四国落(全文版)

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1 源義経都落ち
 さるほどに、判官(源義経)、内裏を退出ましまして、(京六条)堀川殿(源義経の館)に御下向(戻り)あり、武蔵(坊弁慶)を召してお仰せけるは、帝の宣旨を蒙むる上(給わって)、義経、都に(このまま)在らん事、違勅(勅命に背く)の臣と存ずる、旅の出で立ち(支度)を構えよ(せよ)。
 (武蔵坊)弁慶承り、宗徒の(主だった)人々二百余騎選(すぐ)り、都の内を出でさせ給う、(義経の妻や妾は、河越重頼娘で正室の郷(さと)御前、平時忠娘で妾の蕨(わらび)姫、白拍子の静ら、この)十二人の北の(奥)方も御伴なりとぞ慕わせ給う(皆御供を望んだ)。
 (源)義経(は)、この由御覧じて、いかなる事ぞ、既に早、関東(鎌倉の源頼朝)よりの不興(勘気を被っている)の身にて候えば、天に業の網を張り、地に逆茂木の関を据え(られ、前世の宿命で到底逃げおおせる事も出来ない)、いづくにても義経が討たれんことは治定めなり(確実である)。
 さあらん(このような)時は、なかなか(なまじっか)御前(あなた方を)具足(お連れ)し承り、そこともなき(何処ともわからぬ)遠島に捨て置き申さば(ならば)義経が跡の弓矢の瑕(きず)たるべし(武士の恥)、ただただ留り給えとよ。
 十二人の北の方この由聞し召し、たとえ、竜龍(りゅうたつ、竜蛇のいる)山の奥、死出三途の川なりとも、共にこかれば憂(う)かるまじ(一緒に討たれるならば辛い事もあるまい)、留まるまじ(事もできない)の都やとて、先にぞ立たたせ給いける。
 義経聞し召されて、ああ、慕うも一つ道理、誰を頼みて松浦姫(まつらびめ)。
 ((山上憶良(万葉集巻五874)の歌に、「海原の沖行く船を帰れとか領巾(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫」(海原の沖に去り行く船に帰れと願って肩掛薄布を振ったのだろうか松浦紗世姫は)とあり、日本書紀に新羅との戦に行く夫大伴狭手彦と別れを悲しむ妻松浦紗世姫の話が出て来る))
 都に留め置くならば道の障りと成るべし、切れども切られぬ愛欲の憂き身の障りこれ成りとて、二百余騎の人々は御輿を中に取籠めて(取り囲んで)涙と共に立ち出ずる。
 これや、延喜の聖代(醍醐天皇の御代)に、(菅原道真が大宰府で詠んだ歌)
  家を離れて三四月、落る涙は百千行(ももつらちつら)、万事は皆夢の如し、よりより(時々)、彼蒼(ひそう、青空)を仰ぐ
  (家を離れて三か月、いや四か月が過ぎたであろうか、もう百すじも千すじも涙を流した、昔の栄華も今の落魄も何もかも夢のように思えて、あの青空を仰ぐばかりだ)
と詠じ給いし旧跡と、(同じ道)今の義経の配流の旅、姿はいずれ変わるとも、思いはさながら一つなり。
 (義経配流の旅は京を出て)末は山崎(から)、宝寺(天王山の山崎寺)、神内(こうない高槻)、かちおり過ぎければ、(馬の足掻きも乱れ調子となり)しどろもどろに乱文し、あらむつかしや芥川、豊島、瀬川(箕面川)、万乗寺、箕面山の紅葉に、心の留まる折節(その時々)。
 又打ち出れば西宮(広田神社)、(浜の)南宮の御前の沖の荒恵比寿(西宮神社)、松原殿の御山荘、昔恋しと打ち眺め、霞む浦路は住吉か、霧の隙より松見えて、波に漂う海人(あま)小舟、心細しと打ち眺め早、大物の浦(淀川河口の大阪湾)に着く。
 (武蔵坊)弁慶(が)申けるようは、これより西国への旅の道(は)難所岩石にて、御輿の徒歩路(は)ゆめゆめ叶い候まじ(叶いません)、これより御船に召され四国に渡り、伊予の河野(氏)を御頼み有り(て)あれに(そこで)しばらく御座あり、世の有様を御覧ぜられ候へ。
 (もし)四国、九州一円に思いつき(が全部源義経に味方)申さば十万余騎は候べし、その大勢を率し都へ攻めて上り、讒臣(ぎんしん、落とし入れようとし主君に取入る臣下)の輩(ともがら)を御心のままに滅ぼし、などか御代に立たせ給わで候べき。
 義経聞し召されて「さらば船を用意せよ」、「承る」と申して、宗徒(主だった者)の大船八艘、十二人の北の方の御伴の人々二百余騎、思い思い、心々にとり乗り、追い手の風を待つほどに、日も長閑(のどか)なリ出せよとて、艫(とも)綱解いて押し出す、実に順風は良かりけり。
 二時(ふたとき、四時間)ばかりの事なるに、音に聞こえたる和田の岬(神戸港)を心細くも走り過ぎ、弓手(左手)を見れば(淡路島の東北端)江島が磯、馬手(右手)は明石の人丸(柿本人麻呂)の
 ((柿本人麻呂の歌
  「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思う」
  (ほんのりと明るんでいく明石の浦、その明石の浦に立ち込める朝霧の中を、島隠れに行く舟をしみじみと感慨深く眺めることだ)
と歌に詠まれているように))
 雨の降る夜も降らぬ夜も、風の立つ夜も立たぬ夜も、島陰れ行く海人小船(あまをぶね)、心細しとうち眺め、尾上(神社、兵庫加古川)、(対岸の)高砂(神社)過ぎければ室(津)の沖にぞ着きにける。
 義経仰せける様は、如何にや水主(水夫)、舵取、ここかしこの津泊りにて、中々(なまじ)船を寄するならば自然の事(不慮の事)もありぬべし(生じるであろう)、順風良くば只直ぐに四国へ渡せと仰せけり、承ると申して舵取り直し御座船を四国を差して押し渡す。

2 武蔵坊弁慶、悪風を鎮める
 かかりける所に、讃岐の八島(屋島)の上よりも、黒雲一群立って悪風(暴風)こそ起こりけれ、水主(水夫)申しける様は、いかさま(いかにも)悪風(暴風)の起こらんやらん、雲の気色(様子が)乱転(逆巻いて騒然と)し、海の面(おもて)動揺し、白波船枻(せがい)を(波が船をたたき)洗い如何わせんと申す。
 義経聞し召されて、それがしも、さ(その様に)存ずる、去年八島(屋島)へ向かひし時、渡辺(大阪湾)よりも船に乗り押し出したる風雲に、ちっとも違わぬけうあい(気配)なり(風が吹き荒れる前触れに起きる雲に似ている)。
 船を良く乗り(こなし)用意せよ、夜船にならば此の船、いかさま(如何にも)風に誘われて船人共に失せぬ(失う)べし、たとい風が激しくとも途中(帆の真ん中)を裂いて(風を通して)やってみよ、なをしも(なおも)風が激しくば、寸半(きなか、僅かだけ)帆掛けて(帆を掛けるだけにして)走らせよ。
 それにも(それでも)風が吹き強(こわ)らば(強まれば、帆を外し)帆柱だけでやって見よ、(船のへ先を)面舵(おもかじ、右方向に)を強く取り、取梶(左方向)を弱く取り、脇艪(わいろ、舷側に立てる艪)を立て気色(様子)を見て四国を指してやってみよ舵取共とぞ仰せける。
 承るとは申すけれども、よき程の風にこそ思うようには扱われる(が)、この悪風(暴風)と申すは、津の国武庫(六甲)山おろし、紀の国の岩山おろし、四国の白峰山よりも起こったる悪風(暴風)にて、平々としたる海の面に、にわかに谷峰出来て、白波が船枻をたたき洗うなり、水主(水夫)、舵取、櫓櫂取るべき様は無し、十二人の北の方、近所(側近く仕え)の人々は船底にひれ伏して、さながら前後をわきまえず。
 かかりける所に、四方より悪風(暴風)が揉み合わせて、吹く風に帆柱二つに吹き折れて、八艘の(船々をつなぎ合せる)舫(もやい)の綱が一度にぱらりと切れたりけり、風に取られて、船どもが思い思いの方に落とさるる(勢いよく流さるる)。
 四国へ落とす(流される)船もあり、西国へ落とす(流される)船もあり、(阿波大毛島の)土佐の湊へ落とす(流される)船もあり、あるいは元の明石灘、兵庫の沖へ落とす(流される)船もあり、八艘の船どもが皆散々になりにけり。
 あらいたわしや大将の召されたる御座船には、十二人の北の方、御供の人々三十人、荒き波には当てられつ、さながら前後もわきまえず、ようよう残る人(武士)とては、義経、(武蔵坊)弁慶ただ二人、船の前後を扱いて風に任せて落とさるる(流さるる)心ざしこそ哀れなれ。
 (武蔵坊)弁慶申しけるようは、それ(雨を呼ぶ)風は、(八大)竜王の中の沙竭羅(しゃから)竜王(が)の(吹き)出し給える息として、時の不思議を(暴風を鎮め)なし給うに(は)、宝を沈めて御覧ぜられ候へ、されば宝を沈めんとて十二人の北の方のかさね小袖、紅(くれない)の千入(しちほ、繰り返し染め上げ)の袴、判官(源義経)の黄金作りの御偑刀(はかせ)を海底に(投げ入れ)沈め給いけり。
 元よりもこの人々(義経、武蔵坊弁慶は)、寺育ちの学生にて法華経の(重要な思想が説かれている)一の巻を時(が)移る程こそ誦(じゅ、唱え)せられけれ、実に竜王も御納受やましましけん、波風少し鎮まれば船は小波に揺れ据(す)ゆる。
 また(さらに、今度は)八島(屋島)の上よりも唐傘ほどなる(謎の)光物が、七つ八つ飛んで来(るという怪奇が起き)て、悪風(暴風)こそ起こりけれ、(武蔵坊)弁慶是を見て、只事ならずと思い船底へつつと入り、頭巾、篠懸(すずかけ、衣の上に着る麻の法衣)をうち掛け、船の舳板(へいた)に突つ立ち上がり大声上げて呼ばはる(呼ばわった)。
 只今、ここもとに進み出でたる兵(つわもの)をば如何なる者と思うらん、小野篁(たかむら)右大臣が末孫、田辺の別当湛増(たんぞう)が嫡子、生まるる所は出雲の国枕木の里、育つ所は三条京極、学問するは天台山(比叡山)悪魔降伏の貴僧と生まれ。
 それ風は竜王の出し給へる息として時の不思議をなし給うに退き給へと言うままに、苛高(いらだか)数珠を取り出し、さらさらと押し揉んで、東方には降三世明王、南方に軍茶利夜叉明王、西方に大威徳明王、北方、金剛夜叉明王、中央、大聖不動明王(以上、仏法に帰依する国を守る五大明王)。
 見我身者発菩提心 (我が身を見る者は菩提心をおこし)、聞我名者断悪修善(我が名を聞く者は悪を断ち善を行い)、聞我説者得大智恵(我が説く所を聴聞する者は深い知恵を得ることが出来る)、知我心者即身成仏(我が心を知る者は即身成仏を遂げることが出来る)と。
 この真言の秘密にて黒煙を立てて祈られた、実に竜王も、さても悪霊も御納受やましましけん、波風少し鎮まれば船は小波に揺り据(す)ゆる、かかる刻み(とき)に平家の怨霊たち(も)その数湧き出でせられけれども、(武蔵坊)弁慶に加持せられ、皆、海底に入り(退散し)給う。

3 住吉の神の化身の老翁
 暁(あかつき)方の事なるに、そことも(何処ということも)なき遠島に、灯火(ともしび、明かり)がほのぼのと見ゆる、義経御覧じて、里近き浦なればこそ火は見えて有らんと、あの火を頼りにこの船を漕ぎ寄せよとの御諚(御言葉)なり。
 承ると申して、火を頼りに漕ぎ寄せ見れば、八十余りなる老翁の釣(糸)を垂れてぞ居たりける、義経御覧じて、如何にや尉殿(じょうどの、老人)、この浦は何処の国(の)如何なる浦にてあるやらんと御尋ねありければ。
 翁承り、その返事には及ばず、船ほとほとと打ち鳴らし一首はこうぞ聞こえける。
 (老翁は和歌で)
  漁火の藻塩(もしお)の煙風に消えて吹きあかしたる荻(おぎ)の一むら
  (藻塩を焚く煙が風に吹き飛ばされて、明るくなった浜に、荻の一むらが見える)
と詠んだ。
 義経聞し召されて、あら面白や誰かこの歌の心を知りたる(解釈出来る)人の有やらん(居ないか)と御尋ね有りければ、いずれも船(酔い)心地にて前後も知らず見えさせ給う、十二人の思い人の中に、静御前ばかりこそ、船には酔わざりけるが、進み出て申さるる。
 あら嬉しや、この船(は遠く)新羅、百済(朝鮮半島)、震旦(中国)とやらんへも(までは)落とされても(流されてはいない)有やらんと(行ってしまったかと思い)心もとなく思いしにに(心配していたが)、のう、今は早、安堵にて(安心にて)候うぞ。
 されば、荻(おぎ)に数多の異名あり、(荻、おぎは川辺に生える)よしとも申し、芦(あし)とも言えり、(一叢、むらは一村)村と言うは里の名、その上、古き歌にも(新古今集、藤原良経)
  (漁火の昔の光ほの見えて芦屋の里に飛ぶ蛍かな)
  (漁火の、あの昔のにぎやかな光を今もほのかに眼に浮かばせて、芦屋の里に飛ぶ蛍よ)
(とあり)
 漁火と言う事は、難波(なにわ)入江(大阪湾)に寄せられたり、いかさま(いかにも)此の浦は、(摂)津の国の芦屋の浦の事やらん、のう我が君(源義経様)と申しけり。
 義経聞し召されて、それがしも、そう存ずる、如何にや尉殿(じょうどの、老人)、この浦は津の国芦屋の浦か(と尋ねると)、さん候(そのとおりと答え、さらに)さて尉殿(じょうどの、老人)はこの浦の人か(と問えば)、いや、住吉の方の者なり(である)とて消すが如くに(と答えて消えるように)失せさせ給う。
 ((日本書紀には、摂津国(大阪北西部と兵庫南東部)一之宮の住吉神の荒御霊を守神として軍船を整えた神功皇后は、新羅平定し無事帰還を果たしたとある))
 さては(これは)疑う所なし巽(たつみ、東南)の明神(住吉神社)の(が)義経を憐れみて教え給える尊(たっと)さよ(下さったのだ)と(喜び)、潮(うしお)で手水うがいして(清め)そなたを礼し給いけり(頭を下げて礼拝をした)。

4 芦屋三郎光重らと合戦
 さる間(ようやく)、御座船を芦屋の浦へ押し寄する、かの浦の国民(土豪の)芦屋の三郎光重(は)、船子(船頭)に会って問うた、船子(船頭)答えて申す、さん候、これは鎌倉殿(源頼朝)の御舎弟、太夫の判官義経、西国(への)下向(途中)ましますが悪風(暴風)に吹かれ、この浦に寄らせ給いて候と申す。
 (芦屋三郎)光重聞いて、さればこそ(思った通り)この君(源義経)は、鎌倉殿(源頼朝)の御仲違わせ給う人よ、いざこの君を討ち申し関東へ(首を差出し)参らせ勲功懸賞に(物品や官位を)預からん、人々や、と言うままに、浦内を(へ)触れ回る。
 もっとも然るべしとて、我もと思いし浦の人、二三百人が真黒に鎧い(一生懸命に武装し)、御(座)船を二重三重に押っ取り巻いて、鬨(ときの声)をどっと上げる、いたわしや御座船には、いづれも(皆)船(酔い)心地にて前後も知らず(分らなく)見えさせ給う。
 その中に(武蔵坊)弁慶、船には酔わざりしが、かねて用心厳しければ、物の具小具足そし堅め(しっかりと武装して、矢を入れる箙に)、三十六指(本の実戦用鷹羽の)たる大中黒の征矢を(差して)背負うて、五人張りの(強い弓の)真ん中握り、船屋形に突っ立ち上がって、大声上げて呼ばわる。
 ただ今、ここもとに進み出でたる兵(つわもの)は如何なる者にて侍(はんべ、仕えたるや)るぞや、これは鎌倉殿(源頼朝)の御舎弟、太夫の判官義経の西国下向ましますが、悪風(暴風)に吹かれ、この浦へ寄らせ参らせ給いて候に。
 御触れ状(連盟宛名の廻し通知状)こそなくども(なけれども)、御警固をば申さずして(この様、無作法は)何ぞや、今の狼藉(に対して)は、手並みの程を見せん(腕前のほどを見せてやろう)とて、差し取り引き詰めさんざんに(弓矢を)射たりけり、(正)面に進むよき兵を十七八騎、はらりと射られ、(敵は)少し矢頃を(射程距離から)ひき退く。
 (芦屋三郎)光重この由を見るよりも、御座船に今は矢種や尽きぬらん、返せ戻せ人々とて御座船間近く切って掛る、弁慶これを見て、弓矢をがらりと投げ捨て、長刀(なぎなた)ひん抜いて船より下へ飛んで降り、(芦屋三郎)光重と渡り合い、負いつ捲きつつ、さんざんに戦うたり。
 さる間(そうするうちに、芦屋三郎)光重は、(武蔵坊)弁慶が打つ長刀(を)受け外し候にて、(芦屋三郎)光重が兜の真向を二つに、ぱっかと切り割られ、後ろは(兜のたらし)しころ(首覆いから)母衣付の鐶(かん)、前は(兜の両頬を保護する)半頭(はっぷり)、よだれ金、四枚金胴、(鎧胴部の腰から大腿部を覆う前後左右に垂れた)引敷草摺(の後部までも)二つにさっと切り割られて、弓手馬手(左右に)さばけたり。
 これこそ戦の手始め(に)、大勢の中へ割って入り、西から東、北から南(と周囲の敵と切り結んで暴れ回り、)蜘蛛手(四方八方)、結果(かくなわ、太刀を縦横に振り回し)、十文字、八つ花形(回転し八方向への太刀遣い)というものに割り立て追い回して散々に斬ったりけり。
 手許(まで)に進む(んで戦う)よき兵(つわもの)を五十三騎斬り伏せ大勢に手負わせ、東西へばっと追い散らし、戦の門出めでたしとて、又御座船に取り乗り、住吉の浦に上がらるる(上陸する)、末繁昌と聞こえけり。

《参考》
◎ 十六世紀に流行した語り物の芸能「幸若舞」は、近世には読み物としても普及していった。
 その中でお伽草子と同様に、奈良絵本として制作された舞曲もいくつかあり、「しずか」もその一つである。
 義経は平家征討で活躍、都での評判が高まるにつれ兄頼朝との関係が不和になる。
 都の堀川館が鎌倉方に攻められ危惧を脱したものの、義経は静を伴い西国へと逃れて行く。
 文治元年(1185)都落ちした義経の一行が九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散、その後、静は奥州に向かう義経に同行し畿内に戻り、雪深い吉野山で義経と生き別れてしまう。
 やがて、静は鎌倉側に囚われの身となり、詮議を受けるため母磯禅師と共に頼朝の元に送られる。
 文治二年(1186)4月、静は頼朝に鶴岡八幡宮社で白拍子舞を命じられ、義経を慕う歌を唄い頼朝を怒らせるが妻政子等が取り成し命を助けた、京に帰され、傷心に浸たる静のその後の消息は杳として知れない。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367