【幸若舞完成と白山平泉寺(リンク先)】・
1 始めに
織田信長が愛好した幸若舞「人間五十年下天の内に比べれば夢幻の如くなり一度生を得て滅せぬ者の有るべきか」これは、福井県の越前町に居住した桃井(もものい)幸若太夫によって舞われた幸若舞「敦盛」の一節である。
幸若舞は、越前(福井)の幸若弥次郎、八郎九郎、小八郎の三兄弟家元家が中心に舞太夫を生業にしており、徳川時代には幸若一族五家合わせて徳川幕府から1190石で扶持されるものの、明治維新で廃業し幻の芸能に成ってしまいました。
2 織田信長の家来となった幸若大夫
当時京の都でも宮中や公家たちの邸宅で舞い評判になっていた幸若舞を織田信長は非常に気に入り、自ら覚え稽古し生活の中で何かというと自分で舞っていました(信長公記)。
姉川の戦いで浅井朝倉連合軍に勝利した織田信長は、1573年(天正元年)8月越前一乗谷の朝倉義景を攻め滅ぼすと直ぐに反転し、翌9月に近江の浅井長政を打ち滅ぼします。
幸若太夫六代八郎九郎は朝倉家に仕えていましたが、朝倉義景敗北後の1574年(天正二年)1月6日織田信長に100石で仕える事になります。(写真2)
しかし越前では朝倉氏の旧臣の多くが信長に臣従し、旧領を安堵され栄華に酔いしれていたために、すぐに一向宗が勢力を増し、やがて朝倉旧臣を追い払い越前一国を一向宗が治めるまでになります。
そこで北陸一向一揆退治のため、織田信長は陸と海から大軍を率いて1575年(天正三年)8月12日自ら岐阜城を出陣します。(信長公記)
この戦で織田軍3万は、民家や神社仏閣を焼き払い一揆の門徒宗1万2千人以上を殺害し、越前を完全に支配下に置きます。
当時、織田信長は越前目付の前田利家らに対し「織田大明神(織田家先祖が神官を勤めた越前町織田地区の劔神社)の神域については、先祖に特別の仔細が有るゆえ一切手を付けてはならぬ」と命じている(松雲公採集遣編類募104)、越前町織田地区は幸若家の里の隣村に当たる。
さらに、織田軍が堅城として名高い越前丸岡にある豊原寺を焼き払うと、敦賀から府中(武生)竜門寺に布陣していた信長は、一向一揆を平定し終えた豊原寺に同8月28日陣営を移します。
翌日南都(奈良)興福寺の大乗院尋憲が陣中見舞いと称し豊原寺を訪れた時の話があります。
織田信長にお供していた幸若大夫は舞を申し付けられ、大乗院尋憲の同席の場にて幸若舞「烏帽子折」が舞われました、舞い終えた幸若大夫には菓子一箱が、信長より以って家臣の松井有閑(堺代官)から礼を述べ与えられたとあります(大乗院尋憲の越前国相越記)。
9月2日柴田勝家に越前8郡、前田利家ら府中3人衆に2郡、金森長近と原政茂に越前大野郡、武藤舜秀に敦賀郡を与えている。
わずか10日余りの間に越前と加賀の両国を完全に支配した織田信長は、豊原寺の陣営から北ノ庄に来て築城のための縄張基礎工事を柴田勝家に命じます(この城が、信長の妹お市の方が柴田勝家と再婚し住んだ越前北ノ庄城である)、同9月26日信長は岐阜城に帰ります(信長公記)。
越前国の大部分を任され北ノ庄築城に当った柴田勝家は、同年11月「織田劔(つるぎ)神社は殿様(織田家)の御氏神」とのふれ(諸役免許状)を出しています(劔神社文書)。
幸若大夫の住居幸若領のある越前町には、織田信長の先祖が神官の織田劔神社があり、さらに北陸の霊山白山(2702m)を開いた泰澄(たいちょう)大師が、修行し没した越智山大谷寺がある、この不思議な山越す国の雪降る草深き一寒村が越前町なのです。
3 幸若舞は白山信仰から生まれた
東京国立博物館に土佐将監光信の描いた肖像画の傑作と代表される桃井直詮(初代幸若大夫)の肖像画(国の重要文化財)が保管されている。(写真3)
幸若舞の創始者桃井直詮(1393 ~1470)が、御花園天皇(1428~1464)に召され参内し松のお庭で音曲された時、聴聞の列に連なった大和絵師土佐光信(1434~1525)が後の世の記念にと書き写したものである。
この肖像画には、越前朝倉一乗谷の曹洞宗寺院「心月寺」の第二世住職である海闉梵学(かいいんぼんがく)の賛令文が書かれている。(写真4)
「かつて貴人の御殿にて名誉を発し、尊卑ともに袖を連ね、あるいは牛車を馳せて語り舞う源平合戦の精妙さを見に集まったが、これは白山権現の助けがあって初めて生まれた技とは誰が知ろうか 海闉老納書之 梵学海闉㊞」と書かれています。
この賛令文を古文献から解説してみるに《幸若太夫桃井直詮の肖像画写真》
① 「かつて貴人の御殿にて名誉を発し、尊卑ともに袖を連ね、あるいは牛車を馳せて」とは、
西園寺家歴代の日記「管見記」の1442年(嘉吉二)5月8日の記事に「当時諸人弄翫せしむる曲舞あり、家僕等勧進によって今日南庭においてこれを舞う、音曲舞姿尤も感激あり」と公卿(公家の中でも太政官の最高幹部として国政を担う職位)西園寺公名を感激させた曲舞は、その音曲・舞姿が素晴らしかったことでこれが評判になり、次に推参し披露(5月22日)された時には「見聞の衆前に満つ」見聞衆が満員の有様であった、その後(5月24日)幸若太夫が礼参りに来てその名が知れ渡った「幸若太夫先日の礼と称して来たる」とあります。
また、室町時代の中原康富の日記「康富記」の記事には、1450年(宝徳二年)2月18日「越前田中(越前町)幸若太夫参室町殿(足利義政邸)曲舞々之云々」、1451年(宝徳三年)3月7日千本炎魔堂越前幸若太夫舞曲舞とあり、貴人の邸宅等で舞われた幸若舞は、当時、都で評判になっていた、その事を言っています。
② 「語り舞う源平合戦の精妙さを見に集まった」とは、
満員の見聞衆の前で舞われた幸若舞「八島」の内容は、源義経が都を追われ山伏姿で逃亡中、奥州のある一軒家に宿を求めた時、出てきた老婆が源平合戦の屋島の戦いで源義経の身代わりとなり討ち死にした佐藤継信の母である事が分り、武蔵坊弁慶が佐藤継信の討死の様子を母親に知ってもらうため、屋島の合戦状況を始めから終わりまで事細かに物語り、さらに弟佐藤忠信が義経の鎧を着て大将の身代わりと成り、吉野山から義経を無事逃がした後、都で追手に捕まり亡くなるまでの筋書きを語るという内容の舞曲であります。
この幸若大夫の舞に多くの群衆が集まったことを示しています。(奥州佐藤兄弟の碑~写真)
③ 「これは、白山権現(現平泉寺白山神社)の助けがあって初めて生まれた技とは誰が知ろうか」とは、
幸若舞の始まりは、桃井直詮(幸若丸)が、当初、帝(後小松上皇)から給わった草紙三十六冊に「節・詰・言葉」を付け、内容に従って「サシ・色・クドキ」十六節の章句を付け、これを「三十六番の曲折集」と名付けて舞ったのが幸若舞です。
これを完成するにあたって桃井直詮は、まず「屋島軍」から節付を始めましたが、その中の「けいけいほろろの鳥の声」にどうしても節付ができないでいました、そこで地元日吉神社に参籠して神に祈りました。
すると七日目の晩に、内陣より神の御声が聞こえ、「白山権現(越前平泉寺白山神社)へ参社せよ、三社の中の社は雉子(きじ)神である、この神から相伝あるであろう」、そこで白山(平泉寺)の雉子神社に参り社前で「けいけいほろろ」の句を唱えました、すると童子が現れ「「けいけいほろろ」の句はこのようにせよ」と言って空中に立ってお示しになった。 (「幸若家系図の事」)このようにして幸若舞が完成したことを誰が知ろうか。
以上が桃井直詮像中の賛令文の内容になります。
4 白山神社と泰澄大師
平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町に鎮座する神社で、司馬遼太郎の『街道をゆく』に描かれたように、境内一面を覆う苔の見事さで知られている。
36歳の修験僧泰澄(682~767)が北陸の霊山白山を目指しこの地へ来たとき、木立の中に泉が湧き出ているのを発見し、神託によって神社を建てたのが始まりと伝えられている。
養老元年(717年)、泰澄によって開かれた平泉寺は、朝倉氏の保護を受けていた室町時代後半の最盛期には、48社、36堂、6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成していました。
中世以降は、豊原寺と双璧をなし、戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前の一大勢力となっていたが、朝倉氏滅亡後の1574年(天正2年)一向一揆の勃発から逃れてきた朝倉景鏡を平泉寺がかくまったことから4月の一向一揆の焼討ちに合い全山を焼失してしまいます。
その後、平泉寺は豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興するが、明治時代の神仏分離令により寺号を捨て神社として現在に至っています。
白山神社の本社は、白山山頂に鎮座し北陸鎮護の名だたる神社であり、全国に2700余りある。
もともと白山は神の聖域として仰ぎ見る存在でしたが、6世紀に大陸から仏教が伝わると、山の霊気に触れ、超人的な力を身に付けようとする修行の場として開拓されていきます。
泰澄大師は、「泰澄和尚伝記」によると14歳のとき十一面観音の霊夢をみて、越前町の越知山で修行を積み、しだいにその呪験力が世に知られ、大宝二年(702年)に鎮護国家法師に任ぜられ、霊亀二年(716年)はじめて貴女(白山神)の夢告を受け山頂を目指しますが途中、道に迷い白山権現の使者三足の白雉子が衣の襟をくわえ山頂の方角を導き、翌養老元年泰澄は白山に登り千日の修業を行っている。
養老七年元正天皇の病気祈祷による平癒したことで神融禅師の号を賜わり、天平九年(737年)流行の疱瘡を十一面法によって終息させ大和尚位を許され泰澄を号し、神護景雲元年(767年)に、幸若大夫の里である越前町の越知山大谷寺の釈迦堂仙窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化され没しました。
泰澄の白山開山後、山岳信仰の高まりから修験の霊場として登拝する修行僧が増え、修行登山路「禅定道」が発展していきます。
『白山記』(石川県白山比咩神社所蔵)によれば、天長9年(832)には、白山登拝の拠点として「馬場」が開かれたと記されている、これは白山へ登る際、馬でそこまで行き、馬をつなぎとめておいた場所という説が残っています。
越前馬場(幸若舞の福井県側)には平泉寺白山神社、美濃馬場(織田信長の岐阜県側)には長滝白山神社があります。
5 幸若舞と郡上踊りの足さばきの共通点
今では幻の芸能となってしまった越前幸若舞であるが、その流れを汲む「大江の幸若舞」が、九州福岡県で地元神社に伝わり現在も奉納されている。(写真)
伝承されている大江の幸若舞から、幻の越前幸若舞の姿を想像すると、基本的には歴史物語等を語り謡いながら独特の足さばきで力強く足を踏み鳴らすという舞であろう。
初代幸若太夫である桃井直詮が、「越前の白山権現で修行を重ねたびたび不思議の示現を得て完成させた」という幸若舞は、「この力強く足を踏み鳴らし悪星を踏み破って吉を呼び込む」舞である。
白山の最高峰御前岳に鎮座するのは、菊理媛(ククリヒメ)またの名を白山姫であり眞身十一面観世音菩薩であるといわれている。
我が国の秘書に「秀真政伝紀(ホツマツタエ)」という書がある、これは全文がホホツマ文字と言う神代文字ともいうべき符牒によって綴られており、この中に菊理媛(ククリヒメ)の事が書かれている、ククリヒメは天照大神の伯母であり、福井県(越前)、石川県(加賀)、富山県(越中)一帯の呼称であるコエネノ国にて天照大神の産着を作り、天照大神の産湯をとった女神だと言う。
日本書紀では本文に出てこないが一書という参考文書の中に一カ所登場する神で、イザナミノミコトが亡くなられた時、その夫イザナキノミコトが黄泉の国へ行くのを諌めて思いとどまらせたりしている。
イザナキノミコトとイザナミノミコトの別れの場所となった黄泉平坂(よもつひらさか)の入口番人である泉守道者(よもつちもりひと)が、イザナキに対し妻イザナミの「この国に留まる」という意志を伝えた際の事がこう記されている。
「ククリヒメが何かを言うとイザナキはそれを聞いてほめ、黄泉の国から去っていくのである」
ククリヒメの発言内容は不明だが、黄泉の国と現世のはざまで激しく言い争うイザナキノミコトと妻イザナミノミコトの別れに円満ムードを漂わせる不思議な一文である。
黄泉の国を去ったイザナキノミコトはこの後、禊ぎを行い天照大御神や素佐之男尊ら重要な神々を次々と生んでいく、そこからククリヒメの言葉は心身を再生させる禊ぎの勧めだったのではと想像ができる。
織田信長の岐阜県側には、白山登り口美濃馬場のククリヒメを祭る郡上白鳥町長滝の白山神社がある。(写真)
この郡上市では、七月中旬から八月末まで毎夜盛大に盆踊りが繰り広げられている。
郡上の盆踊りの特徴は多様な下駄足さばき、跳ねるように、蹴るように、あるいは文字を書くよう足を運ぶもので、こうした踊りの原型は長滝白山神社など白山登拝口の白鳥地区の古社に伝わる「拝殿踊り」で、神や霊になりすます面をつけ山上に宿る先祖の霊を迎えることにあると言い伝えられている。
拝殿の板床を下駄で踏み鳴らすことは、幸若太夫の足踏み鳴らしと同じように悪霊を追い出すという共通点がある。
そしてこの拝殿は、この世と死後の世界がつながる境の場となり、神々が住まう領域と一般人が生活する領域の境界は、まさにククリヒメが祭られる場にふさわしい領域である。(拝殿踊りは産経新聞記事から一部参照)
6 おわりに
先日、奈良県桜井市にある安倍文殊院というお寺までハイキンググループで行ってきました。この地一帯は、古代豪族安倍氏の治めた地であり、後の遣唐使阿倍仲麻呂や平安時代の陰陽師阿倍野清明の生誕地と言われ、寺は華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く大化元年(645)に創建された日本最古に属する寺院です。
安倍文殊院の境内には、本堂、金閣浮御堂、白山堂等の御堂のほか東西二つの石室古墳が存在します。
本堂内の御本尊は文殊菩薩で日本最大(約7m)の快慶作国宝である。
本堂脇の西古墳は、飛鳥時代に造立され国の指定史跡の中で特に重要である「特別史跡」に指定され、古墳の特別史跡指定は全国でも数件で、明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳があります。ここは大化元年に初の左大臣となり当山を創建した安倍倉梯麻呂の墓と伝えられ、古墳内部の築造技術(石組み石表面加工)の美しさは日本一との定評の内部に立ち入り見学ができした。
金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸をはじめ陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂です。陰陽道は占や厄を払い祝言を行うもので後の幸若舞の祝言舞いも陰陽道の流れをくむ伎芸であると言われます。
堂内の六面の壁面には秘仏の十二天御尊軸(室町時代)がお祀りされています。十二天とは四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神です。
白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿で、国の重要文化財にも指定されています。御祭神は全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神である菊理媛神(くくりひめのかみ)で、当山の鎮守です。白山信仰と陰陽道は古くより深く結びついた為、安倍晴明ゆかりの当山に白山神社の末社が勧請されました。菊理媛神は『日本書紀』によると伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の縁を取り持たれた神様で、菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、古来より縁結びの神様としても信仰されています。「縁」は巡り合わせでもあることから、人と人を結ぶ良縁成就として参拝されています。
白山信仰によって完成された幸若舞の古い時代によみがえる事の出来たハイキングでした。
おわり