【幸若舞曲一覧(リンク先)】
去る間、源頼朝上洛(1195年)ましまして、(南都奈良大仏殿修復)大仏供養を遂げさせ給い、御身は左近の右大将(右近衛府の長官)に昇進なされ給い、兵衛の司十人、左衛門府の司十人、計二十人の官職を下賜され、その頃、忠の人々に充て下し度にけり。
中でも梶原景時は、給わった左衛門司の官職を、嫡子の梶原源太景季に譲られ、急いで国に下り、この事を披露すべく大名小名を招待して接待した。
祝賀の宴初日の接待として、饗応での引出物には、蓬莱山をかたどった物で、その中に美味なる酒を入れ、不死の薬と名付け、白金の竿に黄金の鈎瓶を結び下げ、はね鈎瓶子でこれを汲む、酒に数多の威徳あり疎き人さえ近づき、親しき仲は猶親しむ。
あちこちの見当もつかない旅人に馴るるこれも酒の威徳なり、蓬莱の山の上には、漢武帝夫人である李夫人と言う名の橘、けんぽ梨、中国の高士巣父の名の付いた椎(しい)、かかくが柚、東南製の栗と榧(かや)、皆色々に連ねてあり、その味わいはどれも甘くておいしいものばかりであった、誠に不死の薬ぞと盃に酒を注いで差上げ舞い遊ぶ。
二日の日の雑掌(代官)には、肴の数を集め南海に産する沈香の切れ端、じゃ香鹿の雄のへそ下にある香麝(じゃこう)、鐙、腹巻、太刀、名馬の数を揃え、思い思いに引渡し情けを掛けてけり。
三日の日の雑掌(代官)には、江ノ島詣に事寄せて御浜出(浜遊び)とぞ聞こえける、かたじけなくも源頼朝の北の方(北条政子)出でさせ給うと聞こえければ、人々の北の方(奥方)も皆お供を申されたり。
船の上に舞台を高く飾り立て、紫檀やかりんの銘木をかけ渡し、建物の周囲を廻らす高い欄干の柱の先端には擬宝珠磨き立て、舞台の上に綾を敷き、柱の間の水引に錦を下げぬれば、浦吹く風にひらひらと揺れ動き、極楽浄土は海の面に浮き出でぬるかと疑うばかりであった。
祝賀の舞あるべしとて管弦の役をぞさされける、秩父の六郎(畠山重忠の嫡男畠山重保)殿は笛の役とぞ聞こえける、長沼五郎宗政は銅二枚を打ち合せて鳴らす拍子の役なり、梶原源太景季は太鼓の役とぞ聞こえける。
御簾の内の人々(奥方たち)の楽器には、琵琶三面、琴二張、七弦の琴の役を北の方(北条政子)が弾き給う、一面の琵琶を北条殿の御内様(北条時政の奥方牧の方)、上総介の御内様(北条政子の妹で、足利義兼の奥方)の六弦の和琴の調べ給いけり、管弦何れも名手であり上手なリ。
舞台の上の舞稚子に秩父殿(畠山重忠)の二男氏若殿と申して十三になり給う、慈光寺にて教育を受けた名童なり。
左舞の頭役を振り当てられたのは高坂殿の鶴若殿、総じて稚子は十八人、九人づつ分れて左方唐楽、右方高麗楽と二手に分かれて交互に舞楽を演ずる、いずれも舞は上手なリ。
竜王、羅陵王に勇壮な走り舞踊り、舞楽の曲名「還成楽」の押し足、搔き足づかい、舞楽の曲名「抜頭の舞」の桴(ばち)返し、舞楽の曲名「輪台」の序破のうちの破の舞には差す腕、舞楽の曲名「青海波」には開く手の所作、舞楽の曲名「古鳥蘇」に羽返しの所作。
何れも曲を漏らさず、夜日三日ぞ舞うたりける、打つも吹くも奏ずるも菩薩の衆生救済の利他行これなり。
天人や竜神は救済に預かろうと集会して、船の上を読経しながら廻り歩く事であろう。
仏教で言うところの見る事、聞く事、悟る事、知る事の輩、浮かれてここに立ち給う、御前の人々、皆それぞれ所領を得てその領国へと帰ることができると聞こえけれ。