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1 一の宮の思い
つらつらおもんみるに(つくづく思いめぐらしてみれば)、古(いにしえ)より今に至るまで朝敵を一時に滅ぼし、太平を四海にいたす事(天下を安泰に保つ方策は)武略の功(軍略)に及ぶものはなし。
されば、近代は異国襲来の恐れもなく、帝位を争う方もましまさず、これ、しかしながら、将軍の武家政治が天の意志を具現しているからである、ここに後醍醐天皇の元弘の乱で北条鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱から、天皇自ら政治を開始した建武の昔を思うに。
戦場にして屍をさらすのみにもあらず、或いは君臣間の正しい道である儀を守って、身を蒼海の波に沈め、あるいは夫婦の別離を悲しんで、思いを故郷の月に傷(いた)ましむる。
中でも哀れなりしは、後醍醐天皇の第一皇子、尊良(たかなが)親王の御息所(みやすどころ、御妃)の御事と、内裏門の警護に当たる役職、右衛門府生の秦武文(はだのたけぶん)の振る舞いなり。
この頃、尊良(たかなが)親王、すでに元服して初めて冠を付け、奥深い宮殿の中で成人あそばされたので、御才覚もいみじく、容顔も世に勝れましませば、定めて皇太子の宮殿である東宮に立たせ給いなんと、世の人皆、時めきあえりしに。
関東の御計らいとして(鎌倉幕府が持明院と大覚寺両統間の皇位移譲約束を朝廷に提案した文保の和談)、思いの外に、大覚寺統の後二条の院の御子(邦良親王)が、皇太子の宮殿、東宮に立たせ給いければ、こなたへ参り仕えし人々は、皆望みを失い。
宮(尊良親王)も世の中、万に付けて、ただ打ちし折れ、明け暮れば(望みも絶たれ不遇の身にて)、詩歌に御心を添え、風月に思いを添えさせ給う、折に付けたる御遊びなど有りしかども、さして興ぜさせ給う事もなし。
そういうわけで、どんな皇女腹の方、摂政や関白の御娘などでも妃に望むとおっしゃれば、御心を尽くさせ給う迄の御事は、あらじと覚えしに、御心を引かれる女性もいなかったのであろうか、これをと思し召したる御様子もなく、只一人のみ年月を送らせ給いけるとかや。
ある時、関白家に三位以上の若者や殿上人さし集まって、絵合せを競う遊びのありけるに、洞院の佐大将殿の出されたる絵に。
源氏物語の優婆塞の宮(むばそく、宇治八宮)の二人の姫君が月光の下で琵琶と琴を合奏しているのを薫が垣間見る場面出たれば、扇ならでも招きつベかりけりとて、撥(ばち)を上げ、指し覗きたる顔つき、並はずれて立派に上品で気高く見える匂やかなる御様子を、言うばかりもなく筆を尽くしてぞ、書きたるける。
一の宮(尊良親王)、これをつくづくと御覧じて、源氏物語の姫君に、限りなく御心を奪われ、この絵をしばし召し置かれ、見るに慰(なぐさ)む方もやと、巻き返し巻き返し御覧じけれども、御心更に慰(なぐさ)まず、昔、前漢武帝の后李夫人の甘泉山中にある宮殿の床に伏し、はかなく成らせ給いしを、武帝悲しみに堪えずして、焼けば死者の面影が見れると言われる反魂香を焼かれしに、李夫人の面影のかすかに見えしを肖像画に写し御覧じたが、物言わず笑わず、人をひどく悲しませると武帝の嘆き給いしも道理かなと、今更に思いぞ知らせ給いける。
我ながらはかない心迷や、実(まこと)の色を見てだにも、世は皆夢の現とこそ、思い捨つべき事なるに、こは何のむなしい心ぞや。
六歌仙の一人花山の僧正遍照を紀貫之が、歌の様は得たれども、実少なし、たとえば絵にかける女を見て、いたずらに心を悩ますがごとしと、古今の序にも書きたりし、その類にもなりぬるものよと、(絵合わせの画の美しい姫に)あきらめようとなさるが、どうする事も出来ない思いがあふれるばかりである。
されば、側近の美しい女房を御覧じても、御目にもかけられず、まして時々の便りに言問いかわされし御方様へは、一村雨の雨宿りにも立ち寄らせ給うべき御心気もなし、せめて世の中にさる人ありと聞し召し、御心に掛らば、美しい簾の隙間から風のように入って忍ぶ思いを伝える便宜もあるはずである。
また、僅かに人を見しばかりなる御心当てならば、消えた水泡のように行方不明でも所在が分からないはずがない。
これは見しにもあらず、聞きしにもなく昔はかなき物語、あだなる筆の跡に御心を尽くして如何にせんと恋悲しませ給いて、月日をぞ送らせ給いける。
2 琵琶弾く姫を垣間見る
せめて御心を遣る方もやと、お車に召され賀茂の糺の宮(下賀茂神社)に詣でさせ給い、御手洗川にて御手水を召され、何となく川に散歩させ給い、昔、六歌仙の一人在原業平が、恋をしまいと御手洗川に禊ぎをしたことを身に染みて思い出されて
祈るとも神やはうけん影をだに御手洗川の深き思いを
(絵姿を見て思いを寄せる辛い恋であるから、いくら祈っても神は受けないであろう)
このように、うち歌い給う。
時しも村時雨の過ぎ行くほど、木の下露に立ち濡れて、お袖もいとど干しあへず、日も早暮れぬと申す声に、御車を轟かせて一条を過ぎさせ給うに、誰が住む宿とは知らねども、垣に苔むし瓦の松も年古りて、住荒れた宿なれば、物寂しげ成るその内に、撥の音も気高く雅楽の名曲、青海波をぞ弾きける、怪しや誰なるらんと思し召し、通り過ぎることが出来ずに御車を留め遥かに見入れさせ給うに、見られているとも知らずして、有明の月の雲間よりほのぼのと差し出でたる御簾高く巻き上げ大変上品な女房の秋の別れを悲しみて琵琶を弾ずるにてぞありける。
鉄で珊瑚を砕くに等しい一、二の曲玉盤に氷塊を注ぐに等しい千万の音、掻き乱したるその音は庭の落ち葉に紛れつつ、一の宮(尊良親王)だけが感動の涙で御袖も濡らししぼるるばかりなり。
怪しやと思し召し、一の宮(尊良親王)、目もくらむ程にじっと御覧ぜらるるに、このほど、むやみに心を悩まして、夢にもせめて見ばやと恋悲しませ給いし似た絵に少しも違わず、更に上品で美しい姿は例えようのない程に見えたのだった。
心惹かれて呆然と我を忘れる程になりしかば、築山の松の木陰に立ち休ませ給うに、女、見られてるとて、琵琶をば几帳の傍に差し置き内へ紛れ入りにけり。
裳裾を引いて奥に入るほんの僅かの間の後ろ姿に、又立ち出でる事もやと夜が更けるまで立ち休ませ給えば、身分の低い御所仕えの侍が御格子下ろす音させて、夜も更けはや人皆静まりければ、いつまでもここに居るわけにもいかないので一の宮(尊良親王)も御帰りになった。
絵に書きたりし形にて御心を悩まされし御事なり、ましてまことの色を御覧じて如何にせんと恋悲しませ給うも道理なり。
3 歌会に事寄せ、姫に言い寄る
その後よりは、ただ一筋に思いつめていらっしゃる御様子に見えたが、やはり口にはお出しに成らなされず、常に詩歌管弦の会に参りし、一の宮(尊良親王)の叔父二条の中将為冬が、いつぞや賀茂の糺の御帰り際の、ほのかなりし宵の間の月、又も御覧ぜまほしく思し召さるるにや、その御事にて候はば、安き程の御事にて候。
この女房の行方を詳しく尋ねて候えば、今出川の左大臣公顕(きんあき)公の娘にて候を、徳大寺の左大将に申し婚約したままで、未だ皇太后(後醍醐天皇の中宮禧子)の衣服をつかさどる所の長にて候なり。
切に思し召されば、歌の御会に事寄せて、かの亭に入らせ給い簾の隙間から風のように忍びやかに入って、御本心を相手に打ち明け口説いて御覧ぜよと申せば、一の宮(尊良親王)、例ならず御快くうち笑ませ給いて、さらば今夜。
かの亭にて審判無しにお互いに和歌の良しあしを批評し合う歌会あるべき、由を左大臣の方へ仰せ遣わされければ、娘の父今出川の左大臣公顕(きんあき)公はかたじけなしと会を盛大に立派にしつらえ。
和歌を好む風流人を大勢招き案内申せば、一の宮(尊良親王)の叔父二条の中将為冬の朝臣ばかりを御供にて彼の亭に入らせ給いけり、歌の御事は今夜それほどまでの目的ではないので、歌を読み上げるばかりにて、互いに和歌の良しあしを批評し合う事は無し。
娘の父で主の左大臣公顕(きんあき)公は、小余綾(神奈川大磯のこゆるぎ)の磯ぎ(急ぎに掛けて急いで饗応の用意をし)、御土器(やわらけ)持って参りたれば、一の宮(尊良親王)、常よりも興ぜさせ給い、今様の琵琶や琴に合せる歌の妙なる調べに連れて御盃賜わせたるに、主の左大臣公顕(きんあき)公もいたく酔い伏しぬ、一の宮(尊良親王)も御枕を傾けさせ給えば、早、人皆静まりて夜既に更けにけり。
媒(なかだち)の左中将は、心有りて酔わざりければ、彼に案内させ、この女房の住みける寝殿造りの西の別棟に忍び入らせ給い、垣間見給えば、灯火の影かすかなるに、花紅葉散り乱れたる屏風引き廻し、起きているのでも寝ているのでもない様子に物思わし気に臥して。
只今人々の読みたりし歌の短冊取り上げて、顔うち傾けたりければ、こぼれかかれる鬢(びん)のはずれより、匂やかにほのかなる顔ばせ、露を含める花の曙、風に従える柳の夕べの色、絵に書くとも筆も及び難く、語るに言葉もなかるべし。
遠くからぼんやり見た容貌が、世に二人と此の美貌があろうかと不思議に心惹かれたが、間近にみる美しさに比べれば問題にもならなかったなあと思し召さるる程に。
早心奪われうっとりとなって、思わず魂でも脱け出して相手の袖の中に入ってしまったのであろうかと思し召さるるばかりなり。
折節辺りに人も無く灯火さへかすかなるに両開きの妻戸を少し開け内へ入らせ給うに、女驚く顔にも非ず、今日の主客で高貴な一の宮(尊良親王)と悟り、おっとりと振る舞ってそっと衣を頭からかぶって伏した様子は言いようのない程もの柔らかである。
一の宮(尊良親王)も傍らにより伏し給い、今までの思いの全てを心に深くしみ渡る程に申し上げるが、とかく答えも申さず、只、思いし折れたるその様子、実に匂い深こうして花かおり、月霞む夜の手枕に夢が夢中で覚めてしまう無念さに心が乱れ、明けるも知らずうち語らわせ給えども。
なを冷たい様子にて、少しも相手に従おうとしないままで、鶏が夜明けを告げ渡り、涙ながらに口説いても、氷柱が凍りついたように下紐は解けようとしない、各自の衣が冷え冷えとした悲しい別れに、夜明けに残る有明の月のように、例のない程の気強く冷たい女の様子に、立ち帰らせ給いけり。
4 障害を越えた契り
それよりして、度々の御消息有りて、言いつくせないほどの恋文の数は、はや千束にもなりぬるやらんと覚ゆる程になりければ、女も哀れなる方に心惹かれて、上れば下る稲舟の嫌ではないと思われる様子が見えてきた。
されども、人目をはばかって月ごろ過ぎさせ給いけるに、ある時、式部少輔藤原秀房という儒者を召して唐の帝王学の規範書、貞観政要を読ませて聞し召されしに。
昔、唐の太宗が、臣下の鄭仁基(ていじんき)の娘を后妃の位に備えて、元華殿に大事に世話し入れんとし給うを、功臣の魏微(ぎてい)諌(いさ)めて申す、この女はすでに陸氏と結婚の約束を交わしたと奏し申したりければ、太宗がその諌めに従って宮中に召される事を止めると決断されけり。
一の宮(尊良親王)これをつくづくと聞し召し、どうすれば余の君(尊良親王)は、かく賢人の諌めについて、色好む心を捨て果て給いけるぞ、如何なる我なれば、既に他人に言い名付け事定まりたる仲を裂けて、人の心を破るべきかと昔の譬(たと)えに恥じて、世間の非難を思し召し、それからは御心の内には恋悲しませ給えども、さすが御言葉には出されず、御文さえ書き絶えたれば。
女のほうも、百夜の寝台の端書も今は我や数かぞえないと(百夜通って寝台に寝たら逢うと言う女の言葉を聞いた男が九十九夜通い詰め寝台の端にその証拠を書きつけたが百夜めに親が死んで行けず水の泡に期したと言う故事)、うち詫(わ)びて、海女の刈る藻に思い乱れて、月日をぞ送らせ給いける。
女の婚約者、徳大寺の左大将この由聞き及び、一の宮(尊良親王)の左様に思し召したらんを、どうして自分が理不尽に結婚できようかと早、他の女に思い変えて、御文を遣わさる、いつよりも高ぶる気持ちのままに濃い墨の黒すぎる筆使いにて、
知らせばや、塩焼く浦の煙だに、思わぬ風に靡(なび)く習いを
(貴女にお知らせしたいものだ、塩焼く浦の煙も思いもよらない風で、靡く事もあると言う事を)
女も余りつれなかりし事を、我ながら辛い心かなと、思い返す程になりければ、言葉は無くて、
立ぬべき浮き名をかねて思わずは、風に煙の靡(なび)かざらめや
(おそらく立つに違いない貴方との間の噂を前もって心配しないで済むのならば、貴方に靡かずにおりましょうか)
その後より、あちこちに気兼ねして閉ざしていた心を開いて一の宮(尊良親王)と、小夜の枕を河島の水の心も浅からぬ(契りの枕を交わして深い)御仲とならせ給いける。
5 動乱で流された宮の嘆き
生きては偕老の契り深く(末長い幸せな夫婦の契り)、死しては又同じ苔の下にもと思し召し交わして、未だ十月にも足らざるに、天下の乱でき (元弘の乱で父後醍醐天皇と共に笠置山で敗れて鎌倉幕府軍に捕らえられ)、一の宮(尊良親王)は土佐の幡多へ流され給えば。
一の宮(尊良親王)の御息所(みやすどころ、御妃)は、一人都に留まって明け暮れ嘆き沈ませ給う、せめて亡き世の別れなりせば、悲しみに堪えられない命で死んでしまえば、生まれ合うであろう来世の契りをも頼むべきが、是は又、同じ世ながら、海山を隔てて互いに風の便りの音信をだにも聞かせ給わず。
年頃召し仕えし青侍、官女の一人も参り通わず、万(よろず)昔に変わりたる世とこそならせ給いけり、住荒らしたる雑草の生い茂る家の露けきに、泣き濡れお袖の乾く暇もなく、気分が落ち込みくじけ給いて。
どうして命長らえることが出来るのかと、我ながら怪しき程にぞ思し召す、一の宮(尊良親王)も都を出てより、父後醍醐天皇との別離、御身の上一方ならぬ御嘆き、御息所(みやすどころ)の御名残、今を限りと思し召し。
旅の途中で死んだとしても惜しい命ではないと、思し召さるる御命の長らえて、何事も無く土佐の幡多という所のひどく粗末な小屋、この世の中とも思われぬ浦の辺りに流されて、月日を送り給えば、晴れる間も無き御嘆き譬(たと)えん方もましまさず。
気落ちし給いしを御いたわしくや思いけん、御警固に候いし幡多郡の有井庄司(荘官)は、情けをかけ勧め申しけるようは、どうして差し障りがございましょうか、御息所(みやすどころ)を忍びやかに、こちらへ下し参らせて、御心をも互いに御慰み候へとて。
美しい女装束一領を調え納め申し上げ、その外の道中の宿、食事などの手配懇ろに沙汰しければ、一の宮(尊良親王)は喜び思し召し、ただ一人候いし近習の奏武文(はだのたけぶん)を、御息所(みやすどころ)の御迎えにぞ遣わし上せらるる。
6 一の宮の迎えの使者奏武文の訪れ
奏武文(はだのたけぶん)、御文給わりて、急ぎ都へ上りしに、短い間にも一の宮(尊良親王)の御座所は見るも無残に荒れ果てて、つる草茂りて門を閉じ松の葉積もりて道もなく、訪れ交わすものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、住人もなく荒れ果てたり。
さては御息所(みやすどころ)は、何処かに身を隠されているのであろうかと、彼方此方と御行方を尋ねける程に、嵯峨野の奥にある里に、松材の袖垣が荒れてまばらになるに蔦(つた)生えかかり、池の姿も物寂しく水際の松風秋すましく吹き続け、誰が住んでいるのかと見るも鬱陶しい感じの家の内より琵琶を弾ずる音しけり。
怪しやと思い立ち留まって是を聞けば、まぎれもない御息所(みやすどころ)の御撥(ばち)の音なり、奏武文(はだのたけぶん)嬉しく思い、垣の破れより内へ入り縁の前に畏(かしこ)まりたれば。
破れたる御簾の内よりもはるかに御覧じい出されて、何と仰せい出さるる御言葉もなく、あれやとばかり御声かすかに聞こえながら、女房達ささめき合いて、まず泣く声のみぞ聞こえける。
奏武文(はだのたけぶん)、一の宮(尊良親王)の御使いに罷り上って候と申しもあえず縁に手打ち駆け、さめざめとぞ泣きにける、やや有りて、ただこれまでと召さるれば、御簾の前に膝ま付き、都を遠く離れてあれこれと御方の事を思いやり申し上げていてもどうしょうもない事ですから、どうか土佐の幡多の田舎へ下向なさってくださいとの、御迎えに罷り上って候と御文を捧げれば。
急ぎ開いて御覧ぜらるるに、実にとお思いの切なる色、さぞと覚えて、文面の一語を読む度に涙ぐんで袖を濡らし、よしや、一の宮(尊良親王)との一緒であれば如何なる田舎の住まいであっても何とか辛さにだけは絶えることが出来ようとて。
やがて御門出で有ければ、奏武文(はだのたけぶん)、かいがいしく御輿などを尋ねい出し、まず尼崎まで下し参らせて、渡海の順風をぞあい待ちける。
7 松浦五郎、御息所を奪う
かかりけるところに、九州筑紫人に松浦五郎といいける(海で活躍する松浦党)武士が京より田舎へ下りけるが、これも同じように風を待ちていたりしが、御息所の御姿を垣の隙間より見奉り。
これは、そも天人のこの土に天降れるか、この世の人とも覚えずと、目を離さずずっと見つめていたが、ああ切なくて、もうどうしょうもない、例え主ある人成りとも、又如何なる天皇の后、皇女であろうとも。
一夜の程の契りに百年の命に替えん事何が惜しからん、奪い取ってやろうと思う所に、奏武文(はだのたけぶん)の下部(しもべ)が、浜出して遊びけるを呼び寄せて、酒飲ませ引出物を取らせ。
さても御前さんの主人の連れ奉る上臈は、如何なる人ぞと問いければ、身分の卑しい者の悲しさは、酒に耽(ふけ)り、引出物に賞(め)で、事の様を有のままにぞ語りける。
松浦五郎大いに喜んで、今日この頃如何なる宮にておわせよかし、謀反人にて流されさせ給う人の所へ、忍んで下り給う上臈を、途中で奪い取ったとて、大した罪にはなるまいよと思い。
郎等どもに宿の案内見せ置かせ、日の暮れるをぞあい待ちける、夜既に更けければ、松浦党の郎等三十余人が物の俱ひしひしと差し固め、松明に火をつけ、蔀、遣り戸を蹴破って前後より討ってぞ押し入りける。
奏武文(はだのたけぶん)は、公家の家に仕える武士といえど日頃、武芸手並を発揮して豪勇は他を抜きんでる者なれば、強盗入りたりと心得て、枕元に立てたる太刀押っ取り、中門さして切って出で、進む敵を三人あっという間に切り伏せ。
残る敵を大庭へ一度にばっと追い出し、大声上げて名乗る様、右衛門府生の奏武文(はだのたけぶん)という大剛の者ここにあり、盗る事の出来ない物を盗ろうとして、二つと無き命を失うものの不憫さよと、反りかえった太刀を直して、門の脇にぞ立ったりける。
松浦の郎等どもは、奏武文(はだのたけぶん)一人に切り立てられて、門の外へ引きたりしが、恥知らずだ、敵は只一人ぞ返せ返せと言うままに、傍なる家に火をかけて喚き叫んで寄せたりけり。
奏武文(はだのたけぶん)、心は猛けれども煙を風に吹き懸けられて、叶うべきようあらざれば、内へ走り帰って、御息所(みやすどころ)を負い参らせ、向かう敵を打ち払い、湊の船を招きつつ、如何なる船にて候とも、この上臈を暫く乗せて下さいと呼ばわって、波打ち際にぞ立たたりける。
船ども多きその中に、命運が尽きる時の悲しさは、松浦党の船がこれを聞き、一番に渚へ差し寄せる、奏武文(はだのたけぶん)大層喜んで、船の屋形の内へ御息所(みやすどころ)を乗せ申し、御供の女房たちをも船に乗せんと思いて、走り帰って見てあれば、泊まっていた宿には火がかかり自分たちの連れの者どもは行方不明になりにける。
8 御息所を奪われた奏武文の自害
その隙に、松浦五郎は、この貴婦人が我が船に乗ったことは、全く天がお与えになった事なり、急ぎ船に乗りや、とて一族郎党百余人大急ぎで皆船にこそ乗ったりけれ、艫綱解いて押しい出す。
奏武文(はだのたけぶん)、渚に帰りて船はと問えば無かなりけり、見れば沖にぞ浮かんだる、のう、その船寄せられ候へ、屋形の内に乗せ申す上臈を陸へ御移し申さんと声をばかりに呼ばわれども。
順風に帆を上げければ船は次第に隔たりん、奏武文(はだのたけぶん)、余りの無念さに、海士(あま)の小舟に打ち乗って、自ら櫓を押して急げども、追い風を得たる大船に追い付くべき様あらざれば、扇を上げて、その船止まれ止まれと招きけるを、松浦党の船これを聞きどっと笑う声しけり。
奏武文(はだのたけぶん)、腹立たしい事かな、そういう考えならば、只今海底の竜神となって、その船に追い風は遣らせないと怒って、船の舳先につつ立って腹十文字に掻き切って蒼海の底にぞ入にける。
9 御息所の悲嘆
御息所(みやすどころ)は、宵の間の夜討ちの入りたる騒ぎより、呆然としてわけが分らず、夢の浮橋浮き沈み(ゆめうつつに)危険な所を行く心地して、一体どうなる事であろうと、泣き伏してこそおわしけれ。
船の内に居る者が、あっぱれ大剛の者かな、主人の上臈を人に奪われて腹を切りつる事よと言い沙汰するを。
奏武文(はだのたけぶん)の事やらんと聞し召しながら、せめてそなたをだけでも見遣いらせ給わず、衣引き被り屋形の内に泣き沈みて、ましますところに。
見るも物恐ろしく無骨で気味の悪い髭面男のひどくなまった濁声出す真っ黒色の男が御側に参り、何をか差して御嘆き候ぞ、面白き道すがら名所浦々を御覧じて御慰み候え、左様にては如何なる者も船には酔う者にて候と、とかく慰め申せども。
御顔をも、もたげさせ給わず、ただ鬼を満載した車に乗せられ、中国長江の巫山の三峡の急流を舟に棹さして下ろうとも、この恐ろしさには勝るまい、無骨で気味の悪い男も呆然となって、船梁に寄り掛かり、是さえも呆れ果てたる様子なり。
その夜は大物浦(現尼崎)に錨を下ろし、世を恨みながら浦風に漂われた、明ければ風良く成りぬとて同じ泊まりの船どもも、帆を引き梶を取り 各々が様々に漕ぎ行きければ、都は早、後の霞と隔たりぬ、九国(九州)へは、何時か行き着かんずらんと、人の申すを聞し召し。
さては、心労の多い筑紫へ行く旅なりと御心細気に付けても、北野天神の荒人神とならせ給いし、その古の御心尽くし、今も思し召し忘れずば、その霊験にて我を都へ帰し給えと御心の内に祈らせ給う。
10 御息所、竜神の生贄に
その日の暮れ程に、阿波の鳴門を漕ぎ行きしに、にわかに風代わり潮の流れが逆行し、この船左右なく行き遣らず、船人驚き帆の中ほどを刃物で突き破り近き浦に寄せんとすれば、潮流の落ち合う所に大きな渦巻きが出来て、船を海底に沈めんとする。
水主、舵取りども、如何わせんと慌てて、帆のむしろや雨をしのぐ編み物の苫を海に投げ入れ、渦に巻かせて、その隙に漕ぎ通さんとしけれども船は全く動かない、渦の舞うに従って波と共に廻る事は茶臼を押し回すよりも早く廻るなり、
これはいかさま竜神の財宝に目を掛け悩ますと覚えたり、何でも海に入れよとて、鎧、腹巻、太刀、刀、数を尽くして入れけれども、渦の舞う事なを止まず、もしかすると女の色ある衣装に取り付いたのであろうと。
御息所(みやすどころ)の御衣と赤き袴を海に入れければ、白波色変じ赤い太陽を浸せる如くなり、是に渦は静まりけれど、船は同じところに三日三夜ぞ廻りける、船中の人々、一人も起き上がらず皆船底に平伏して、意識不明の状態に見えにける。
御息所(みやすどころ)は、そうでなくてもひどい目に合って死にそうであるのにましてこの風波で生きた心地もなさらない、よしや生きて辛い目を見るよりは、どのような淵瀬にも身を投げ入れたいと思し召されけれど、さすがに今を限りと泣き叫ぶ声を聞し召せば。
千尋の底の水屑となり深き罪に沈みなん後の世を誰かは知りて弔うべき情けない事よと、思し召す御心の内こそ哀れなれ。
松浦五郎も今は茫然となって掛る高貴な人を奪い取ったため、きっと竜神が責めているのだ、馬鹿げた事をしたものだと実に後悔の様子なり。
かかりける所に、船底よりも舵取り一人這い出でて申しけるは、この鳴門と申すは竜宮の東門に当たる所にて、何んでも竜神の欲しがらせ給う物を海へ沈め給わねば、何時もかかる不思議の有る所にて候。
これは如何さま屋形の内に召されたる上臈を、竜神への生贄にと申されたると存ずる、口にするのも如何にも無慈悲で冷酷でありますが、この事一人の事ゆえに、多数の者共が巻き添えになって非業の死を遂げるのは気の毒な事ですから、この上臈を海に沈め奉り百余人の命をお助けあれと申す。
松浦五郎も、もとより情けなき田舎人の事なれば、若し我が命や助からんと思い、屋形の内へ参り御息所(みやすどころ)を荒っぽく引き起こし申し、余りにつれない貴女の態度を拝見するのも期待外れですので、海へ沈め参らすべきにて候。
御契り深くば、土佐の幡多へ流れ寄らせ給いて、宮とか堂とかいう人と同じ浜辺でお暮しなさいと、荒っぽく掻き抱き申し、海へ沈め参らせんとする、このような状況になってしまっては、何を言ってもどうにもならないので、全く声もお出しにならない、御心の内には、仏の御名ばかり唱え絶え入らせ給いぬ。
これを見て僧の一人便船したりしが、松浦五郎の袂を控え、如何なる御事にて候ぞ、それ竜神と申すは、南方の煩悩の汚れの無い世界に悟りを開いて成仏し、仏から保証を得た者にて候えば、全く殺生と言う罪の報いの有るような、捧げものを受けるはずがない、ただ経を読み陀羅尼呪文を唱えて、竜神に悟りの喜びを与えて楽しませる事こそ、真実の祈りともなるべく候へと、固く制止ければ、松浦五郎もさすがに岩や木ならねば、御息所を船底へ荒っぽく投げつけ申す。
さらば、僧の意見に従って祈りなさいとて、船中の上下、異口同音に観音の名号(みょうごう)を唱えしに、不思議なる者共が海上に浮かび出でてぞ見えにける。
まず一番に、薄桃色に染めた布の狩衣を着た雑役の下人が長櫃を担いで通ると見えて、うち失せぬ。
その次を見てあれば、白い毛に黒褐色の葦毛の駒に、銀張りの鞍を置き、八人の舎人が馬を引いて通ると見えて打ち失せぬ。
やや暫く有りて、大物の浦にて腹切って死んだりし奏武文(はだのたけぶん)が、緋色の皮で縅した鎧着て、五枚しころの兜の緒を締め、黄つげ色の毛の馬に乗り、弓杖に掴まって皆紅の扇を上げ、松浦五郎の船に向かって、止まれ止まれと招いて波の底にぞ入りにける。
舵取りどもが、これを見て、波の荒い海の難所を走る船に不思議の見ゆるは、常の事にて候えども、是はまさに奏武文(はだのたけぶん)の怨霊とこそ存知候へ、そのしるしを御覧ぜんがために、小船一艘こしらえて漕ぎ手水夫を一人あい添え、この上臈を乗せ参らせ波の上に突き流し、竜神の本意が何であるか御覧なさいと申す。
この儀、もっとも然るべしとて、小船一艘引きおろし漕ぎ手水夫を一人と御息所(みやすどころ)を乗せ参らせ、さばかり渦の巻き返す波の上にぞ浮かべける。
観世音菩薩浄土本縁経に載る、かの早離、速離兄弟が海岸山に放されて、飢えと寒さの苦しみに沈みしも、それは人住む島なれば、立ち寄る方もありぬべし。
是は浦にも島にもなく、どうなるのか鳴門の波の上にて、捨て船と共に捨てられ、潮に流されて渦を撒く泡の中に消えてしまう運命は悲しけれ。
されば竜神も、愛のない松浦五郎との間を裂かれたのであろうか、風にわかに吹分けて、松浦五郎の船は西を指して吹かれ行くと見えしが、一ノ谷沖にて武庫山おろしに放されて行方知らずに漂いしが、逆浪が船を覆(くつがえ)して、底の水屑となるとかや。
11 御息所、武島漂着
その後、波風静まれば、御息所(みやすどころ)の御船は、淡路島南端の孤島、武島に着かせ給いけり、この島と申すは、釣りする海女の家ならでは住む人も無き、隙間だらけの屋根を蘆(あし)で葺いた粗末な小屋の内へぞ入り奉りける。
この四五日の波風に御心も弱り、絶え入らせ給いぬ、これを見て、心なき海女の子供までもが、是はどうされたのであろうと嘆き悲しんで、御顔に水注ぎなどして、ようよう生き返り給いけり、何故、過酷な運命にあやさられた命が絶えもしないで生き返って、また辛い目に合うのでしょうと嘆かせ給えど、甲斐ぞ無き。
そうでなくてさえ、涙のかかる御袖は乾く間もなき折からに、雨覆いの苫洩れる滴、荒磯の岩に砕ける波の露、消えを争う風情なり。
いつまでもこの様にしていて良いものか、土佐の幡多と言う浦へ送りても有れかしと御嘆きになるので、海女共申しけるは、これ程に美しい上臈を我等の船に乗せ申し、遥々土佐まで送り奉らんに。
どこかの津や泊りにて人の奪い取り申す事も候べきに、決してその様な事は出来ないとの由を申しければ、力及ばず、日々の起き伏しに涙で袖を絞りつつ、今年はここにて暮させ給う、御心の内こそ哀れなり。
12 一の宮、御息所の遭難を知る
さても、一の宮(尊良親王)は、御息所(みやすどころ)のこうした事情を全く知るはずもなく、御息所(みやすどころ)の御迎えに奏武文(はだのたけぶん)を京に上されしのち、月日遥かになりぬれども、来るとも来ないとも何の返事もよこさないので、何か辛い目にでも遭ったのかと静心なく思し召して。
京より下りける者に御尋ね有ければ、御息所は去年の九月に都を御立ちましまして幡多へ下らせ給いしとこそ確かに承りしかと申しければ、さては道にて人に奪われけるか、又は世を恨むかのような瀬戸の強い風にもまれて、深い海底に沈んでしまったのかと静心なく思いわずらわせ給いけり。
ある夜、御警固に候いける武士共が中門の当直して世間のあれこれの事を話す中で、有る者の申しけるは、さても去年の九月に阿波の鳴門を過ぎて当国へ渡りし時、船梶に懸りたる衣を取って見しかば、高貴で上品なものよ、普通の人の装束とは見えず、是はいかさま内裏、院、御所の上臈、女房たちの田舎へ下らせ給うとて、暴風に遭いて海へ沈ませ給いたる、その装束にてぞ有らん、あな哀れさよ等と言い沙汰するを。
一の宮(尊良親王)が垣越にて聞し召し、去年九月の事なれば、もしかしたら気がかりな御息所(みやすどころ)の事ではあるまいかと、心もとなく思し召し、その衣未だ有らば持って参れと仰せければ、色こそ損じて候へども、私の手元に御座いますとて取り寄せて参らせ上ぐる。
一の宮(尊良親王)、つくづくと御覧ぜらるるに、御息所(みやすどころ)の御迎えに奏武文(はだのたけぶん)を京に上らせし時、有井の庄司が調進申せし御衣なり。
不思議やとて裁ち残りたる衣を召し出し差し合わせて御覧ぜらるるに、綾織物の紋様が少しも違わず続きたれば、御息所(みやすどころ)が着ていた装束に間違いない事が分り。
海底に沈んでしまった事がはっきりしたので、一の宮(尊良親王)、二目とも御覧ぜず、この衣を御顔に押し覆い泣き沈ませ給えば、有井の庄司も御前に候いしが、涙を押さえて罷り立つ。
御息所(みやすどころ)を今は早、この世にまします人とは露にも思し召されず、この衣が梶に懸りし日を亡き人の命日に定められ、自ら御経遊ばして、過去の幽霊、藤原の氏の女、並びに奏武文(はだのたけぶん)共に、衆生が生死輪廻する三つの苦の世界の大きく深い苦界を出で、速やかに阿弥陀の極楽浄土へ至れと、祈らせ給うぞ哀れなる。
13 一の宮と御息所の再会の喜び
さるほどに、その年(元弘三年)より足利尊氏、新田義貞が後醍醐天皇に呼応挙兵し、諸国に戦起こって、六波羅、鎌倉、九国、北国の朝敵北条幕府を滅亡させ、後醍醐天皇は隠岐を脱出し京都に還幸なり給い、一の宮(尊良親王)は土佐の幡多より都に帰り給う。
天下ことごとく、後醍醐天皇の親政が開始され公家一統の御代と成り、目出度しとは申せども、一の宮(尊良親王)の御方には、御息所(みやすどころ)の同じ世に居ない御事を深く嘆かせ給いしに、淡路の武島に御座有る由を風の便りに聞し召し、お迎えを下され、かくて都に入り給う、
ただ、中国の英雄王質が山中で仙女と契り山より出でて帰って見ると七世の孫の世だったという話や、中国の神仙術を司る方士が玄宗皇帝の命を受け海に入りて楊貴妃に逢い、その形見と伝言を伝えたとする話、かくやと思い知られたり。
御息所(みやすどころ)は思わずも、心は筑紫に赴きし(心労の多い筑紫へ行く旅)、御哀れみの心憂さ、波に定まる所なく揺れ動く泡沫(うたかた)の消えぬ身ながら長らえ、二年過ぎし物思い御推し量(はか)りもなを浅くやと、お袖を絞り給えば。
一の宮(尊良親王)はまた、天の河と渡る船の梶の葉に、思うことをも書くとも尽きぬ御嘆き、最も悲しい別れであると、死後の菩提を弔った年月の数々積もりし悲しみ、ただ自分一人のみの悲しみとして、忘れることが出来なかった有様を語り過ぎさせ給いけり。
かくて、辛く悲しい世の中がたちまち一変し、人間の栄華、天上の娯楽、極めずと云う日もなく、尽くさずと言う御遊びもなし、天子の御殿の中は、梨花に降る雨が土壌を損ねる事もなく、不老門の前には、楊柳の風、枝を鳴らさず穏やかである。
今日を千年の始めと、めでたき例(ためし)に明かし暮らさせ給ひけり。
《参考》
◎ 本話は他の幸若舞の諸曲に対して、新しい曲の意で命名されたもの。幸若系図之事には、幸若弥次郎節付とある。
源話は、南朝悲劇の代表的哀話で、越前金埼落城に際し、一の宮は、新田義貞と共に自害し、その中陰中に御息所が死ぬというのであるが増鏡などから、御息所の記述は虚構とされる。
なお、本話は二人の死には一切触れず、高貴な男女の出会いと別離、再会で構成され目出度しで終わる祝言性が強い。(麻原美子「舞いの本」より)
◎ 天文23年(1554年)4月11日久世舞幸若太夫、照護寺下也、六十近者也、来。舞度之由内々望之間、頼資被、露之間、即於亭令舞之。頼若太郎、たかだち、景清上ロ、新曲、こしごえ以上五番也。座敷七人也。音曲面白相聞也。(略)…太夫二三百疋、同子悉皆脇ヲスル、百疋、座者六人中三百疋遣之(証如上人日記)。
本願寺第十世証如は、焼かれた山科本願寺の寺基を大坂石山本願寺に移し、一向一揆の宿敵越前朝倉孝景とも和談している。
◎ 1592年山科言經の日記「言經日記」本では、3月5日の項に「江戸大納言殿(徳川家康)罷向了…夕食後幸若三人参り舞う。その舞は新曲・夜討曽我等が舞われ戌の刻(午後八時ごろ)に幸若太夫が帰った」と記録されている。