【白山信仰と幸若舞(リンク先)】・【幸若舞完成と白山平泉寺(リンク先)】・
1 あ行
「敦盛(全文版)」・「和泉が城(全文版)」・「一満箱王(全文版)」・「伊吹(全文版)」・「入鹿(全文版)」・「硫黄が島(俊覚、全文版)」・「馬揃(うまぞろえ全文版)」・「烏帽子折(全文版)」・「笈捜(おいさがし全文版)」・「岡山(全文版)」
2 か行
「景清(全文版)」・「鎌田(かまだ全文版)」・「勧進帳(全文版)」・「清重(全文版)」・「木曽願書(全文版)」・「鞍馬出(全文版)」・「九穴貝(浜出が前篇)」・「元服曽我(全文版)」・「腰越(全文版)」・「小袖曽我(全文版)」
3 さ行
「四国落(全文版)」・「静(しずか、胎内探、全文版)」・「信田(しだ全文版)」・「十番切(全文版)」・「新曲(全文版)」
4 た行
「大織冠(全文版)」・「田歌 ( 前篇は「伏見常葉」)」・「高館(全文版)」・「張良(全文版)」・「剣讃嘆(つるぎさんだん全文版)」・「築島(つきしま全文版)」・「富樫(とがし安宅、勧進帳)」・「常葉問答(全文版)」
5 な行
「那須与一(全文版)」・「靡常盤(なびときわ全文版)」・「日本記(全文版)」
6 は行
「浜出(はまいで全文版) 、後篇で九穴貝」・笛の巻(全文版)・「含状(ふくみじょう全文版)」・「伏見常葉(田歌)(全文版)」・「蓬莱山(全文版)」・「堀川夜討(全文版)」・「本能寺(全文版)」
7 ま行
「満仲(まんじゅう全文版)」・「三木記(全文版)」・「未来記(全文版)」・「文学(もんがく全文版)」
8 や行~
「八島(全文版)」・「山中常盤」・「夢合せ(全文版)」・「百合若大臣(全文版)」・「夜討曽我(全文版)」・「和田酒盛(全文版)」
《解説》
幸若大夫が舞い謡った音曲の物語内容を見れば~
1 まず、イザナギ・イザナミの尊による日本国の始まりを語る「日本記」物語を始めとし、天照大神が天の岩屋に隠れた時に祝詞(のりと)を奏した天児屋根命(春日権現)が藤原氏の祖で、その氏子となる中臣(藤原)鎌足が当時大和朝廷の有力者であった蘇我入鹿を殺害した「入鹿」物語、藤原氏の繁栄を語る「大織冠」物語。
2 さらに話は、海外の中国三千年の歴史の中から劉邦に仕え漢帝国の建国に貢献した軍師張良の話として「張良」物語、張良が所持した六簸・三略の兵法を日本兵法の祖吉備真備は遣唐使として請来したと言われる。
3 平安時代に都で活動する武将清和源氏の嫡男で多田源氏の祖となる多田(源)満仲の話として「満仲(まんじゅう)」物語
4 同じ平安時代に、父が平氏の姓を受け関東で活動する豪族平将門の孫となる信田小太郎の話「信田(しだ.信太)」物語
5 平氏と源氏の話としては①「伊吹」.②「鎌田(かまだ)」.③「硫黄が島(俊覚)」.④「築島(つきしま)」.⑤「文学 ( もんがく.文覚)」.⑥「木曽願書」.⑦「敦盛」.⑧「夢合せ」.⑨「馬揃」.⑩「浜出(はまいで、歌謡「蓬莱山」.⑪「九穴貝」.⑫「景清」等の物語がある。
また、源氏の統領に伝わる伝統の宝刀の物語として、「剣讃嘆(つるぎさんだん全文版)」がある。
6 源平の合戦の中でも、源義経(牛若丸)の生い立ちから生涯の話として、①「伏見常葉(ふしみときわ、後篇は「田歌」)」.②「靡常盤(なびときわ)」.③「常葉問答(ときはもんどう)」.④「笛の巻」.⑤「未来記」.⑥「鞍馬出」.⑦「烏帽子折」.⑧「山中常盤」.⑨「那須与一」.⑩「腰越」.⑪「堀川夜討」.⑫「四国落」.⑬「静(しずか、胎内探)」.⑭「富樫(とがし安宅、勧進帳)」.⑮「笈捜(おいさがし)」.⑯「八島(屋島軍)」.⑰「岡山」.⑱「清重」.⑲「和泉が城」.⑳「高館」.⑳「含状(ふくみじょう)」等の物語がある。
7 源頼朝の時代に起きた曽我兄弟による仇討事件の話は、①「一満箱王」.②「元服曽我」.③「和田酒盛」.④「小袖曽我」.⑤「剣讃嘆(つるぎさんだん)」.⑥「夜討曽我」.⑦「十番切」の物語に分かれている。
8 蒙古襲来のあった鎌倉時代の国難の話として「百合若大臣」物語
9 太平記物として、南北朝時代の後醍醐帝の一の宮である尊良親王の話で、幸若舞曲の中でも後で付け加えられた曲目の意としての「新曲」物語
10 前記四十八曲の外、豊臣秀吉が自分の手柄話として幸若大夫に作曲を命じ創作させた幸若舞「三木記」「本能寺」「金配」の物語がある。
(この時、能の金春流に対しても「明智退治」「吉野詣」など5曲の作曲創作を命じている。)
秀吉の命を受けた名人小八郎吉音(幸若小八郎五代吉信)は、幸若一族の忠右衛門と同弥助の三人で相談し、これら三曲の節を付けた。 (幸若家文書)
「三木記」は、天正八年(1580)の別所長治との戦いを題材にした物語である。
「本能寺」は天正十年(1582)の本能寺の変を扱ったもので、曲名を「本応寺」とする舞の本も伝わっている。(古典研究会一九七三・笹野一九四三文書)。
また、「金配」は秀吉が金五千枚・銀三万枚を諸侯に配ったと言う(「太閤記卷七」や「言経卿記天正十七年九月十四日条」)の記述を題材とする物語と考えられるが現存していない。
秀吉の金配りは「御湯殿の上の日記」等の諸史料によれば天正十七年(1589)五月二十日のことで、聚楽第の、中二町の間に金銀を敷き並べ目も眩めく中で六宮智仁親王・織田信雄以下の人々に三十七万五千余両の金銀を配ったといういかにも秀吉らしい話である。
これら三曲の成立年代について、須田悦生氏は文禄三年(1594)に比定している(須田一九八七文書)。幸若小八郎吉音とは、小八郎家五代吉信のことで名人呉竹と呼ばれた
以上、織田信長や徳川家康を始めとした戦国武将等の皆が、幸若大夫を宴席等に呼んで日本の先人達の活躍物語を楽しみ歴史の勉強をしていたのである。
源氏伝来の宝刀「膝丸」「髭切」の話として「剣讃嘆(つるぎさんだん)」
「越前幸若舞(町の歴史)YouTube」<越前町幸若文化情報センターから参照>