか、かたじけなくも枕元にいるのは、祖父以来三代(母は藤原秀衡の従妹、音羽御前)に渡って恩恵を受けている主君であり左側は秩父の畠山重忠、右側は和田の義盛也、後にてかように申すは弟の佐藤忠信にて候ぞや。
 どんな事でも全て御前で申させ給へとて、さしもに剛なる佐藤忠信も、今の別れの悲しさに肩から籠手まで覆う鎖を濡らしけり。
 佐藤継信聞いて、何と申すぞ弟忠信、権五郎景政は、厨川の城にて鳥の海の弥三郎(安倍宗任)に、左の眼を射られ、返しの矢を射ちけるよな、それは軽症の傷であったから三日は持って廻りつらめ、勇猛な所は権五郎景政に、この佐藤継信が劣るはずはないが。
 能登殿(平教経)の大矢は大国までも隠れなきに、真ん中を射通され、この佐藤継信にて有ればこそ、今までも永らえ御前で物を申せている、えい、今は励まそうと何を言っても無駄な話だ、国へ形見を下すべし、肌の守りをば、老いたる父母の二人に一人永らえてもましまさば、親よりも子が先に死ぬ雪見窓から見える雪の重みで折れた竹のように物事は逆になってしまったが、形見に是を参らせん。
 鬢(びん)の髪をば若共の母に取らすべし、鞭と弓懸けは二人の若に取らすべし、太刀をば父信夫(しのぶ)の庄司佐藤基治に取らするぞ、鎧は縅糸が古くなって毛切れしたりども、お前が取って着て佐藤継信に添うたと思うべし。
 心して佐藤忠信よ、佐藤継信憂き世に有るように、心遣いを仕りて傍輩に憎まれ申すな、御暇申して我君(源義経)、暇申して傍輩達、あら名残惜しの弟佐藤忠信よ。
 高声で念仏十編ばかり唱えしが、かすかなる声を上げ、武蔵坊弁慶殿はいずくにぞ、弟の佐藤忠信をひいきにして行く末を守って下さいと言い捨てて、惜しかるべし、惜しむべし、朝の露と消えにけり、上下万民押し並べて哀れと問わぬ人ぞ無き。

10 源義経、愛馬を供養に手向ける
 判官(源義経)これを深く悲しんで、佐藤継信を今すぐにも手圧く供養すべけれども、昼、平家負け戦にて有る間、若しや夜討ちを掛けて来るかと要塞を作って怠らず警戒しておられ、明ければ志度寺の道場の聖を呼び寄せ、供養を懇ろにし給う。
 あら無残や佐藤継信、たびたび所望していた事を叶えていない事の無残さよ、佐藤継信の所望とは他の事にても候わず、あれに候太夫黒の事、先年源義経奥州へ下り、佐藤基治と藤原秀衡を招集し十万余騎に着到つけ、上洛(平家追討)の時。
 藤原秀衡入道、大黒、小黒という名の二疋の馬を秘蔵して持つ、小黒と言うのは、あの馬より背丈抜群に高く候けれど臆病であるため小黒と名付け、大黒とはあの馬の事、藤原秀衡入道申せしは。
 それ弓取りの戦場に臨んで手柄を立てるには、先ず馬が良い事と武具が頑丈であることが第一であるから、この馬に乗って、御大将源氏の世をお開き下さいとて、物の具一領押し添えて差し出す。
 我の手に渡り乗り心地良し、足の速き事は飛ぶ鳥なんぞの如くなり、雅楽の曲名になぞらえて青海波(せいがいは)と名付ける。
 鎌倉殿(源頼朝)所有の生食(いけづき)、磨墨(するすみ)という馬、蒲殿(源頼朝の異母弟源範頼)の虎つき毛の馬、我所有の青海波とて、我が国にこれ以上の馬は無し、
 元暦元年正月二十日に、源義仲征討で源義経は搦め手(後方攻め)の大将軍として宇治川を渡河して木曾勢を破り。
 同じき二月七日に一ノ谷の背後の鉄拐山から攻め下り平家の首多く取って東洞院の大路を北へ渡して院の御目に懸り、五位の検非違使の尉、判官(左右の衛門の尉)に成され申す。
 その時、馬も源氏の勝利の幸運をもたらした馬なればとて、かたじけなくも天子の言葉にて太夫黒(鵯越を行なった名馬)と任命する。
 されば、醍醐天皇の御時は、白鷺を抱き取って五位に成されし例こそ候へ、馬の太夫司は例稀なりとて太夫黒にぞ任命せられける。
 東寺四塚の辺りにて、あら無残や佐藤継信、源義経の近くへ駒かつしかつしと歩ませ寄せ、あっぱれ御馬候や、奥州にて見申せしよりは背丈大きく成って候、どうぞこの御馬を賜われかし、君の真っ先駆け討死仕らんずる、命は露塵ほども惜しからじと度々所望せしかども、その頃佐藤継信に劣らぬ忠の武士の多し。
 他の者に恨まれないようにと思い、これまで与えなかったことが不憫であるよ、最期なれば佐藤忠信引きとうこそ思うらん、よしよし、恩を受けてその恩に報いる心を持たない者は人間ではない。
 いでいで、源義経も太夫黒引いて命の恩を報ぜんと、かたじけなくも御手を太夫黒の轡金具に掛けさせ給い、佐藤繼信の死骸の回りを彼方此方へ引き回し、その後弟佐藤忠信賜われり。
 実にや佐藤継信この世にて欲しし欲ししと思いし念や通じけん、馬は北国故郷を懐かしみ北風にいなないて白泡噛んで遂に空しく成りにけり。
 人々はこれを見て、正しく佐藤継信給わりて冥途まで乗って行ったのだとは言わぬ者こそ無かりけれ、伝え聞く大国(中国唐代の)の太宗皇帝は、髭を切って薬に焼き功臣に給う、傷を癒し血を含み戦士を撫でてやれば、大切な命も義の為には少しも惜しくない、命は主君の恩に報いるために捧げる。
 如何にもその身の殺さるる事を傷まないだろう、日本の源義経は忠ある侍に太夫黒を引かれけり、これを見る人々、いよいよ勇みあるべしと感ぜぬ人はなかりけり。

11 佐藤忠信の事と義経の名乗り
 明くる日の合戦に、源氏の軍は七騎に討ち落とされ、(平家船に取り乗って)志度の浦(讃岐国)へ漕ぎ退く、松ヶ鼻という所に陣取ってまします。
 熊野の別当湛増(熊野権現の託宣で白赤鳥合わせの結果で熊野水軍二百余艘で加勢)一千余騎の勢にて味方に参らるる、源氏の御勢一千余騎になり給い、おごる平家を事故無く平らげ、三種の神器(皇位のしるし)事故なく都に帰し給いけり。
 弟の佐藤忠信は、(都を落ちて西国さして大物浦を船出した源義経主従が遭難して吉野山中へと逃げ籠った時)吉野山までお供し、吉野山にて大衆達の心変わりの有りし時。
 その時、佐藤忠信、判官の司(役職名)と大将着用の着背長(大鎧)を申し賜わり、源義経の身代わりとなり、たった一人嶺に留まって、判官殿と名乗りて吉野法師を待ち受け、散々に合戦しそこにても討たれず、(見事、源義経一行を逃がした佐藤忠信は)都へ上って(潜伏先を襲撃され、奮戦するも多勢に無勢で自害)腹切って空しくなる。
 その人々の事ならば、今生の対面は思いもよらぬ事なり、念仏し給えとて、武蔵坊弁慶殿が笈より兄佐藤継信の形見、佐藤忠信の形見を取り出し候いて、尼公にそれを奉る、尼公形見取り上げ顔に当て、胸に当て涙を激しく流され悲しむ、何に例えん方もなし
 判官御覧じ、色々気を使って何時まで隠して置くべきだろうかと思し召されける間、是こそ古の源九郎源義経と、とうとう自分の正体を名乗り有ければ。
 尼公承り、子供の事はさておきぬ、祖父以来三代に渡って恩恵を受けている主君を拝み申すこそ嘆きの中の喜びと、喜ぶ事は限りなし。
 此処へ暫く留め申して、平泉の藤原秀衡に使者を立てにけり、藤原秀衡喜んで嫡男西城戸太郎国衡、二男藤原泰衡を先として、三千余騎の勢にて源義経一行を御迎えに参り、平泉へ入れ申す。
 源義経を衣川高館と申す所に新築の御所を立て、柳の御所と申して、出羽の国の秋田、酒田、陸奥の国の津軽、合浦、外の浦からの毎日食膳を設けて饗応し、大切にお世話申し上げた。
 かの藤原秀衡が心中をば、貴賤上下おしなべ、感ぜぬ人はなかりけり。
  
(参考)

◎ 越前幸若家の系図類によれば、幸若舞「八島」は幸若舞の始祖である桃井幸若丸が最初に節付けに成功して、幸若舞を創設したとする由緒のあるもので、名曲の一つである。

◎ 幸若舞の創設者は、幸若太夫初代の桃井直詮(1393-1470)で幼名を幸若丸といい、幸若丸は祖父で足利武将の桃井直常の弟直信の子が比叡山に出家していたのを頼り十歳の時に比叡山に入り修行に励みました。
 生まれつき声の良かった幸若丸は、平世和漢の学を好み、ある時「屋島軍記」という草子に節句を付けて歌ったところ叡山で評判となり、後小松上皇(1377-1433)の耳に入ったことで参内して音曲を奏しますと、今後「幸若音曲」と奏してもよいとの言葉を賜ったというわけです。
 その後、越前国(福井県)に下り白山権現(現平泉寺白山神社の三社の中の社の雉子神)に頼って、さらに芸を磨き奥義に達したと記録にあります。
 幸若舞発祥の地である北陸福井県越前町朝日は、泰澄が白山開闢の折、白山権現の使者三足の白雉子に衣の襟をくわえ山頂の方角を教えられたという霊峰白山で修業し、元正天皇の病気平癒を行い、役行者に次ぐ「日本第二の行者」と呼ばれた泰澄大師が初めて修行を始めた地(越智山)でもあります。その後桃井直詮が、後花園天皇(1428-1464)に召され太夫の称号を授かり、初代の幸若太夫として京の都を中心に活躍します。(幸若家記録、朝日町教育委員会)

◎ 桃井直詮(幸若丸)の肖像画の中に、
「曾(かつ)て貴人の御殿にて、名誉を発し尊卑ともに袖を連ねあるいは牛車馳せて、語り舞う源平合戦の精妙さを見に集まった、だがそれが白山の神の助があって初めて生まれた舞の技であることを誰が知ろうや」との越前朝倉一乗谷の曹洞宗寺院「心月寺」の二世住職である海闉梵学(かいいんぼんがく)の賛令文が付いている。

◎ 桃井家由緒書には、桃井幸若丸は音声の修業に専念した白山大権現を拝み詣でた所度々不思議の示現を賜わる、ある時白山幽谷に於いて雉の一声を聞いて、「八島」舞中のほろろの節を発明したとある。
 また、「管見記」の1442年(嘉吉二)5月8日に「当時諸人弄翫せしむる曲舞あり。家僕等勧進によって今日南庭においてこれを舞うこれを二人舞と号す。音曲舞姿尤も感激あり」と公卿西園寺邸を大夫が訪れ南庭での舞が披露された。西園寺公名を感激させた曲舞は、その音曲・舞姿が素晴らしかったことでこれが評判になり、次に推参し披露(5月22日)された時には「見聞の衆前に満つ」見聞衆が満員の有様であった。その後(5月24日)幸若太夫が礼参りに来てその名が知れ渡った「幸若太夫先日の礼と称して来たる」とある。

◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。
 10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。
 女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367