【幸若舞曲一覧(リンク先)】
【白山信仰と幸若舞(リンク先)】・【幸若舞完成と白山平泉寺(リンク先)】・
幸若舞「清重」中で、伊勢三郎と駿河次郎が源義経の命を受けて源頼朝打倒の同志を募る廻文を廻したが、駿河次郎が召し捕られた、この廻文が、源頼朝の手に渡り、怒った源頼朝が奥州攻めを決意する。
1 源義経追討軍の勢揃
さる程に、鎌倉殿(源頼朝)は梶原景時を召され、如何に梶原景時承れ、源義経の謀反において疑う所なし、急ぎ源義経を退治し代を治めんとの御諚にて、長崎四郎(藤原秀衡の家臣)に三百余騎を下され急ぎ奥州にも着きしかば。
源義経追討軍への参加を促し軍勢を揃えて、奥州藤原秀衡の死後家督を継いだ藤原泰衡の館へ合流し、照井太郎高直(藤原秀衡の家臣)を書記役に参加人名簿表を作らせる。
まず 故藤原秀衡の惣領で二男の藤原泰衡、次に秀衡の長男西城戸太郎国衡、秀衡の四男四郎元吉冠者高衡、樋爪五郎季衡、玉造のまくら殿御兄弟。
その外の人々に、けつそ弥七、木原源五、雲井小太郎、あつせ行部、中島ようとうじ、松島、玉造、小島の兵頭を先として、名のある武将七百余騎、その他都合兵、七千三百余騎と早、参加人名簿表に書かれたる。
そもそも頃は何時ならん、文治五年閏四月二十七日、今日はお日柄が良くなく明日辰の刻に向かうべしと定め、平泉周辺の太田、山口、中村地区にすでに陣取って待機していた。
2 熊野の鈴木、高館下着
さても平泉館の高館山に有る源義経の住む御所には、敵向かう由を聞し召し侍達を召さるるに、宵までは侍八人、大将共に九人と聞こえしが、次日の合戦に侍九人、大将共に十人になった由来を詳しく尋ねるに、それは、紀州の住人で熊野三党の一つ鈴木党の三郎重家の話なり。
ある夜、鈴木三郎重家が女房に語りけるは、それがし思う事ありて、この夜明け方には奥州へ罷り下り候べし、自分の思い通りに奥州へ向かい、君(源義経)がめでとうましまさば、来年の夏の頃には便りの文を参らせん。
夏の頃もしも過ぎて便りがなければ、この世は予想もつかないのが常の事、旅の途中ではかなく死んだものと思し召し後世を弔い、後をば頼み奉る、暇申してさらばとて。
もともと鈴木三郎重家、熊野育ちの人なれば、山伏の姿に様を変え笈取って肩に背負いもの憂き竹の杖を突き、その竹の節々に夜を籠めて(夜の明けきらないうちに)、紀州藤代(現海南市)を立ち出でて、早、九重(皇居の有る都)に着きにけり。
人目を忍ぶ旅ならば、いつしか花の都をば霞と共に立ち出でて、大津の浦より船に乗り海津の浦(滋賀県マキノ町)に上がりつつ、北國道の憂き難所を下らせ給いけるほどに、人の宿を貸さざれば、破れた堂、寺、岩の洞、神官の居ない荒廃神社をば、宿なきままの宿として、七十五日目と申すには、奥州衣川の高館の(源義経)御所に着きにけり。
鈴木三郎重家、何を思ったのか、笈、山伏衣装の鈴懸をば傍らに取り隠し、笈の中から旅衣装の打駆を取出して着るままに、網目十二の編笠を深々とひっ被って、高館殿(源義経の館)の様子を心静かに見奉るに。
紀州藤代にて聞いていた時は、日直宿直等の兵や訴訟に来る人々が、さながら御内に満ち満ちて、門外に馬を止める場所もないほど人の出入りが多いと聞き及んでいたのに、これは何と寂しい事よと不思議に思い、門の唐居敷に腰掛け、高館内の様子を窺っていた。
3 源義経主従の最後の宴席
さても、高館の御所には、敵が向かう由を聞し召し、源義経は侍達を召さるるに、何時も変わらぬ武蔵坊弁慶を先として以上八人君(源義経)の御前に畏まる。
判官(源義経)御覧じて、如何に、方々が手に懸け首取って関東へ参らせ、勲功の賞に預かれば、この源義経への奉公の忠義だてとして、義経の後世を弔えばよいではないか、如何に如何にと仰せけれども、御返事を申す者はなし。
片岡太郎経春と亀井の六郎重清が目と目をきっと見合せて、是は残念な御諚かな、誰が我が君のお首を給わって鎌倉へ降参をば申しましょうか、今まで落ちなかった人々は、皆お供とこそ思し召すらん、そうは申すども、この中にも落ちんと思う人の有れば平に暇を申して落ちよ、誰も恨みは残るまじと、座敷をきっと見渡せば。
吉武、源八兵衛広綱一同に、涼しく(さっぱりと)申されたるものや、誰もかように申したき御返事にて候ぞや、思うに敵は夜明方に寄せて来るだろう、軍勢を正面と背面との二手に別けるにちがいない、味方はたとえ無勢なりとも両陣に群がって戦は火花を散らす激しさになろう、まだほの暗き早朝に、あれは追手、これは搦め手なんどとて、声をば聞くとも姿は見えじ。
我も人も心静にある時に、上へ申して御酒給わり最後の名残を惜しむべし、もっとも然るべしとて、種々の大瓶(かめ)、大竹筒を座敷に出すよう申しあげ、君も御出ましまして、女房たちの御酌にて上座に盃が準備されたので。
下座は以上八人一献ごとに銚子と肴を改めた膳を三回出すもてなしの三献の酒の儀式過ぎれば、後には互いに人乱れて思い思いに盃を取り交わし、自分で酌し自由に楽しみ、舞いつ歌いつ飲むほどに、亀井六郎重清が飲んだる盃を武蔵坊弁慶殿に思い差し、立ち上がって扇の拍子で舞をぞ舞いにける。
蓬莱山には千年経る(ちとせふる)、松の枝には鶴巣くう、巌(いわお)が方に亀遊ぶと、舞の型の、しほり、三頭、鴨の入れ首、シギの羽返しをさっとさひて祝言の舞を立ち廻る所にて、門外に目をやれば、編み笠目深く太刀を脇に挟んみ唐居敷に腰掛けた者が、亀井六郎重清の舞を聞いている。
4 兄鈴木、弟亀井兄弟の再会
亀井六郎重清も、あれは誰かと思いしが、実にと思い当たるふしもなく、既に舞い納め、酌に手を掻けて居たりしが。
門に居た男が大声あげて、のうのう、御内へ案内申し候わんと呼ぶ、鳴りを静めて座敷には、誰なのだと聞く所に、西塔(かって叡山の西塔に属していた事)の武蔵坊弁慶、この声を聞き付けて、あれは内情を見聞するため、敵が偽の使いの真似をして来て候、とにかくこの使いを取逃がすなと言うままに、袴の綾を高く取って長刀押っ取り出でんとする。
亀井六郎重清も続いて座敷をつつと立ち、武蔵坊弁慶の袖をひつ止め、のう静まれ給え武蔵坊弁慶殿、不思議やこの声に聞き覚えがあると、武蔵坊弁慶を止めて、亀井の六郎重清走り出でて見てみると、亀井六郎重清の実の兄の鈴木三郎重家殿、旅やつれに面やせて一人ここに立ち給う。
亀井六郎重清、夢ともわきまえず、するすると走り寄り、兄鈴木三郎重家の袂に取り付けば、兄も弟に取り付いて、さて如何に如何にとばかりなり、しばらくして兄鈴木三郎重家殿が、おい何事があったのか亀井六郎重清と聞く。
弟の亀井六郎重清この由承り、その事にて候ぞや、君(源義経)の御運も我等の運も今この時に尽き果てて明日を限りと、早成りぬ、それを如何にと申すに、藤原秀衡憂き世に有りしほどは、君(源義経)をも尊(たつと)み申せしが。
この世は常に変化する有為無常の習いとて、藤原秀衡去年の冬にお亡くなりになり候ぞや、その子供藤原泰衡、国衡、高衡が、我が君(源義経)を裏切って、鎌倉よりの年貢見聞には、長崎四郎(藤原秀衡の家臣)殿を申し下し給わりて。
さて国の大将に、照井太郎高直(藤原秀衡の家臣)、伊達が向かいつつ、平泉周辺の太田、山口、中村地区に陣取って有りと聞いて候。
などや、かほどに御身の思し召し分っていたならば、二年も三年も先に御下りましまして、一旦楽をし給いて、思い出と思し召すべきに、何と、どうにもならない悪い巡り合わせなのだろう、今日下り給うこそ、喜びの中の嘆きなれ、今生にて互いにお会いする事こそ、何より以て嬉しゅう候へ、この世への執着も是で晴れました、
御主君(源義経)もおそらく兄の事は知らないでしょう、咎(とが)め怪しむべき者ではありません、通りがかりの者の振りをして、死ぬとわかっている戦いであるから、このまま黙ってお帰り下さい兄鈴木三郎重家殿。
兄鈴木三郎重家この由うち聞いて、浅はかで分別が足りないぞ、弟亀井六郎重清、身は竜門原野の土に骨は埋もれても心残りはないが、名前までも埋もれる無念さよ。
師弟、主従、父子、夫婦、過去現在未来の三世に渡る強い因縁で、主従の縁をなくしては、何しに今日参るべき、鈴木三郎重家が参り候と上(源義経)へ申せ、弟亀井六郎重清、と草鞋脱ぎ捨て上に着たる打駆け脱いで、ふわと捨て、兄弟連れて判官(源義経)の御前を指してぞ参りける。
5 判官、鈴木三郎重家と対面
判官(源義経)御覧じて、初めて対面する鈴木三郎重家殿、因果歴然(積み重ねた罪が後に災厄として来る)の道理により、平家に着せてきた罪が、今この源義経の身に一つ一つ襲いかかり、もう明日を限りに早成らぬ、されば、葉先の露が溜まって幹の大きな雫になるのと同じ風情、他の一族の敵に受けた罪で、こうなったのだと思えば恨みは全く残らない。
ここに居る人々をも敵が許すならば落ち延びさせたくは思えども、敵が許さなければどうにもならない、あなたの事は敵の誰も知らない、咎め怪しむ者有らじ、あちらこちらの人の風情にて、早く早く熊野へ帰られ候え。
縁が有った者の事だと思ったなら後世を弔ってくれ、鈴木三郎重家に助成してもらっても、この戦に勝つべきにてもあらばこそ、早々と御帰り候え。
鈴木三郎重家承って、是は残念な御諚かな、君には犯した罪なぞないのに、御討たれになる、いきさつは、どういうことなのでしよう。
何ぞや、そもそも鈴木三郎重家が、月日何日もかけ今日参り合う事は、主従強い縁があったからなのです。
軍散じて罷り下り、さもあれ君(源義経)の御最後所はいずくにてか有らんと、思いやり申したるばかりにて、門の唐居敷きに腰を掛け、ただ一人すごすごと腹を切らんずる事どもは、どれほど無念な事でしょう、御具足一領給わって討死をせんと申し、そして落ち延びようとする様子は全くなかった。
判官(源義経)御覧じて、この上は、どうしょうもない、いでいでさらば、鈴木三郎重家殿に鎧具足を一領取らせんとて、上という文字が書いてある唐櫃の蓋を開け、小桜縅の鎧を取り出させ給いて。
この鎧と申すは、佐藤禅門(藤原秀郷の妹で陸奥の国信夫庄司佐藤基治の後裔)が子供のために具足を二領縅したもので、兄佐藤継信へは小桜 縅、弟佐藤忠信へは卯の花縅に立派にこしらえている。
佐藤兄弟の二人は残念にも討死してしまい、面目なけれども、源義経が親元佐藤の館へ行った折、子供の最後を語って聞せたところ、母の尼公は嘆く事無く。
かかる家の面目候、御伴申して出でしより、戻ってくることはないかもしれないと心の準備していたと言うものの、我が子兄弟が君(源義経)にお供申して奥州へ下るならば、取らせようと、鎧具足二領を新たに縅たもの。
これこれ御覧候え、待ちてかいなき形見となってしまった鎧具足、見つる事のはかなさよ、誰に鎧を渡そうか、我が君(源義経)にお譲りしますと言って、小桜縅の鎧を源義経に、卯の花縅の鎧を武蔵坊弁慶殿に得させたる具足なり。
命に係わる万一の事の有るならば、源義経が着せん、その為にここまで持たせ候ども、鈴木三郎重家にこれを取らせるとて、同じ色で縅た三枚板の有る兜添えて、鈴木三郎重家の前に置いて、旅の疲れはさぞかしあるであろう、さあ盃を受けよ鈴木三郎重家殿。
鈴木三郎重家面目ほどこして、御代が御世の御時に所領地千町万町給わったるより、今賜わった、この鎧に勝るものはないとて、土器取り上げ三杯汲んだる鈴木三郎重家殿が持ち主になった事をば誉めぬ人こそなかりけれ。
西塔の武蔵坊弁慶、今まで全く涙でぬれた事のない眼から涙をはらはらと流し、異国は知らず本朝に於いてをや我が君(源義経)の御内の人のように忠義の臣下の揃っている例はないだろう、それを如何にと申すに。
先年、佐藤継信は八島の合戦で源義経の身代わりとなって討死し、弟佐藤忠信は吉野で判官(源義経)を無事に逃がすために判官を名乗って吉野法師と合戦し都で糟屋有季に襲われて自害した。
源義経の廻文を持って諸国を廻る途中、駿河次郎清重は、鎌倉の帰途片瀬川で梶原景季に追跡され討死、伊勢三郎義盛も京で討死ざま、今また鈴木三郎重家殿が御具足を一領給わって所領地千町万町の御恩に替えじと喜ぶ事の素晴らしさよ。
かほど迄の郎等を持ち給う我が君(源義経)の現世の運命の情けなさは、せめて大国四五ヶ国を賜わって御知行する事さえなかったのは残念である。
奥州方の軍兵が何千騎にて寄せ来ると申すども、寄せ集めの武者の駆ける兵ばかり、この武蔵坊弁慶が思うに、大したことはないだろう、今はこの夜も更け行くらんに飲めや歌えや、もっともとて舞つ歌いつ酒盛りする。
6 熊野権現と由来の腹巻
すでにその夜も夜半ばかりの事なるに、鈴木三郎重家は、居たる所をづんと立て、中門の廊下に出て、弟の亀井六郎重清を近付けて、如何に亀井、今度鈴木三郎重家、紀州藤代を出でし時、先祖代々に伝わる略式腹巻鎧一領着て下る(鈴木は義経から鎧を拝領したので、先祖代々伝る鎧の方は、弟の亀井に与える事にする)、皆傍輩達も聞し召せ。
此の腹巻と申すは、かたじけなくも熊野の権現の古(いにしえ)、天竺(インド)の摩掲陀国(まかだこく)の王として、武勇の王の中でも最強の王にて天下を治め給えば、海内特に静かなリ、しかれども、彼の帝に御代を継がせ給うべき王子の更に居なければ。
いずれかの后にか、王子の誕生あるべきと、后の数を揃えるに、既に千人優遇し申し上げた、寵愛に思し召されたる后に、王子の御座なければ、ましてや疎き方様に、いかでか更におわすべき。
されども末の后に五衰殿と申すこそ懐妊とおわしませ、帝、叡覧特別にて、今は早余の后の御機嫌は一層良くない、五衰殿に立ち添いて、既に一の后とし内裏へ移し申さんと詮議がされた頃時分。
数百人の后たちがこれを妬みそねみつつ、帝の居ない時に、武士に申し付け五衰殿に乱れ入り、后(五衰殿)を殺し奉り、深山深くに捨てにけり、されど如何なる不思議にや死骸も敗れ損じず、野獣たちも放っておかずに見守って、妊娠満月に誕生あり、しかも国王を継ぐ皇子とおわします。
人住む山にてあらざれば、人倫更に立ち寄らず、狐狼、野獣は立ち寄れども、食べられる事もなく守護を加え申せしに、いたわしや皇子は母の死骸の乳を飲み給えば、たちまちに食となり、野獣の者を供として、月日を経る程に天岩戸の明け暮れしたように一日一日が過ぎて七年になり給う。
天下には嘆きにて、遠国遠里波浪まで尋ね給えど(后五衰殿は)ましまさず、(国王は)世を憂き事に思し召し、既に早王位を退かれる時、貴人ましまして、居所を尋ねる折節に皇子を見つけ奉って、内裏へ帰って奏聞申す。
臣下卿相、不思議の思いをなしつつ、山中に至って詳しく見奉れば、姿形は五衰殿にして、その面影も変わらず皇子御年七歳、人など見たこともなく臣ら辺りへ立ち寄るも怖れおののかせ給うを、喜見上人走り寄り皇子を抱け上げ、五衰殿の死骸をば山中に廟所を築き籠め奉って、その後に皇子をば宮殿へ御移し申し上げる。
帝叡覧ましまして皇子を抱き取り給い、喜見上人を近付けて詳しく問わせ給えば、上人もいかで存知せん、山中に至りて樹の下、石の上と修行の場を山中に探し求めていた時、皇子を見つけ奉って奏聞申して候と有のままに申す。
帝叡覧あり、おう、濁れる世に生まれ、戒律を保った前世の報いとして、王になりながらこのような罪を作った事は、私自身の過失ではないか、かかる物憂き国には有りて益なき事とて、虚空を翔ける車に万里の飛車と名付け、今の皇子諸共に既に乗せ給いけり。
第一の臣下に能見の大臣重高、奥見の中将兼満、彼ら二人を共として牛車の牛を放した際、東を指して飛び給う。
皇子と共に飛車に乗って我が朝までやってきた時、我が朝紀伊の国牟婁の郡音なし里にて熊野権現と現れて、衆生を済度し給えり、五衰殿の皇子は、摂社諸王子の第一位の王子、若一王子にておわします。
能見の大臣重高は、子守宮請観音と現ぜられる。
奥見の中将兼満は、四天王に属する八部衆の一つ、空中飛行の鬼神の飛行夜叉、これなり。
その御跡を慕い申し、喜見上人飛び来たって、聖の宮、五所王子の一つ聖宮竜樹菩薩と現ぜらるる、その他の神たちは、次第次第に帰朝(帰国)して、四所明神。
藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の五体王子、来臨を願った神霊十五所(社)、金剛力士等諸社と現じ給うも皆この時の人々ぞ。
しかるに弟の亀井六郎重清よく聞け、鈴木家の重高よりこの三郎重家まで十六代と覚えたり、鈴木家の重高の古(いにしえ)、摩掲陀国(まかだこく)より我が朝へ飛ばせ給いし折節、国王の警護をする兵士にこの鎧腹巻を召されて飛び来たり給うなり。
代々嫡子に伝わる熊野権現に深く関わる宝物を、現在、鈴木三郎重家まで相伝する先祖伝来の宝なれば身を放さずこの度も着て下って、奥州の奴等に取られて遂に他門の宝と成さん惜しさよ、それとも力なし。
鈴木三郎重家名誉として君(源義経)からの大鎧着背長給わりん、この旅の疲れに、二領重ねん事難し、御辺(弟の亀井六郎重清)に是(先祖伝来の家宝)を取らせるとて、唐錦縅黄金板の腹巻を脱いで弟の亀井六郎重清に取らせけり。
弟の亀井六郎重清、鎧腹巻引っ立て、これ見給え人々、六明経のその中に、人の運不運はその人の行いによるもので、次男であっても家督を継ぐことが出来ると説かれたるは是なるべし。
この時、先祖伝来の家宝を弟の亀井六郎重清譲り得て、千筋の矢先に当たるとも胸板に受け止めて死なんず事の嬉しやと、躍り上がって喜んだる、あっぱれ武士の手本やと誉めぬ人こそなかりけれ。
7 忠臣たちの死装束
既にその夜も明方になりければ、武蔵坊弁慶は四間所へつつと入り、いつも愛用の濃紺地の直垂に、大腿部を防ぐ膝鎧には水上に浮かぶおし鳥紋様の脛楯し、左肩から手先に懸る三本筋紋様の弓籠手を差し、未だ鎧は付けて無し。
二尺ばかりなる打刀を十文字に差すままに、兜の下に被る梨子烏帽子おっ被り、白綾折り畳んで鉢巻きにむずと締め、人々御免候へとて中門の廊下へ出て、唐櫃に腰を掛けて東向きにぞ居たりける。
鈴木三郎重家も山吹色上質の唐綾に、島や州崎模様草摺りの直垂、君(源義経)より下し給わったる、小桜縅の鎧を着て同じ毛の三枚兜の緒を締め三尺八寸の大振りで厳めしく作った太刀佩いて、三十六指したる羽の中央が黒い戦闘用の矢背負いて、三人張り弓の真ん中握り、これも四間部屋より中門の廊下に出て、唐櫃に腰を掛けて東向きにぞ居たりける。
鷲尾三郎義久(一ノ谷の鵯越で案内役をした)、片岡八郎経春、熊井太郎忠元、源八兵衛広綱、備前平四郎房成が、毛々の鎧兜の緒を締めて太刀佩き矢背負いて、皆が唐櫃に腰を掛け目と目ときっと見合せたる。
この人々の有様は、中国の英雄はんくわい、軍師の張良、唐時代に反乱を起こした逆臣の安禄山も、正視出来ないで顔をそむけ、恥じ入るほど立派であった。
その中にとっても、鈴木三郎重家の弟亀井六郎重清は、一際優れて出で立ちたり、膚に取っては唐紅の肌着を左前に着て、堅絞りの厚い絹地で仕立てた下袴を後腰を張って着る、斜目結染の直垂のくくりを結んで締めたりけり、楊梅桃李の華やかな色の左右の籠手、白檀磨きの脛当て、熊の皮の揉み足袋で銀を伸ばして縁取りしたものを足首が隠れるほど深く履き。
獅子に牡丹の脛楯し、唐錦縅黄金板の鎧腹巻ざっくと揺り駆け、糸緋縅の鎧二両重ねはらりと着て、踊りあがって高紐かけ、結って上帯ちょうど締め、九寸五分の厚くて鋭利な鎧通し刀を左脇に指したりけり、一尺八寸の打刀十文字に差すままに、三尺八寸候いし葵紋様施した太刀佩いて。
四十二本の尾白鷲の矢羽の矢筈が高く見えるように差した箙(えびら)を着け、同じ毛の五枚兜に鍬形打って後ろ下げに着て、後方矢防ぎの白綾の母衣をさっと掛け、塗籠の弓に漆で固め強めた弦を掛けさせ、弓の真ん中を握り横だえて四間の部屋より中門へ揺るぎ出でたるその有様。
物によくよく例えれば、英雄めいぼく太子、清涼殿鬼の間の南壁に描かれたインドの波羅奈国の勇者白駝王(はくたおう)、我が朝にては、朝敵として滅ぼされた関東の支配者平将門、朝敵で海賊の頭領藤原純友、吉野山にて(源義経を逃し)名を挙げし奥州の佐藤忠信も、只これ程こそ有りつらめ、器量にふさわしい立派な出で立ちをしたものだと、声を揃えて褒めたりけり。
8 両軍の鯨波(鬨の声)、口上
既にその夜も明けければ、奥州方の軍兵もうち立つ由こそ聞こえけれ、先ず追手(表門)へは、合戦報告視察の実験人長埼四郎殿を大将にて三千八百余騎、衣川東の表門に押し寄せる。
搦め手(裏門)は伊達、鳥の海三千五百余騎西の裏門へ押し寄せる、源義経方の軍もうち立つ由こそ聞こえけれ。
追手(表門)は鈴木兄弟の兄鈴木三郎重家、弟亀井六郎重清と増尾十郎権頭兼房、只三騎にて固める。
搦め手(裏門)は、鷲尾三郎義久、片岡八郎経春、熊井太郎忠元、源八兵衛広綱、備前平四郎房成、以上五騎にて控えたり。
武蔵坊弁慶は救援用の勇軍武者にて、追手(表門)の櫓に走りあがって、戦の下知をぞしたりける、弟の亀井六郎重清も同じく櫓に上がり、兜を脱いでどうと置き、弓取り直し食い湿らし弦を、ためしに引っ張り見てこそ居たりけり、兄の鈴木三郎重家が見上げて、きっと見て。
やあ、御辺(弟の亀井六郎重清)は櫓に上がりたるか、弟の亀井六郎重清が聞いて、さん候、この城は平城にて候えども、長いこと掛けてこしらえたる城にて堀広くして底深し、如何に敵が詰めかけて掘への埋め草を投げ入れても、三重の掘をば只一時にはよもや埋める事はないだろう。
亀井六郎重清、鈴木三郎重家兄弟と名乗って、奥州方の軍兵に手並みを見せてくれ候ず。
兄の鈴木三郎重家聞いて、おう、よく言うたり亀井六郎重清、ただし、鈴木三郎重家は長旅の疲れや鎧腹巻の重さに肩が重く成り、矢の長さも狙いどころも分らぬが、されば弓を射てみん亀井六郎重清、と言い同じく櫓の上に上がる。
かくて寄手の人々は、追手、搦手、揉み合わせ鬨の声をどっと上げる、大地の振動かくやらん天地響いておびただし、城には以上侍九人の人々、戦の法とて優しくも鬨を上げてぞ合わせける、物によくよく例えれば、雷渡る春の野に古巣を出づる鶯の初音を告げる如くなり。
鬨の声静まりければ、照井太郎高直(藤原秀衡の家臣)一陣に駒かけ出し大声上げて名乗る、如何に御陣に申したき事の候、昨日までは判官殿(源義経)を主君と仰ぎ申すと言えども、鎌倉殿(源頼朝)の御意に背きおわします。
さるによって長崎四郎(藤原秀衡の家臣)殿が鎌倉殿御教書を帯し、御下向のその上、天が下に有りながら、違背申すに及ばざるによって、源義経の御自害ましまさば介錯申せとの御使いに、照井太郎高直参って候と申させ給え人々とて、弓を杖に立てて控えたり。
武蔵坊弁慶は、櫓の歩みの板を壊れるぐらいどうどうと踏み鳴らし、何、こう言うは照井太郎高直めか、角立物の兜を着て、立ち居振る舞いが立派でゆゆしくて良き馬に乗ったれば、藤原秀衡の子供の中には誰なるらんと思いしに、家来のまた家来の照井太郎高直めが、この門外まで参り来て、馬上での名乗りとは無礼である、その陣をや、引いて退けとぞ申しける。
照井太郎高直がこれを聞き、かくの給うは武蔵坊弁慶殿か、思いもよらない悪態かな、主君を深く尊敬すると、その臣下の者までも敬(うやま)う事は当然である、鎌倉殿(源頼朝)の御教書帯し今日の大将給わって、まかり向かった照井太郎高直にて。
お前たちを全然物の数とは思っていないぞ、無駄な放言申さんよりも、侍は自分に合った主君を求めて渡り歩くものだ、兜を脱いで弓弦を外し降参して生きながらえよとぞ申しける、武蔵坊弁慶言葉なくして立ったりけり。
9 鈴木兄弟の奮戦
弟亀井六郎重清が、武蔵坊弁慶の辺りに立ち寄って、のうのう武蔵坊弁慶殿、神明にも尊ばず武名にも恐れず、法に任せず振る舞い候、傍若無人の奴めには、何を仰せ候とも只犬に教訓を説いても、無駄なのと同じで無用の論を止め給え、君(源義経)こそ御腹召さるるとも、我等がかくて候わば軍は花を散らすべし。
こう申す兵を如何なる者と思うらん、熊野権現の一の臣下に能見の大臣重高よりも十六代の後胤、鈴木の庄司の二男亀井六郎重清なり、年積もって二十六、照井太郎高直殿に矢一筋奉らん。
やあ、受けてみよと言いも敢(あえ)ず、四人張りの弓に、長さ十四束の矢を取って、からと打ちつがい、本筈末筈一つになれと思いっきり強く、きりきりと引き絞り、矢尻部分が拳にかかるまで強く引いて、えいやっと引き放ったるは、門を破る丸太の如くなり。
一陣に進んだる照井太郎高直の舎弟に、高野の四郎が駒ひつそばめて控えたる、鎧の袖の三の板、右脇楯、右胸板保護の鎧の緒繰板、心臓をするりと通し、鎧胴相引きの緒を切り、体を貫通し、くっと抜けて余る矢が、裏に控えたる照井太郎高直の馬の太腹に矢羽根際まで深く入込みずばっと立つ。
舎弟の高野の四郎は痛手なりければ、受けもあへず右側にひっくり返り、鎧の首を覆う錣を突いてどっと落ちければ、照井太郎高直の馬は痛手を負い、あおむけにひっくり返り、片膝折って伏しければ、照井太郎高直は馬より降り立った。
城には武蔵坊弁慶、鈴木三郎重家を先として、射ったぞ射ったぞと揺すり上げ揺すり上げ笑いけり、寄せ手は射られて音もせず、異国の英雄きんくわの弓の脅しも、ただ、これほどこそ、あったであろうと寄せ手も舌を巻いたけり。
兄の鈴木三郎重家が、弟の亀井六郎重清の姿を身上げてきっと見て、あっ、射たりや亀井六郎重清、この五六年離れ、どのように立派に成長しているだろうかと気がかりに思い、紀之國より遥々下って見てあれば、体格より勝った大弓や大矢は、とにかく思いがけなく思いしに、弓を押す左手、矢を持つ右手いずれも揺れる事無く固まって射たりや亀井、射たりや亀井六郎重清殿。
ただ今のその様子を紀之國に留め置く一族共に見せばやな、君(源義経)も御出で有りて、御見物あり、兄の鈴木三郎重家も矢一筋射て見て申さんと言うままに、長さ十三束三がけの長い矢抜いて、弦に油を塗って、壁穴の矢座間広々と引かせ。
如何にや奥州方の軍兵、今射った亀井六郎重清の兄、鈴木三郎重家とは我事なり、四国九国の御合戦に御伴申し、度々の高名、名を現わし、御代静かで紀州藤代は先祖伝来の本領なれば安堵状を賜わり所領に下り。
源義経様の都から地方(奥州)へ下向する事を知らず、御伴申さぬなり、そうはありながら、この五六年紀州藤代に有りとはいえど、君(源義経)の御事、弟の亀井六郎重清の行方、心配すること一通りにならぬにより候て。
紀州藤代を出で急ぐとすれど徒歩道にて、日数積もって昨日まで七十五日にて夕べに着き、今日の御合戦に間に合うたるは、なんとまあ幸運な者ぞ、今の亀井六郎重清が矢ほどこそなくども、受けてみよとぞ言うたりけり、寄せ手の軍兵は楯を突きかざして身を覆い、鈴木三郎重家が射る矢を待ちかけたり。
鈴木三郎重家この由見るよりも、長さ十三束三がけの矢を三人張りの弓にからりとつがい、本筈末筈一になれと思いっきりに、きりきりと引き絞り、急いで狙いも定めず力まかせに矢を放つ。
一陣に進んだる、照井太郎高直の従弟(いとこ)の丸太の藤次が、今射たれたる高野の四郎を射た矢に、一筋射返そうと進みかけた、その胸板に、立つより早くくっと抜け、裏に控えたる麦野の四郎の首の骨に、ひっしと立つ。
二騎の武者がこらえる事が出ないで左右へどうどうと落ちにけり、続く軍兵これを見て、この者共の矢先には鉄の楯を突いたりとも叶ふつべしとも覚えず、やあ、この陣引けやと言うままに、むらむらばっと引きたりけり。
鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は櫓より、下に向けて弓を射る、立派な鎧の武者をかき分け選びかき分け選び、間を置かずに続けて散々に射かけける。
矢種尽きれば櫓をゆらりと飛び降り、駒引き寄せて打ち乗り、衣川の中の瀬を、水に鷗が一結び、波間を伝う風情にて、鐙の端にて波を叩かせざざめいて渡しけり。
奥州方の軍兵この由を見るよりも、鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟を生捕りにせよ、太刀も刀もいるべきかとて、折り重なってひしめいたり。
鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟この由を見るよりも、落ち着いて余裕を持って対処する事、玉に馴れたる蓬莱の鳥の風情もこのようであろう、驚く気色はなかりけり。
大勢の中に割って入り西から東、北から南、蜘蛛手、結果(かくなは) 、十文字、八花形というものに、割り立て追い廻し、散々に切ったりけり、兄の鈴木三郎重家十三騎切って落とせば。
弟の亀井六郎重清が手に掛けて二十七騎薙ぎ臥せる、実には敵勢持ちこたえるどころか風に木の葉の散るようにむらむらばつと引いたりけり、この兄弟は手傷も負わずに川静々と渡り戻り、気迫十分で次の戦いに備える様子は、中国の英雄、はんくわい、張良もこうであったかと思われた。
10 武蔵坊弁慶の出陣
武蔵坊弁慶は、櫓の上でつくづくと見て、あら面白い鈴木兄弟の合戦したる様子、さすがにあの方々は天下将軍の御用、正規軍として大きな戦いを経験している方々であって、敵の様子を推察して、攻めたり弾いたりする心がけの巧みな事よ。
暫く御兄弟、櫓に上がってお待ち候へ、武蔵坊弁慶も出で立って来んと言うままに、四間所につつと入って卯の花縅の鎧を着て、先の梨子烏帽子にて、今度は白柄の薙刀をうち担ぎ追手(表門)の櫓に走りあがって、東向きにぞ立にけり。
そもそも頃は何時ならん、文治五年閏四月の二十八日の未だ巳の刻(午前十時頃)ばかりなるに、照りに照ったる朝日に物の具の金物は、折から色や勝るらん、開いた扇は紅にて、日に差し向かって立ったりけり。
武蔵坊弁慶の有様は、毘沙門天の変化身で最強にして、須弥山中腹に住む持国天、広目天、多聞天(毘沙門天)、増長天の四天王の荒れたる気色もこの様であろう
如何にや奥州方の軍兵、鳴りを静めて、これから言う事の意味をしっかり聞いて理解しろ、それ人間の命は電光や朝霧のように短く儚いもの、討つも討たるるも夢の戯れ、昨日までは肩を並べ膝を組し人々の。
今日敵となる事も因果歴然の道理によって、世をも人をも恨むまじ、さりながら、汝らが遠国に住んで、押し入り強盗をして、土地の境界を巡って争い、二十騎三十騎ここかしこに引き分けて、子供が漫然と石投げ遊びしているような戦いとは大違いだぞ。
今日武蔵坊弁慶がする戦こそ手本よ、見習へ、武蔵坊弁慶が薙刀にて切り残されたらん輩(ともがら)は、見し者と思いなば、後世をば問うて下さい、武蔵坊弁慶が末代の物語に舞を一手舞おうぞや、囃してください人々。
鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟も予て用意やしたりけん、櫓よりも鼓を取出し叩き上げてぞ囃しける、元々武蔵坊弁慶は比叡山延暦寺の山法師であるため、即興の乱舞は寺院法会の余興で演じた舞の上手、舞をば一手習ったり。
調子をうかがつて立たりしが、霞の向こうにこだまして消えるような大声を突然あげて歌を歌いはじめた。
嬉しやとうとうと鳴滝の水、日は照るともいつも絶へせじ、面白や筏を下す大井川、花を流すは吉野河、紅葉を下すは竜田川、都辺りに名河は多けれど。
遠国ながら名所かな、霧山高嶺の残りの雪消え、谷の氷柱も解けぬれば、衣川の水嵩増さって、奥州方の軍兵を武蔵坊弁慶の薙刀にて、湊を指して切り流す切り流す(敵兵が次々と流れてゆく)。
と流行の揉み烏帽子と言う名の舞曲を足拍子を一つさっと踏んで、開いた扇を櫓より衣川へさっと投げ入れ、扇の落ちるより早く櫓を飛んで下りたりけり。
三戸地方産の白葦毛、馬の丈が四尺七寸八分、年が明けて六歳になった馬引き寄せゆらりと乗ったりけり。
鷲尾三郎義久と片岡太郎経春が先に駆けんと進みけり、武蔵坊弁慶がこれを見て、いでいで武蔵坊弁慶真っ先に敵中に突入し、斬りまくって突進せん、その後に続いて攻めつけろ若武者ども(鈴木兄弟)とて、先駆けしてこそ渡しけれ。
向かいは奥州方の武士の信夫、元吉、竹樋、丸太を先として奥には我とおぼしき者三百騎ばかりで控えたる陣の中へ、武蔵坊弁慶が駒をさっと駆け入れたり。
11 鈴木兄弟の討死
奥州方の軍兵、陣を二つに分けたりけり、されども、ここに高田の太郎と名乗りて武蔵坊弁慶に渡り合う、武蔵坊弁慶これを見て薙刀の柄を振って身をひき斜め横に構えて、ぐさりと切り払う。
兜の左側しころ板の反り返しの部分から、顔の頬、右袖鎧の上板にかけてづんと切ってぞ落としける。
花崎この由見るよりも、あっ、切ったりや武蔵坊弁慶殿、そこを動くなと言うままに、続いてすぐに切りかかる。
武蔵坊弁慶これを見て、後ろに引いて構えて頭上高く振り上げた薙刀を真直ぐ切り下ろす、兜の真向切り破って、後ろは兜のしころから母衣付け鐶、前は兜の頬当て、よだれ金、鎧の四枚金胴、鎧の後腰の草摺りまで、二つにさっと切り破って、左右に裂けてばらばらになった。
柴田の四郎がこれを見て、あっ、切りたりや武蔵坊弁慶殿、そこを動くなと言うままに、続いてすぐに掛かりけり。
武蔵坊弁慶これを見て、奥州方の軍兵は、おう、心は剛に有りけるや、退く様子を見せざるは手並みの程を見せんとて、後ろへ引き構えてから前に切りかかったりけり、
柴田の四郎も名の聞こえたる兵にて、鎧の袖のかぶり板にて受け流し、何事も無いかのように馬を走らせ通り過ぎる。
二陣に続いたる弟亀井六郎重清が、武蔵坊弁慶殿の切り残した者を請け取りたりやと言うままに、葵模様作りの三尺八寸の太刀にて横手切にぐさっと切る、弟亀井六郎重清の腕は強かりけん、太刀の金や良かりけん。
四枚胴の鎧を押し切って、二十五差したる実戦用の征矢を押し切って、相手の腰のつがいを輪切りにふっと切ってぞ落としける、上半身がどうと落ちれば、下半身は鞍に乗ったりける。
これを初めに七騎の人々、入れ違い揉み違い散々に切って廻りけり、係ける所に土佐ノ八郎高直と弟亀井六郎重清がむずと組んで、二人が両方の馬の間にどうと落ちる。
弟亀井六郎重清は並び無き剛の者、敵と組むならば、きっと大勢の敵が馬から下りて集まって来るだろうからと、気配をあらかじめ心得ていて、土佐ノ八郎高直を取って押さえて首を掻き落とし、立ち上がらんとする所に、
土佐ノ八郎高直守役の十郎が、隙なく下り合いて、弟亀井六郎重清の左腕を水もたまらず打ち落とす、弟亀井六郎重清並び無き剛の者、心は高砂や高砂の松の緑と映(は)ゆれども(心は高ぶり一層勇み立ったが)、痛手負いぬれば太刀を杖につき、今を限りと見ゆる。
兄鈴木三郎重家、大勢の中にて戦いしが、弟亀井六郎重清が痛手負い生きるか死ぬか分らないと見て、敵を四方に追い散らし、我が身をきっと見たりければ、痛手薄手に好ましくなく十三所手負いたり。
もはや是までと思って弟亀井六郎重清を肩に掛け、城の中につつと入り高い所に下ろし置き、やあ、そこで腹切れ弟亀井六郎重清、南無阿弥陀仏と兄弟諸共に、兄鈴木三郎重家生年三十三、弟亀井六郎重清二十六差し違えて死にけるを惜しまぬ物はなかりけり。
12 阿修羅の武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶は、君(源義経)の御前に参り、はや鈴木兄弟討死仕りにて候と申す、判官(源義経)聞し召されて、何と鈴木兄弟討死したると言うか、弟亀井六郎重清の事はさて置きぬ。
あら無残や兄鈴木三郎重家は紀州国より遥々下り、零落した主君の味方をして、討死してしまったとは無慚である、今朝より読む御経、もはや奉納の時分になるぞ、防いで下され武蔵坊弁慶殿。
武蔵坊弁慶承って、今度はそれがしが死に番に当たって候と申すもあえず、御座敷へつつと入り、鉄厚さ五分に鍛えた桶側胴という名の刀が通らない様に防げる具足を付け、卯の花縅の鎧、糸火縅の胴丸と三両重ねざっくと着、結って上帯ちょうど締め。
一尺八寸の打刀十文字に差すままに、矢入箙の中の短刀、首掻き短刀、長刀、反りの無い刀を打ち違え鞍の前に縛り付け、左手に熊手持ち右手に薙刀うち担ぎ、膝にて馬に乗ったりける。
武蔵坊弁慶が駆け出れば、ただ小山の動く如くなり、大勢の中に破って入り、膝口、高股、馬の腹、はらりはらりと引き破れば、将棋倒しの如くなり。
この勢いに恐れて馬を速く走らせるために、馬の尻をむやみに鞭打って逃げる所へ、武蔵坊弁慶、駒を駆け寄せ熊手を差し渡し、兜の天辺の穴に引っ掛け、えいと言って引き寄せ、下げ切にしてぞ捨てにける。
いわんや、漢王唐土(もろこし)までも、その名を得たる武蔵坊弁慶が、今を最後の合戦に面を合わせる者はなし、怒れる眼は黒雲の所々の晴れ間より、朝日の映ろう如くなり。
敵を靡(なび)けて喚(うめ)く声、雷電、稲妻、激しく轟く雷、獅子、象、虎の吠える声もさぞかしこの様であろうと思い知られたり。
武蔵坊弁慶の再度の出陣に奥州方の軍兵は、百八十騎討たれたり、今は向かう敵のあらざれば、取るに足りない戦かなとて、小高い所へ駒駆け上げ暫く陣をぞ取ったりける。
かかりける所に、信夫(しのぶ)の庄司の子に小太郎、生年十八歳になりけるが、武蔵坊弁慶が以前の駆け足に父を討たれて、好機を窺って一矢射なければと狙う所に、早ここにて見つけ、二人張の弓に長さ十二束の矢取ってからりと打ちつがい、よっと引いてひょうと射た。
あら無残や武蔵坊弁慶がのんびりと待ち構えていた、その胸板にはっしと当たる、小兵の射たる矢の悲しさは、矢を矢立に入れずに置いたので反りかえって曲がった矢が、兜の裏側にからりと入って喉笛にぴしっと突き刺さる。
こしゃくなと言うままに矢を引き抜いて見ると鳥の舌形の矢尻にてや射たりけん、矢柄は抜けて矢尻が留まる、さしもに剛なる武蔵坊弁慶も、駒より下へどっと落ちる、あら無残や西塔の武蔵坊弁慶とて、鬼神のように言われしに、かほどの細矢に当たって、はかなく成らん口惜しさよ。
最後にあの奴を切らずば無念で成仏も出来ない、さりながら以前の如く馬に取り乗り追うならば怖じて左右なく近ずくまじ、死んだ振りして近ずいた所を切ってくれるわと思い傍に有る兜引っ掛け死んだ振りにだましていた。
信夫(しのぶ)の子の小太郎この由見るよりも、あれあれ御覧候らえ、さこそ人々の鬼神のようにの給いし武蔵坊弁慶をば、それがしの手に懸けて射落として候、首とって見せ申さんというままに、三尺八寸の厳物作り太刀、額の前に挙げてかざし一目散に近寄ったりける。
武蔵坊弁慶、兜しころの隙間より見上げて、きっと見て、あっぱれ器量やよき能力かな、会ったら若者を武蔵坊弁慶の手に掛け失わん事の無残さよ、相手の太刀の長さが長ければき奴に一太刀討たれてしまっては元も子もないと存ずれば。
近々と詰め寄せたところで、牛のように突然起き上がり、狼藉なる奴めに手並みの程を見せんとて、傍の薙刀おっ取って、追い詰め、さらりと薙ぎ切り、股の上部を斬り落とされ、仰向けにひっくり返る所を細首宙に斬り落とし。
朱に染まった薙刀を左肩に投げ担いで、駒引き寄せて打ち乗り城の内へどっと入り駒を彼処に乗りはなし大薙刀にすがりふらふらよろめいて、あら苦しや兼房よ、君(源義経)は何処におわします、兼房武蔵の手を引いて御前さして参る。
13 弁慶と判官今生の別れ
判官(源義経)御覧じて、あれは武蔵坊弁慶か、さん候と申す声聞けば、古の武蔵坊弁慶、姿は只鬼神の如し、羨ましやな武蔵坊弁慶殿は、生も変えずたちまちに荒々しい祟りの神となりたるよな、それそれと仰せければ。
承ると申して落ち縁側につつと上がり鎧の袖を枕に横になって、今を限りと見ゆるが、増尾兼房(北の方の守り役)を近付け、最後に若君(源義経の子)を一目拝み申そう、増尾兼房が若君を抱き申し武蔵坊弁慶の手に渡す。
武蔵坊弁慶、若君を抱き申し後れの髪を掻きなで、亀割山(現山形県最上)の峠にて御産有らせ給いし時、武蔵坊弁慶が参り産湯を引かせ申し、男子は七歳までは他の影響を受けそれに似ると聞く。
若君の御果報あやからせ給はば伯父源頼朝に御あやかり候へ、戒律を守った修行により得た功徳の力は御父上判官(源義経)、弓は源為朝の御弓の勢い、二相を悟って(外見から内面を見抜いて)悪魔から怖れられるような眼力は、平の秩父(畠山重忠)にあやからせ給え。
太刀などを持って相手の骨まで切り人に畏れられる事は、物の数にて候わねども、こう申す武蔵坊弁慶めにあやからせ給え、命の長く渡らせ給わんはかの三浦大介義明が年積って百六に成りしにあやからせ給えと申せし事の夢となり。
未だ十にも足らずして衣川の水の泡と消えさせ給わんいたわしやと、はらはらと泣ければ、ああ、いたわしや若君はどんな関係が有るのかも御理解にならなかったが。
武蔵坊弁慶が荒々しい出で立ちにも怖じ気給わず、胸板を下りに血潮に染め返し流れる血を御覧じて、いたいけな御手にて掻き撫でさせ給いつつ、ひしひしと抱き付き、わっと叫ばせ給うにぞ、御前の女房、下女、増尾兼房も、武蔵坊弁慶も消え入るように泣きいたり。
判官(源義経)御覧じて、武蔵坊弁慶の最後に酒を飲ませよ、増尾兼房が承ると申して長柄の銚子に紅葉色の土器据えて参らせ上げる、判官(源義経)取り上げさせ給いて、これは現世と来世の契りを固める杯を差すぞ給われ。
武蔵坊弁慶、余りのかたじけなさに三度戴きたぶたぶと受け、ずんずんと滞りなく飲み干したが、ああ、何と言う事か、喉が切れたる事なれば血に交わりてこの酒が胸板を下りにさらさせと流れけり。
判官(源義経)御覧じて、武蔵坊弁慶の最後が近づきたるぞ、念仏を勧めよ、増尾兼房承って念仏を勧めければ、奥州方の軍兵この由聞くよりも、城の内に当たって念仏の音の聞こえるは、いかさま武蔵坊弁慶が腹を切るか、大剛の者の自害の様子いざ見習いて手本にせんとて我先にと乱れ入る。
判官(源義経)御覧じて、あわや敵の近付くば増尾兼房は防ぎの矢を射よ、武蔵坊弁慶は腹を切れ、御経している間とて御座を立たせ給えば、武蔵坊弁慶は敵の呼ばわる声音を力として、大庭に踊り出で薙刀にすがってふらふらよろめいて漂う。
判官(源義経)御覧じて、打って出るか武蔵坊弁慶、その通りと答える。
判官義経思い続けてかくばかり、
後の世も又後の世も巡り会え染む紫の雲の上まで
(後世でもまたその後の世でも必ず巡り合おう、天人が乗って来る紫雲の上まで行っても)
と詠い、
武蔵坊弁慶も承って、返歌とおぼしくてかくばかり、
六道の衢(ちまた)の末に待つぞ君遅れ先立つ習いありとも」
(冥途の分れ道の所で君をお待ちしています、旅立ちに前後があったとしても)
とかように申して、堀に懸る舟橋をがぶがぶと渡しけり、奥州方の軍兵この由見るよりも、あら恐ろしや又武蔵坊弁慶が懸るは、ここに引けやと言うままに我先にとぞ逃げにける。
14 弁慶の立往生
衣川ざつとおつ越し向かいの岸辺にて、うろうろしている兵を十七八騎切り伏せ、こちらの岸辺に帰らんとしたりしが、しだいに意識が乱れれば、(衣川の流れの中に)西向きにつつ立って長刀真砂に揺り立てて、光明真言唱えつつ、生年三十八にして衣川の立往生を惜しまぬ者はなかりけり。
奥州方の軍兵この由見るよりも、あら恐ろしや又武蔵坊弁慶が人を切らん謀よ。近こう寄っては叶うまじ、遠矢で射よと言うままに、指し取り引き詰め、散々に矢を射掛け続けたりけれ。
武蔵坊弁慶に当たるその矢は、蘆(あし)を束ねて槇の板戸を突く風情(多くの矢が当たり矢ふすまになった様子)、元より死したる弁慶にて、その身ちょっとも痛まず、沼楯の庄司この由見るよりも、やあ、至って心の剛なる武者は立ちながら死するいわれのあるぞ、誰かある、行き向かって、弓のはずを持って、そっと突いて見よ。
承ると申して、二十騎、三十騎、駆け寄せ駆け寄せしけれど、皆怖がって全く近付けない、沼楯の庄司これ由見るよりも、臆病なる方々かな、そこ退け、沼楯の庄司が突いてみせんと言うままに。
駒の手綱かい繰って馬のひづめの音も高らかにどうどうと進み寄せ、弓のはずをおつ取り延ばしおづおづかっぱと突いた、本より死したる武蔵坊弁慶で枯れ木を倒す如くにかつぱと転びけり、転びけるその先に、持ちたる薙刀がひらりとするを見るよりも。
沼楯の庄司は死したるものと知らずして、又切って掛られると思い肝魂も身に添わず(驚いて生きていると勘違いして)駒より下に転び落ち、浮き沈みして流れて、衣川の堰にはまって溺れて死んだりしを、貴賤上下おしなべて、憎まぬ者はなかりけり。
《参考》
天正9年(1581年)三月二十一日 織田信長と同盟を結んでいる徳川家康は、武田軍より属城である高天神城を奪い返すために、軍勢に城を取り囲ませております。
敵の城中には兵糧も尽きてしまい。いよいよ明日は落城という日の出来事が歴史記録(徳川実紀、常山紀談、東照宮御実紀附録)の中に残っております。
家康の元に、城内より、城敵将の武田軍栗田刑部の使いが手紙を持ってきたのであります。「幸若太夫が、御陣中にお供してきていると聞きました。今では城兵の命も今日明日。哀れ願わくば、これを今生の思い出にいたしたく、幸若太夫の舞を一曲所望賜りたいのでございます。」と書かれていました。
家康は、この願い入れに対し、「望みどうりに、してやればよい。この様な時には幸若舞の中でも、あわれなる曲を」と、幸若太夫に舞を命じております。
さっそく敵の城将栗田刑部の丞は、城の櫓に上り、他の城兵全員も塀際に集ってきました。敵の将兵と、それらを取り囲む徳川方の兵らが見守る前で、幸若太夫が出て来ると城の塀近くに寄って行き、幸若舞「高館」が語り舞われました。
幸若舞とは、武仕舞を舞いながら、昔の戦物語などを謡い語っていくわけである。この時の舞物語「高館」とは、藤原泰衡の軍勢を迎え討つて、源義経、弁慶らがことごとくに討ち死にしていくという壮絶極まりない様子を語っていく舞曲であります。
皆の兵らはすすり泣き声が聞こえる中、自らも感涙を流し耳を傾け、幸若太夫の語り舞に聞き入ったのであります。
幸若舞「高館」が終了すると、城の中から茜の羽織を着た若武者、敵将の小姓である時田鶴千代が馬に乗って出てきました。そして、紙、織物、指添え等を取り揃えて幸若太夫に渡し、礼を述べたのであります。
翌朝、城門を開け城兵が打って出たが、皆、体力的にも弱り、結局逆に徳川軍が城内に攻め入り激しい戦いがくりひろげられた。730人の城将が討ち取られ死者で堀が埋まったと言われている。この時に時田鶴千代の首も取られましたが余りにも美しいので「女の首だろ」と人々は疑いました。
徳川家康はこれを聞いて「目を開いてみよ。殺されるとき女ならば恐怖で目を背けるので白眼になっているはずだ。」と言いました。そこで開いて見ると黒眼があり、さらに幸若太夫に顔を確認してもらい時田の首だと確定されました (「常山記談」栗田刑部幸若の舞所望の事「附記」時田が首実験の事) 。