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(これは幸若大夫に秀吉が命令し作らせた新作である)
1 信長、安土城を構える
さても右大将信長公、上洛ましましてより諸臣(天下)に棟梁(として)し帝道に塩梅たり(政務を適切に処理)し事年久し、其のここ江州安土山に城郭を構え東西の甍、南北の台(うてな) 金殿紫閣は天上の雲に連なり玉楼粉墻(飾りのついた垣根)は湖水の波に輝く。
其の地の美麗はたとえて言うに足らず、あるいは数百連の鷹を集め山野に狩場の遊びをなし、あるいは若干の馬を揃え都に於いて馬場の興を儘(まま~思い通り)し給う。
中に就(つけ)て甲斐信濃両国の守護武田の四郎勝頼年来のしうそ者(朝敵)、是に依て(信長の)御嫡男の秋田の城介信忠の卿を大将とし徳川三河守家康を先勢めと定め、駿河甲斐信濃の凶徒を斬り従え武田四郎勝頼、同嫡子の太郎信頼が首を討って三カ国平均(平定)に属し御馬をこそは入れられけれ。
さて羽柴筑前の守秀吉は、さる天正六年播州に下り別所を退治して以来西国征伐の軍使を承り備前美作の守護宇喜田を手に属(配下と)し播磨但馬因幡都合五か国の人数を引率し天正十年三月十五日備中の国冠が城(高松城の属城)に押寄せる。城の堅め敵の備え左右寄すべき要害に非ず。しかるにこの城に於いては例え人数を損じると言うども二つなく責め破り西国の響きと成すべきよし相定め(威勢を轟かせ)させ給いけり。
是に依りて杉原七郎左衛門、仙石権兵衛尉、荒木平太夫を先として、彼の表て肝要にふまえたる水路に押し寄せすなわち水をぞ止めたりける、秀吉大いに感じ給い両三人に御馬をこそは下されけれ、城内より取り取り懇望を尽(いたす)といえども、万牛五丁(敵の弱みに乗じ)の攻めをなし即時に乗り込みことごとく首を刎ねられる。
時日を移さずまた河屋が城を取巻く、彼の城主敵軍の勢いを見て毛利家の援軍を待たずかい(垣根)楯を下ろし兜を脱ぎ降参をこそ致しけれ。
2 秀吉、備中高松城の水攻め
かかるその後また(現岡山市の)高松の城に討ち寄せて、あたりの躰を見給うに三方は沢沼にてかって人馬の通いなし、一方は大堀を構えつつ毛利家より久しく相こしらゆる所にて要害とくに堅固なリ、たとえ大軍取巻いて日を送るとも容易く力攻めにはなり難し。
さる間、秀吉暫く工夫し給い水責めにすべき由相定めさせ給いけり、城の回り二三里の間に山と等しく堤をきづき堤の裏には大木を以てしがらみをかけさせ大河小河の水上を尋ねさせ給いて山を掘り岩石を切抜き池の辺りのたまり水、田井の流れを濫觴(らんしょう~揚子江のような大河も源はさかずきを浮かべるほどの細流にすぎない)とし、ことごとく関かけたちまち彼の地を一つの湖となせり。
堤の上には付け城数カ所こしらえ大船を作り筏をから組み、敵城の乙(二)の丸に攻め込み合壁屋宅引き払い甲(本)の丸一つとなる。城内の者共は水のみなぎるに従って大木の梢に床をかき板を絡む、波に漂う舎宅はただ船の人たるに異ならず籠の内の鳥とかや網代の魚の如くにて逃れん方はなかりけり。
しかるに秀吉の御陣所、五町十町の間引き隔て後詰のその為に一万余騎を備えらる。
毛利右馬頭輝元は、小早川左右衛門佐隆景、吉川駿河守元春を近付け、彼の高松の城救いをなさでは叶うべからず、備中表に於いて是非屍をさらすべしとて分国十か国の人数五万余騎を引率し備中の国高山の向かい釈迦が峰不動が嵩を陣取る、敵相十町にすぎず、故に双方即時に相懸るに及ばず数日をこそは送られけれ。
ここにおいて秀吉、彼の後詰の人数に斬りかかり雌雄を決すべし、しからは当日西国の限り一篇に属すべきの旨、安土に至りて使者を立て上意を得給うの所に、信長聞し召し卒爾(無分別な)の合戦しかるべからざるの由御下知仰せあり。
やがて右大将(信長)も御嫡男信忠の卿を相ぐし御上洛ましまして惟任日向守(明智)光秀を加勢として差し下され秀吉と相談をとぐべし、合戦の手立てによりて御動座(総大将の出陣)あるべきとの御諚なり。
3 明智光秀の謀反
惟任(これとう~明智)、常よりも気色ようしてかかる御請けを申す様こそゆゆしけれ「この度西国の強敵によりて秀吉に加勢をなし粉骨を尽くすべきの御諚こそ何よりもって面目なれ、いよいよ忠勤をぬきんで奉り御恩賞にあづかるべし」と申しつつ、やがて御前をまかり立ち、さて備中には下らずし密かに謀反をたくみけり、もっぱら当座の存念に非ず、年来の逆意(反逆)なりとぞ聞こえける。
如何思いけん五月二十八日愛宕山へ上り一座の連歌を催す、すなわち光秀発句にいわく、時は今天が下知る五月かな、今これを思い合わすれば誠に謀反の先兆なり何人が兼てこれを悟らんや。
しかるに天正十年六月朔日(ついたち)夜半より一万余の人数を引き丹波の国亀山を打ち立ち四条西の洞院本能寺、右大将(信長)の御所へぞ打ち寄せる、あらいたわしや信長は此の事をば夢にも知ろし召されず、宵には御嫡男信忠の卿を近付け給い、いつよりも親しく若輩の時よりの昔語りをし給いつ只今互いの栄華の程を悦び明日の最後をば知ろし召されず行く末長久の楽しみを思い給うこそはかなかりける次第なれ。
また村井入道、近習の小姓その外を招集させ給いつつ御憐愍(れんみん~あわれみの気持ち)の御言葉を掛け給い、夜も更けぬれば信忠は御暇乞ましまして妙覚寺に御帰りある。
その後信長は閨(ねや)の内に御入りあり、常にご寵愛の人々を召し寄せて鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)連理の枕(仲睦まじく)夜半の私語、是や誠にしゅんふんがくわいあんごくの楽しみ、盧生が邯鄲(かんたん)の枕も実に夢の世の夢なり(人生の栄枯盛衰がはかない)とは後にぞ思い知られたる。
4 織田信長の最後
惟任(明智)は駒途中に控え、先駆けとして(女婿の)明智彌平次、同勝兵衛、同次右衛門、孫十郎、斎藤内蔵助、その外の諸卒を四方に分かち御所の巡りを取巻きけり。
夜も明けぐれを見計らい門木戸を打破り合壁を引き壊し、一度にざっと乱れ入る、信長の御運の尽きる所はこのころ天下静謐(せいひつ~太平)の条、御用心もましまさず。
国々の諸侍あるいは東国警固の為に残し置き、あるいは西国の御出勢とかや、また織田の(三男)三七信孝は四国追討の為に、惟住(丹羽長秀)五郎左衛門、蜂屋伯耆守を相加へ、和泉の堺の津に船揃えしてぞおわしける。
その外の諸侍、西国御動座御伴申すべき用意の為に無人の御在京なり、たまたま御供の人々も洛中所々に打ち散り、ようよう小姓衆五十余人には過ぎざりけり。
信長夜討ちの由を聞し召し森の乱法師を召して事の子細を尋ね給う、乱法師承り惟任(明智)が謀反の由を申し上げる。
信長此の由聞し召し、夫(それ)南山春の花は逆風これを散らし東領の秋の月は狂雲之を蔵す、千歳の松も斧斤の厄を免れず、また怨(あだ)を以て恩に封ずる様のなきにしもあらず、何ぞ今更驚くべけんや。
まず敵の案内を見んとて広縁さして出給い向かう、兵五六人手の下に射伏せ後には十文字(槍)を押っ取って敵数輩掛け倒し門外まで押散らし、数カ所の御傷をこうぶり、御座差して引き給う。
森の乱法師を始め湯浅甚介(馬廻)、落合小八郎(小々姓)、大塚又一郎(馬廻)、薄田與五郎(小々姓)、高橋虎松(小姓)、等は常に御側を離れざる面々なり。
是に依りて一番に取り合わせ同じ如くに名乗って出で一足りも去らず、枕を並べ討死す、続いて進む人々は中尾源太郎(側近)、狩野又九郎(小々姓)、菅屋角蔵(小姓)、矢代勝介(馬術家)、針阿彌(信長同朋衆)この他の兵共三十人ばかり思い思いの働きにて一旦防ぎ戦うといえども大勢に攻め立てられてことごとく討たりけり、その時信長、御殿には自ら火を懸けさせ給いつつ御腹召されたりけるは様少なき次第なり。
5 織田信忠の最後
村井入道春長軒は御門外に家あり、御所の振動するを聞き始めは喧嘩かと心得、物具取りあえず走り出で相鎮めんと思い是を見れば、惟任(明智)が人数一万ばかりにて取巻きけり。あら思いよらずの事共や、さて有るべきにてあらざれば信忠の御陣所妙覚寺へ馳せ参じこの旨かくと申し上げる。
信忠聞し召し是非本能寺へ駆け入り諸共に腹を切るべきよし僉議あり、しかるに敵軍重々堅固の囲み、誠に咫尺(しせき)千里なり、空を翔ける翼ならでは内へ入るべきようもなし、信忠の御諚には「当寺は腹を切るべき所に有らず、いずくかに心静かに生害すべき所のある」とお尋ねありければ。
春長軒承り、かたじけなくも親王の御方の御座まします二条の御所へ移り給うべしとて御所へ案内を申し、春宮(誠仁親王)をばてぐるまにして(二条御所から)内裏へ移し奉り、信忠わずか二三百計にて二条の御所へ入り給う。
信長の御馬廻り惟任(明智)に隔てらるる残党、二条の御所へ馳せ加わる者五六百、御前にこれある人々は御舎弟の御坊(有楽斎)、織田の又十郎(信長弟)、村井入道父子三人、団の平八、菅谷九右衛門父子、福住平左衛門(信長馬廻)、猪子兵助(信長近習)、下石彦右衛門(信長馬廻)、野々村三十郎(信長馬廻)、赤坐七郎右衛門、斎藤新五、津田の九郎次郎、佐々川兵庫、毛利新介(信長馬廻)、塙の伝三郎(信忠馬廻)、桑原吉蔵(信忠馬廻)、水野九蔵(信長馬廻)、伊丹新三、小山田の彌太郎、春日源八、桜木伝七郎、山口をべん。
このほか歴々の諸侍一筋に思い切って惟任(明智)が寄せ来るをぞ待ちかけたる。
惟任(明智)は、右大将(信長)に御腹を召させ御殿の火焔となるを見て安堵の思いをなし、信忠二条の御所に立て籠もり給う由を聞き、武士に息をも継がせず二条の御所へ押し寄せたり。
御所にはもちろん覚悟の前、大手の門を開かせ弓鉄砲を前に立て、内に控える兵共思い思いの得道具持ち、おう前後を鎮めて居たりけり、惟任(明智)が先駆けしたる兵共面もふらず懸りけり、前に立てたる弓鉄砲差し取り引き詰め散々に討ち退け、挑処(たじろく)について出で追っ払い押し込まれ数刻防ぎ戦いたり。
寄せ手は六種の武具を差し固め荒手を入れ替え責めかかる、味方は素肌に帷子一重、心は剛に勇む共、長槍、長刀、大打物、刃を揃えて攻入れば、此処にては五十人、彼にては百人残り少なく打ちなされ御殿間近く詰め寄せたり。
信忠御兄弟は御腹巻を召され、御側の面々も百人ばかり具足を着、信忠一番に斬って出でさせ給い、(敵の)明智孫十郎、杉丹の三右衛門、加成清次この三人に渡り合い火花を散らし切り結び孫十郎を斬り伏せ、清次、三右衛門首丁々と打ち落とす。
御近習の面々も力の限り斬り合い内に攻め入る敵の人数ことごとく追い払い最後の合戦残る所もなかりける。
信忠は御覧じて何時までかくてあるべきと御殿の四方に火を懸け真ん中に取り籠り腹十文字に切り給う、その外の精兵も思い思いに腹切って一度に焔と成りにけり。
信長四十九、おう信忠は二十六痛むべし惜しむべしと上下裃を絞りけり。
6 光秀、坂本の城へ帰陣
ここに濃州(美濃)の住人、松田の平介一忠(信長の元馬廻)という者あり、その夜は辺土にあって御所への夜討の由を聞き走り来て是を問えば惟任(明智)が逆心に依りて右大将(信長)御父子御腹を召さるる由を申す、一忠この由聞くよりも、あらいたわしの御事やそれがし不肖の者と言いながら数年召し使われし報恩の為に追腹を切らんとて妙顕寺に走り入り、本堂の内にして硯筆を取出し一首の辞世かくばかり「その際に消え残る身の浮雲も遂には同じ道の山風」かように詠じ
又参学に心を染し故により一句の偈(仏徳を賛美する韻文)を作っていわく「手に活入三尺(殺傷剣も時には人を活かす剣となる)の釼を握ってすなわち今截断(切断)す盡(ことごとく)乾坤(天地)」とかように書き置き腹切って死んだりし一忠が心中を褒めぬ人こそなかりけれ。
惟任(明智)は、洛中を鎮め西の岡勝龍寺(現長岡京市)の城に明智勝兵衛を残し置き、その日の午の刻(大津の)坂本の城に至る。
安土の御所にはこの由を聞き、前夫人、後夫人、東西の局局の思い人、雑人に至るまで徒歩裸足にて皆散り散りになりにけり。
信長御在世の御時は只仮初の往還にもれん輿、飾り車、千乗万騎の馬にて美々敷く(華麗に)装いをひきかえて愁苦辛勤のありさま、譬えれば唐の玄宗の楊貴妃、安録山が謀に蜀道の難をしのぐ悲しみ、項羽の虞美人、漢の高祖の戦いに鳥江の波にただよいしも是にはいかで勝るべき。
さて惟任(明智)は、安土山に移り長浜佐和山へ人数をつかわし、江洲一片にあいしたがえ、六月十日坂本の城に帰陣す。
7 秀吉、光秀の謀反を知る
しかれば備中表秀吉の御陣には六月三日夜半ばかりに密かに注進状有り、開きてこれを見給うに信長御生害御事なり、即ち使いを近付け殊に子細を尋ね給うに有のままに申し上げる。
秀吉この由聞き給い左右眼に涙を浮かべ、あらあからさまなる事どもや叢(そう)乱茂せんとすれば(悪の為に善の発展が妨げらる譬え)秋風之を破り王者明らかならんとすれば讒臣(ざんげんをする臣下)之を覆う。人知るを以て良将と名付けたり是裡無道なる光秀を右大将(信長)の御存知なき心のほどこそ愚かなれ。
秀吉都にあるならば懸る謀反はよもさせじ、たとえ御父子を討ち奉るとも、その時日を移さず逆徒の首を刎ねぬべきに、その甲斐もなき無念さよ、よしよし時刻は移るども惟任(明智)が首切って信長公の御弔いの香供にそなうべきと思い切って少しも愁傷を色にも出し給わず。
あまねく陣を張り寄せ給う、日畑の要害その外、現形する城々をば引き付け、高松一城をば是非攻め果たすべしと思い定め給う、しかるに信長の御事隠すとすると諸陣へ漏れ聞こえて騒ぐ輩もあるならば悪しかりなんと思し召し、秀吉心中の動ぜざる所を諸卒に知らせん為狂歌を詠んでぞ触れられける。
両川(毛利の叔父小早川と吉川)の一つに落ちて流れば、毛利高松も藻屑にぞなる。
(毛利輝元の叔父で補佐役の小早川隆景と吉川元治の二つの川が一つに落ちて流れ高松城の陥落が間近い)
この返歌をせざらん者は臆病者と懸けられて皆返歌をぞせられける、誠に狂言綺ぎよ、なれど諸卒を勇めん謀もっともとこそ聞こえけれ。
その後高松の城より降参して当構の(おもだった)大将、ならびに芸州の加勢腹を切り雑兵をば助けられるべき由申すにより船を遣わし検使を立て安国寺の西堂(恵瓊)を招き寄せ事の子細を延べ給う。
毛利家分国の内、備中、備後、伯耆、出雲、石見、この五か国をこの方へ渡し幕下に属するに置いては和睦せしめ向後互いに入魂すべき条々なり。
安国寺(恵瓊)やがて御請けを申し五か国並びに人質、誓紙を進ぜらるる、これら依りて先ず毛利の陣を払わせ、秀吉は心静かにもてなし。
8 秀吉の中国大返し
六月六日未の刻、備中表を引き退き備前の国沼の城にぞ着かれける。
七日には大雨天をくらまし疾風地を動ず、数カ所の大河水みなぎって真に巨海の如し。
しかれども其の日二十里ばかりの難艱(なんがん~辛い困難)をしのぎ、播州姫路に至りて差陣(着)たり、諸卒揃わずといえども九日に姫路を立ち明石の浦に一夜の陣をぞ掛けられける。
その頃、姫路の凶徒(本願寺門徒勢力)ら(が)雑賀船を引き付け海賊してぞ居たりける、秀吉この由聞き給い、我上洛の後々の通路の妨げせられじとて兵船を揃え浅野彌兵衛(豊臣五奉行の一人)、仙石権兵衛尉、生駒甚介(讃岐高松城主)、明石与四郎(黒田官兵衛の従弟)を遣わされ、(光秀方の菅平右衛門が立て籠もる)淡路島巣本の城を取巻き凶徒を従え給う。
秀吉は、摂津富田に陣をすえ先手の人数、天神の馬場(現高槻市)まで取つづけ惟任(明智)が行(てだて)をこそはまぼ(目守)られけれ。
惟任(明智)は、秀吉着陣の事をば夢にも知らず、勝龍寺の西、山崎の東口に陣を据え、秀吉は西国に於いて釣留るの条、急度、摂州に働きをなし播州に乱入すべし、しからば秀吉敗軍ほど(裡)あるべからず、国境に於いてことごとく討ち果たすべき評議半ばに、秀吉昨日富田に着陣の由注進あり。
惟任(明智)案に相違してにわかに行(戦法)を改め人数を立て直し、一戦に及ぶべき覚悟をこそは定めけれ、秀吉の人数、備前備中に相後れ五六千には過ぎざりけり、しかるとは申せども屈強の兵なり。
秀吉この弔い合戦の無念の太刀ここなるべし、味方の人数は三筋に分け川手山手を箕手(左右に張る陣形)に廻し、秀吉は中筋勇み懸れる勢い、例えばはしたか(鷲)の野鳥に合うが如くなり。
惟任(明智)これを見て人数二万ばかり段々に立て並べ数刻防ぎ戦うたり、中筋の旗手は風に従う雲よりもなを速し、左右の人数一度にばっと斬りかかる。
鬼神天魔波旬も何かは似て、た(堪)まるべき。負い崩されて逃げにけり、惟任(明智)が近習一万ばかり一手に固まり勝龍寺に立て籠もる、散り散りに逃げる者をば或いは久我縄手(京都南部)あるいは西の岡、桂川、淀、鳥羽まで追い詰め首を取り、丹波の道筋へも入り斬り落武者をば一人も逃さず是を討ち、即ち勝龍寺に人数を寄せ惟任(明智)が落ち行くべき道筋を取り切(遮断)りて、ことごとく取りひしく(拉)べきてだてとこそは見えにけれ。
9 明智光秀の最後
惟任(明智)は先非を悔(く)うと言えども還らず、聖人の諺にいわく、一朝のいかりに其の身を忘れその親に及ぼす、惑えるにあらずやと思い続けて思川絶えず流るる水の泡(はる)のうたかた、人の世の中の因果は車輪の如くにて、昨日滅ぼす主君の為今日は我が身の上となる報いの程こそ儚なけれ。
さりながら一旦坂本の城に立て籠もり時刻を待つべき工夫をなし、夜半ばかりに近習五六人に此の由を知らせ城の内を忍び出る、寄せ手は昼の合戦に疲れ鎧の袖をかたしき干戈(楯と鉾)を枕とす。
その隙を窺いもとより此の所の案内をばしつつ大道をば通らずして田の畔伝い藪原の細道悪虎尾を踏みながら毒蛇の口を逃れつつ囲みをこそは出でにけり、城の内には惟任(明智)が落ちるを聞き我先と崩れ出で、或るいは外聴(鬨の声)に寄せ合わせ、或いは待ち伏せに行き当たり残り少なく討たれけり。
また明智彌平次は安土の城に居たりしが惟任(明智)敗軍の由を聞き彼山を焼き払い二千余の人数を引き惟任(明智)に馳せ加わらんとや思いけん、大津を差して討って上りしが掘久太郎(近江佐和山城主)に行き合いやがて追い立てられ小船に取り乗り坂本の城に立て籠もる。
勝龍寺に寄せての人数は、惟任(明智)の跡を慕い山科、醍醐、逢坂、また吉田、白川、山中、方々へ追い掛る、その夜は雨、車軸を流し物あいそれとは見えねども落武者とおぼふるをば皆闇討ちにぞしたりける。
秀吉は其の翌日三井寺に至り諸口より討ち取り来る首ことごとく実験し給う中に惟任(明智)が首あり、秀吉これを見給い、やあ如何に惟任(明智)汝が悪逆の積もり、それがしが忠勤の志、天命に現れたりと御喜びは限りなし。
明智彌平次は此の由を聞くよりも惟任(明智)が一類、我が身の眷属ことごとく刺し殺し腹切って死んだりし彌平次が心中誉めぬ人こそなかりけれ。
さて秀吉は大津より安土に至り当国にて反逆の輩ことごとく誅伐す、中にも安閉淡路守、同子息孫五郎、(本能寺の変の後)惟任(明智)が一味して北の郡(城)に居たりしを一柳一介を遣わされ安閉が一類を磔(はりつけ)にあげられたり。
それより尾洲、濃洲に相働き清州の城に御馬をたて給い、今後未落居(戦後処理)の面々をばことごとく改め忠勤の輩には領地を与え国家をしずむべき法度を定め都へ登り給いけり。
しかるに惟任(明智)が首をば死骸を尋ね首を継ぎ粟田口にはたものに上げ給う、京童がこれを見て落書きをこそは立にけれ。主の首切るより速く討たるるはこれ討伐(惟任罰)を当たるなりけり。
10 織田信長の葬儀
残る凶徒の首をば千七百余級、信長公の御腹を召されし本能寺の内に首塚に積み給い御孝養に供えらるる、この上は御葬礼を取り行わでは叶わざる儀と思し召し、十月初めより紫野大徳寺に於いて十七日の法事を催し、一万貫の施物をこそはなされけれ。
さて御葬礼の次第は沈香を以て仏像を作らせがんの中へ入れ給い金紗金襴の飾りをなし宝殊をたれ金銀をちりばめ七宝の荘厳は目を驚かすばかりなり、蓮台野には火屋(焼場)を作り方百二十間の四門に白綾の幕を張り秀吉御分国の大名小名ことごとく馳せ集まり其の外貴賤の輩は所関(余地)なく見えにけり。
秀吉心に思し召す、信長公の御伴は是までなりと思し召し御色(喪服)を召されて不動国行の御太刀を自ら持たせ給いつつ、御輿のその跡に涙を押さえて御供あり。
是を見る人々、もっともこうこそ有るべけれと上下万民押し並べて皆涙を流しけり、秀吉はかように信長公の報恩の御為に御忠義を尽くされしに、惟任(明智)は引き替え御孝恩を蒙り栄華に誇り楽しみを極めしに長久を願わずして何ぞや故なく信長公を討ち奉る事天罰を逃れ難し。
六月二日に信長を害し奉り同じき十三日に彼が首を刎ねらるる、誠に因果歴然とかや、秀吉備中表にて武勇を励ましちく策を廻らさずば如何でか速やか惟任(明智)を退治しこの本意を達せんや。
大国の様にも楚の儴王を都の関門に入れんとて、項羽高祖二人の臣下これを守護し奉り晋の代亡ぼし儴王をいつきかしづき崇め申したりしに、項羽無道の臣下にて儴王を討って都を知らんとぞしたりける。
高祖是に依りて七十余度の合戦に終に高祖打ち勝ち項羽を亡ぼし給いて漢下数百年の天下を保たせ給いけるとかや、然るにそれは七十余度の戦い、秀吉は月を越えずあだを覆し給う事誠に一世の冥加(神仏の加護)、末代の亀鏡(正しいよりどころ)なりと感ぜぬ人はなかりけり。
《参考》
豊臣秀吉が自分の手柄話として幸若大夫に作曲を命じ創作させた幸若舞「三木」「本能寺(全文版)」「金配」の物語がある。(この時、能の金春流に対しても「明智退治」「吉野詣」など5曲の作曲創作を命じている。)
秀吉の命を受けた名人小八郎吉音(幸若小八郎五代吉信)は、幸若一族の忠右衛門と同弥助の三人で相談し、これら三曲の節を付けた。 (幸若家文書)